「戦争法対平和法」という不毛の対立ー細谷雄一『安保論争』を読む➃

この本で著者が言いたかったことは最終章の「日本の平和主義はどうあるべきかー安保法制を考える」にある。まずここでは集団的自衛権をめぐる戦後政治を俯瞰するなかで、1981年の「集団的自衛行使の全面禁止」に至る経緯を述べているくだりが注目される。この年の結論に至るまでは、集団的自衛権の部分的容認=部分的禁止といった玉虫色の解釈だったのを、1972年から10年程の歳月をかけて、内閣法制局が全面禁止論へと変えていく様子はなかなか面白く読み応えがある。結果的に内閣法制局の硬直的で官僚主義的な行き方に風穴を開けようとしたのが、あの民主党政権であったというのは、今となっては興味深い。尤も、その民主党が野党になってくるりとその主張を180度変えてしまったことは、何ともはや情けないといえよう▼次に、「平和国家」日本をめぐる安全保障論のところでは、今回の安保法制論議が本質的な議論をせぬまま、不毛のイデオロギー闘争になって行ってしまった経緯を詳しく述べており、共感する。本来ならば、「平和を維持して実現するために必要な手段として、どのような安全保障政策と安全保障法制が必要かをめぐっての論争が行われるはずであった」が、「安保関連法を批判する多くの人々は、あたかも自分たちが平和を象徴し、そして政府が悪意を持って好戦的に戦争を求めていると、意図的に誤ったメッセージを送り続けた」という指摘が特に印象深い。とりわけ「戦争法」なる言葉を濫用した勢力の罪は深いし、それにまんまと乗っかった一部メディアの見識も問われよう▼細谷氏は「法的安定性を尊重しながら、時代状況に応じて柔軟に憲法解釈を変更することが、なぜ立憲主義に否定や破壊になってしまうのだろうか」と問いかけ、自ら「理性的な憲法解釈というよりも、軍事力それ自体を悪と見なして、それを廃棄させようとする運動であり、特定の政治的イデオロギーではないのか」と答える。これに私は全く異論はない。ただあえて付け加えるとすれば、法案成立までの過程で強行採決した(厳密には野党の「採決強行阻止」)政府側の姿勢の在り様と混同されたきらいがあるのは残念だとは言える▼そして著者は「なぜいま安保関連法が必要なのか」という素朴だが、重要な問題提起をするのだ。野党の「戦争法」対政府与党側の「平和法」という根源的で不毛の対立がなぜ起こったのか。ここは、「戦略の逆説」という概念を、前提として理解しなければ、結局は安保法制の必要性を理解できないと、議論を展開していくのだが、引き続き詳細に追っていきたい。(2106・9・15)

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