(182)成仏の根源の法はどこにあるかー志村勝之『こんな死に方を…』を読む(6)

お題目(南無妙法蓮華経)をご本尊に向かって唱えることが、どうしてすべての源泉になるのか。悩み苦しんだ時も穏やかな時も、嬉しいときも悲しいときも、仏壇に向かって正座して拝むことがすべての原点だー様々な機会に師匠から教わった。また身近な先輩たちからも陰に陽に助言を受け、また私自身がやがて後輩たちに伝えるようになった。紙に書かれたものでしかないものに向かって唱題することが、なにゆえに偉大な力をもたらすのか。単に自身の変革だけではなく、他の存在にもその影響を及ぼし、やがて周りの社会変革、そして国家から世界の改革へと繋がっていくのか。50余年の信仰の中で、私は現実にあらゆる難問に直面してきた。それらを一つひとつ失敗もしながら、それなりに解決をして、この答えを体得してきた。つまり、一つはわが身の動かぬ体験から。今一つは納得せざるを得ない哲理の展開を知って▼初信の頃に手にした書物にはこうあった。「南無妙法蓮華経の御本尊は、大聖人が万人に仏界が具わるという法華経の経文上に説かれた教えを深く掘り下げて、文底に秘められていた成仏の根源の法そのものを直ちに説き示し、私たちが現実に成仏するために実践できるよう、具体的に確立されたものです。御本尊は、凡夫の私たち自身の仏界を現実に映し出す明鏡でもあるのです」、と。ここでいう仏界とは人間としての最高の境涯を指す。成仏とは、ひとが死んでからいわゆる「仏様」になることではなく、生きている中での「最高の人格者」になることであろうか。わたし風には「能動的な覚悟者」と言い換えているが。「成仏の根源の法」「明鏡」とされる南無妙法蓮華経の御本尊とは、ひとの命の奥底に内在するものを具象化したもので、それはまた宇宙に遍満するリズムとも一致すると理解している▼仏教では、眼、耳、鼻,舌、身という五つの感覚器官を五識とし、その器官の作用を統合するものとして第六識の「意識」を考えている。そして、さらに、第七識として末那識、第八識として阿頼耶識を位置付けている。末那識とは深い思考をする理性的な意識をいい、阿頼耶識とは更にその奥にあって人間生命の仕組みを見極めようとする精神の働きと言える。大乗仏教では当初そこまでで終わっていたが、天台仏教では、第九識として、それまでのあらゆる精神の働きを生かす本源としての心の実体を、阿摩羅識(根本浄識)と名付け、新たな展開をしていった。日蓮仏教ではそれを「九識心王真如の都」と誠に劇的な表現がなされる。御本尊を信受する人々の胸中御深くにあるこの部分こそ南無妙違法蓮華経そのものだ。唱題をすることによって、いわばこの部分が共鳴し、力が発現される。自身という主体も、またそれを取り巻く客体も、その影響をうけざるをえない。それが起因となって、自身の幸福から始まり、全ての環境の好転へつ繋がっていく。この辺りの仕組みについては、池田SGI会長と英国の歴史学者・アーノルド・トインビー氏との『二十一世紀への対話』〈1975年)が極めて参考になる。▼トインビー氏が「人間精神の意識下にある淵底の究極層とは、じつは全宇宙の底流に横たわる”究極の実在”とまさに合致する」といい、それに対し池田会長が「第九識の根本浄識とは、個々の生命の本源的実体であるとともに、宇宙の生命と一体となったものであるとされています。また、前にもふれましたが、博士のいわれる”究極の精神的実在”は、仏法でいう宇宙の森羅万象の根源たる大生命ー宇宙生命ーにあたると考えられます」と応じている。「宇宙の根源」こそ、すなわち南無妙法蓮華経だと確信する。対談が行われた時点で、老いた西洋の名だたる歴史学者と東洋の若き日蓮仏教のリーダーとが交わした対話の深い意味について、私は表層的な捉え方しか出来ていなかった。この価値を十二分に知るに至ったのは、ごく最近のこと。しかもそれは、れっきとした異教徒の書いた解説書がきっかけ。思えば恥ずかしい限りである。(2016・10・29)

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