「ホンマは好きなくせして」ー井上章一『京都嫌い』を読む

 『京都嫌い』なる新書の存在を知ったのは、発売間もないころに、ラジオでの著者のインタビュー番組であったかと記憶する。井上章一(国際日本文化研究センター教授)さんが語っていたある部分で笑ってしまった。彼がいかに京都嫌いなのかの思いのたけを語った後に、その本を平積みにした京都の本屋さんで、「ホンマは好きなくせして」とのフレーズが添え書き風に、張り出されていたことを発見したと紹介していたのだ。この本屋の店主はなかなかの優れものである。ただし、何故か私は読む気があまりせず、放置していた。で、このほど京都で顧問先の京都支部の催しがあり、スピーチをせざるを得ないことになって、急ぎ読むことにしたしだいである。新快速で京都までの1時間半でほぼ読めた■簡単にいえば、ここで著者が嫌いだとする対象の京都というのは、洛中の人を指す。ものの本というより、ネットで調べたところ、洛中とは、北は北大路から南は九条通まで、東は高野川・鴨川(東大路)から、西は西大路通までの地域を云うとのこと。要するに平安京時代の京城内を指し、最も中心部を意味する地域のようだ。中国の洛陽に対比させている。著者は、嵯峨生まれで今は宇治に住む。そういった京都でも周辺地域は洛外といって差別の対象になってきたことの怨念の限りを実に面白いタッチで描きそやす。「洛外でくらす者がながめた洛中絵巻ということになろうか」と、まえがきでは綺麗に書いているが、なんのなんの、私にいわすれば、京都とは名ばかりのよそもんが、ホンマの京都人から蔑まれたいけずの限り、ということになろうか。これまで色々と京都を案内したり、その歴史や見どころを描いた本は数多あり、私も何冊か読んできたが、これはまた異色の本である。まあ、あまり京都を知らない人にはお勧めしない。いきなりこんな風な京都観を持たれては、どちらにとっても気の毒だからだ。むしろ京都通を自負している方にはお勧めしたい■先日、私が親しくする新聞記者が冬場に京都に取材にきて、町家風の旅館に泊まった。その寒さにあやうく風邪をひきそうだと狼狽(うろたえ)てメールをしてきた。町家に憧れるのもほどほどにしないと身が持たないかもしれない。麻生圭子さんの『京都で町家に出会った。古民家ひっこし顛末記』『京都暮らしの四季』などといった女子好みの本を読んできた私だが、これらは歯応えはあまりなかったと記憶する。それにしても私のように、姫路生まれの神戸育ちからすると、京都は羨ましい限りだ。世界文化遺産・姫路城を持つ姫路は観光地として進境著しいとはいうものの、京都とは比べるべくもないし、これから私が売り出しに取り組もうとする淡路島にいたっては逆立ちしても及ばない。これは、光源氏が島流しされた地として、須磨や明石を『源氏物語』で描いた紫式部のせいではないかと僻みたくもなる。尤も、「大阪では京都に近いことが、しばしばからかいの的となる」「京都をみくびる度合いは、大阪が一番強い」などといったくだりに出会うと心騒ぎ、我が体内の京都心酔の度合いの高さがしれようというものだ■軽く読み進めて行ったなかで、歯応えを感じたのは第四章「歴史のなかから、見えること」。とりわけ、「京都で維新を考える」のくだりは実にすっきりした。「フランス革命とちがい、明治維新は無血うんぬんという話に、私はなじめない」とあるのに、正直に言ってかつての私なら反発しただろうが、今では全く同感する。幕末の京都を幕府の側からまもっていたのが会津藩士であったことや、明治維新の延長線上に、あの大戦での敗戦があったと位置づけ、「維新のおたけびが、ああいう膨張をあとおしし」、「江戸時代にためこまれたエネルギーがいきおいよくあふれだした」との史観にも共感する。NHKが先年放映した大河ドラマ『八重の桜』で、会津小鉄会の存在が黙殺されたことに憤りを感じて、あえて書きとどめたいなどとしているところにも。最後に、著者は、決して京都・洛中については、ホンマにすっきゃないことを感じた。お好きなのは洛外を含む広い意味の京都であるということを、あえて付言しておく。(2017・5・21)

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