読まぬ阿呆に読むあほうー中路啓太『もののふ莫迦』を読む

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」ー読み進めながら、ご存じ阿波踊りの一節をしきりに思い出した。読まぬ阿呆に読む阿呆、同じ阿呆なら読まなきゃソンソン、と。久方ぶりに、「巻を措く能わず」と形容したくなるホントに面白い小説に出くわした。中路啓太『もののふ莫迦』である。滅法面白いからあっという間に読み進めると言っておきながら、「読む阿呆」とはなんだと訝しがられるかもしれない、その理由の一端は後に触れる。この小説、実は私が青春期に記者をしていた『公明新聞』に連載された小説である。これまでも同新聞は、火坂雅志の「安国寺恵瓊」ものや、葉室燐の「赤穂浪士」にまつわるものなどの歴史小説で数々のヒット作を世に提供してきた。今度のものは「加藤清正」と対峙する架空の人物・岡本越後守が主人公。中路さんという作家は東大の人文社会系研究家博士課程を中退し、38歳頃に作家デビュー。この10年余りで、吉川広家、毛利勝永らの歴史上の武将を取り上げたり、「槍の勘兵衛」や「もののふ越後」などの新しい武士像を作り上げてきた。これだけ面白い小説を登場させながら、新聞小説の場を提供しただけの媒体は、本になっても全く世間に紹介されないというのはちょっぴり悔しい思いもする▼小説の時代背景は、豊臣秀吉による統一がなる直前から「関ケ原」辺りまで。前半の舞台は九州は肥後の国で展開。主人公「越後守」がとある村で破天荒そのものの、ものふぶりを発揮、作中世界に一気に引込まれる。後半は朝鮮に場所を移し、秀吉の命を受け半島に出兵した加藤清正らの壮絶な戦いぶりが手に汗握らせる。しかも、加藤配下から朝鮮側に寝返った「越後」との息詰まる死闘が繰り広げられ、みじんも飽きさせない。この流れの中で、「もののふ」をめぐっての生き方の是非が繰り返し提示される一方、男勝りの姫・たけと二人の「もののふ」との愛憎が基底部を深く愛おしく流れる。誰もが歴史上の史実として大まかに知っているストーリーが壮大な筆致で語られる。と、同時に作りごととしてのお話が巧みに織り込まれて息を吞みつつ推移する。いやはや、たまらなく面白い筋立てだ▶さて、「もののふ莫迦」で作者・中路さんは何を言いたかったか。ただ単に面白いといって済ませられないだけの芯の強さが読後にずしりと残る。この小説の前半の山場、清正と越後守との対決場面。「聞かせてもらおう。そちがさきほどから申しておる、そのもののふの道とはなんだ」と清正が訊く。これに対して越後は「恥を知ることにござりまする」と。この小説に一本通る太いテーマが、今の世の中、「恥知らずが多すぎるということ」だろうと、つまり「もののふ」がいないことに尽きるとの問題提起である。中路さんは、現代における「恥の喪失」を憂え、ほんものの人物を見いだせない社会状況への警鐘を乱打したかったのではないか。倫理観が問われるような事件がおきても、弁明の中で「恥ずかしい」という言葉を聞くことは稀だ。教師や警察官としてあるまじきことを行っても、また大学教授や医師として本来してはならないことをしても、彼らから出て来る言葉は「申し訳ない」。「恥ずかしい」という言葉は殆ど出てこない。「申し訳ない」とは、周りへの迷惑に謝ったとしても、自らのあるべき姿に言及していない。かくいう私が生きてきた政治家の世界でも、ジャーナリズムの世界でも同様だ。この小説を読んでいて、ただただ無性に恥ずかしくなる自分を感じた▼肥後・熊本での加藤清正の人気は圧倒的だ。姫路はお城が世界文化遺産であっても、関係する歴史上の人物で、清正を上回る武将や城主を持たぬ点で劣る。そう思ってきた私だけに「清正」が一層まぶしく見える。この小説で「清正」を既成の、出来合いのリーダーとしておき、それのアンチテーゼとしての「肥後守」と比べてみる。最後のクライマックスにおけるヒロイン(男勝りの女性、たけ)の両者への思いー「越後守がもののふの道を極めるには、清正もものふの道を極めなければならない。(中略)越後守と清正の話し合いは、ある種の和解とならなければならないのだ」は、作者の「清正」に代表される既存のリーダーへの妙な気配りのように思えてしまう。結局は舞台回し役の「粂吉」(正念坊)という、もののふならぬ、”ふ(歩)そのもの”のというべき状況追従型の男に、私を始め通常の読者は自分のありのままの姿を投影せざるを得ない。はらはらドキドキの戦闘場面や、越後守とたけの「戦場での恋」に興奮しつつ、魔法にかけられたように読み終えた。魔法がとけると、なぜか悲しく虚しい思いにもなってしまうのは何故か。作者が創作した「物語部分」がいささかリアルさが欠けるところに起因するのかも。このあたりが、読まぬ阿呆に読む阿呆というフレーズを思いつくことに関係してくるのかもしれない。とはいうものの、朝鮮半島を舞台に、豊臣軍と明軍との攻防は、今の東アジア政治を想起させ、想像の翼が新たに羽ばたき始めてやまない。                            (2017・7・21)

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