組織永続のための徳川家来たちの忠義 (20)

忠臣蔵のストーリーは、赤穂藩の大石内蔵助以下の47人が、主君の仇を晴らすため、艱難辛苦の果てに見事に吉良上野介を討つというもの。だが、それは表のことで、実は裏は全く違う、と竹村公太郎氏はその謎を「地形」で明かす。面白い。その謎解きの結果は、徳川幕府に吉良家を抹殺したいとの永年の怨念があり、たまたま浅野内匠頭が不祥事を起こしてくれたため、それを利用して巧みに赤穂浪士たちを庇護の下におき、一方的な襲撃を可能にしてやったというのである。それは事件後、吉良家の血筋を一人も残さないほど徹底的に滅亡に追い込んでいったことで解る、と。それは、徳川幕府にとって重要な泉岳寺に赤穂浪士たちが手厚く埋葬されたことなど、巧妙な仕掛けが施されていることでも解る、と。なるほど、そうかと納得してしまう。

では、その謎の「地形」とは何か?それは、1300年代からの矢作川の干拓の歴史に遡る。矢作川とは今の愛知県岡崎市を流れる川だ。この川の河口に吉良家、上流部が徳川家の領地という風に隣接する。ここでは300年に及び塩田をめぐっての干拓争いが繰り広げられた。家康が力を持って徳川家が台頭するまでは、吉良家の方が圧倒的に優位にたっていた経緯がある。しかも、この力関係が逆転したあとも、吉良が対朝廷の関係において優位にあったため、征夷大将軍の地位を世襲するには、徳川家は隠忍自重する必要があった。それがようやく果たせるチャンスを、赤穂義士たちが作ってくれたというのである。

こういう経緯を知ってみると、なるほどと思える。前回見たような赤穂浪士たちへの様々な配慮も、吉良への怨念を果たす徳川の意志の表れとみると謎が解けてくるわけである。これまでは、江戸の危ない中心部に浪士たちが多く潜んだことはその大胆さを示すものだとか、吉良邸を寂しいところに移したのは、むしろ吉良が防御しやすいようにしたためであるとかとの俗説が支配的だった。しかし、徳川対吉良の対決の歴史を知らされてみると、見方がぐっと変わってくる。

加えて、泉岳寺という家康が創建した寺に埋葬したことは、この討ち入りを忠義の物語として仕上げ、日本国中に広めていくためであった。その宣伝のために、わざわざ高輪大木戸を泉岳寺のそばに移すということまでやってのけているという。当時の旅人が泉岳寺により立ち入り易いようにした(全国への宣伝効果を狙って)ということを指摘する。このことは、同時に徳川家にとって真のねらいであった「吉良家の取り潰し」の企みが秘匿できる(赤穂浪士への賛嘆の影に徳川の狙いは隠せる)からだという。

まことに、竹村さんの推理は巧みである。つくづくなるほど、と感じ入らされる。私は、ここまでして徳川幕府は、自らの体制を永続可能なものにしていく配慮を怠らなかったということに驚愕する。家康は自らの世襲体制を出来る限り長きにわたって続けさせるべく、ありとあらゆる手立てを講じたことはよく知られている。しかし、それが実際に、260年もの長きにわたって存続しえたのは、その後継者たちの壮絶なまでの思いがなければ到底実現しえない。家康が逝って100年ほどの歳月が流れた後に、その思いを果たすために永年の宿敵である吉良を用意周到なやり方で巧みに潰してしまい、その体制の永続化をはかったとは、凄い。むしろ、この徳川の忠義の方が、赤穂の浪士たちの忠義よりも重く深いものがあり、われわれ現代に生きるものが学ばねばならないと思う。

つまり、主君がしでかした失敗の汚名を雪ぐための隠忍自重の浪士たちの闘いも勿論、称賛に値する。だが、それを巧みに利用して、徳川家の組織温存、発展のために、家来たちがその忠義を創建者のために尽くすということは、もっと大きいことではなかったかと、思われてならない。

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