みたびの80年の呪縛ー加藤典洋『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』を読む

新しい年が明けて、今年は平成30年。同時に明治150年となった。私が大学4年の時(昭和43年)が明治100年だったので、感慨ひとしおだ。この一年の自身のテーマとして「明治維新」とは何であったか、「近代日本」はいかにして形成されたかを追うと共に、これからの日本はどうなるのか、いや、どうするのかを考えていきたい。年末に毎日新聞の書評で知って以来、加藤典洋『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』に嵌った。これまで私が温めてきた考えを補足修正してくれる格好の本と思われる。ただし、全体で4つのパートに分かれているものの、表題に直結するものは第一章「二十一世紀日本の歴史感覚」と第四章「明治150年の先へ」だけ。挟まれた残りの二つの章におさめられたものは直接は関係ない。本作りのために必要だったのだろうが、こういう編集の仕方をされるとがっかりする。尤も、それゆえに息抜きが出来て読み易くなっているのかもしれない■この本の狙いは、江戸末期から明治維新の際と、アジア太平洋戦争の敗戦に至る前夜の昭和維新の折りに、共に起こった皇国思想(尊王攘夷思想)の由来を確認することである。そして、それらが80年の歳月を隔てていることから、やがてあと7年くらいで二度目の80年が経つとして、同思想が三度目の鎌首をもたげようとしていることに注意を喚起しているのだ。加藤氏の力点は、明治維新後も、昭和の戦後も、二度とも「皇国思想の根を断ち、その克服をめざすことが、少数の試みを除いて、ほとんど誰によっても行われなかった」ことにある。この本では、丸山真男、山本七平らの試みを宣揚する一方で、加藤氏自身の新しい着眼点に大いなる自信を披瀝している。そして「現在私たちの目にしている狭溢な排外思想とすらいえないヘイトクライム、また『うつろな』保守的国家主義思想の跳梁」が、見えないのかとの警告も■明治維新後に、あれだけ騒がれた「攘夷」が嘘のように後退し、反省もないままにいつの日か顧みられずに、「文明開化」の流れに押し流されたこと。そして昭和の戦争後に、負けたアメリカへの掌かえす「対米追従」の順応ぶり。この二つは共通している。この辺りを加藤氏は克明に追いかけ、読むものを惹きつける。前者では福沢諭吉と勝海舟のせめぎ合い。後者では丸山真男、山本七平らの論考の価値を改めて知って知的刺激を満足させられる。かつて同世代の歴史家松本健一氏が「三度の開国」を世に問い、平成の新憲法の必要性を訴えたが、ある意味で真反対の主張とも言えよう■私はこれまで幾度となく明治維新いらい40年ごとに日本社会が変革期を迎え、上昇と下降を繰り返してきたことを取り上げてきた。このままいけば、やがて日本は三度目のどん底を経験するはずとの予測に同調し、であるがゆえに、真っ当な国家目標(経済、軍事に偏重しない文化国家)を掲げるべしと訴えもしてきた。そこには、過去二回における皇国思想の位置づけが足らなかったとの思いが少なからずしてくる。前を見るばかりで、過去の失敗への地に足つけた反省がなく、歴史の顰に倣う姿勢が足らなかった、と。2025年あたりが「三度目の80年」の到来になるが、その時を漫然と迎えるのではなく、対抗する思想的準備を急がねば、と思うことしきりである。加藤氏はそういう意味での共戦の友、同志足りうるかどうか。同時代を生きてきた、この道の先達ではあるが、正直一抹の心もとなさを感じている。それは何に由来するのかも探りながら、これからの私の思索を重ねていきたい。(2018・1・6)

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