忘れられた本来の役割を覚醒させるー島田雅彦『深読み日本文学』を読む

島田雅彦という作家はNHK好みなのか、テレビにラジオによく登場する。軽いノリとイケメンが影響してか、私的にはあまり好みではなかった。だが、この本(『深読み日本文学』)はそうした私の”僻み根性”を一掃するに足る面白い中身を持った本である。まず序章の「文学とはどのような営みなのか」に強い共感を覚えた。昨今のグローバル化の進展の中で、効率主義、成果主義がはびこり、人文社会科学を軽視する傾向が極めて強い。私の親しい古田博司筑波大教授によると、その分野はもはや風前の灯で、次つぎと講座は縮小されていくと聞いている。こうした傾向を冒頭で島田さんは厳しく断罪する。先の見通しが立たない現代だからこそ、未来に起きる予測できないことに備えるためにも人文社会系の知識を学ぶ必要がある、と。「(その分野の)教養のない人間が政治家になると歴史認識において大きな躓きを招いてしま」いかねないと忠告し、「エセ文学的な『言葉の悪用』をする人たちを批判するのが、文学の本来の役割」だと言い切り、小気味いいばかりだ。政治家としては文学に関心を持ってきてせっせと本を読んできた身としては、まさに我が意を得たりというところである■日本文化の基本概念が紫式部の『源氏物語』に流れる「色好み」であろうことには誰も異論はない。島田さんは、そこに端を発した伝統的傾向が江戸時代に受け継がれる経緯を分り易く説く。天皇を中心とする貴族たちの宮廷から、町人たちの遊郭へと担い手は移り、物語の内容も「もののあわれ」から、より下世話な快楽主義へとの変化は、時代を貫いて伝わって来る。そしてそれが千年経った20世紀において、谷崎潤一郎の文学に体現される、と。「エロス全開ースケベの栄光」といった直截な命名ぶりには、いかにも著者らしさが窺え、感動する。東洋・日本の光源氏と西洋・スペインのドン・ファンにおける「女たらし比較」論は実に面白く読ませる。「狩猟採集民族系」対「農耕民族系」との捉え方は、前者があらゆる世界に「敵意」をばらまくのに対して、後者は「友愛」を運ぶとの仕分けを生み出し、味わい深い■江戸期の井原西鶴『好色一代男』は、世之介54年にわたる性遍歴を描き出して、『源氏物語』のパロディだ。数年前に現代語訳をした島田さんが「フィクションとはいえ、『人間はここまでバカになれるのか』と、呆れるのを通り越して一種の尊敬の念を抱かざるを得なかったのも事実」としているのに、私としては笑いを禁じ得なかった。近松門左衛門の『曽根崎心中』は、心中を様式美にまで高めていったとし、自殺を流行らせる傾向をヨーロッパのゲーテの『若きウェルテルの悩み』と対比させているところも読ませる。さらに西鶴や近松の手法が現代のライトノベルに受け継がれているとの捉え方も。谷崎潤一郎の作品を読むためのポイントのくだりも面白い。➀根っからのスケベであってほしい➁悩める知識人であってはならない➂常に何かを崇拝し続けるということ。しかもその対象をコロコロ変えていかねばならない➃戦争といっさい関わりをもたない➄老いてなお悟ってはいけないー「不道徳講座」の見本みたいなまとめ方である■もちろん、こういった「チョイ悪爺」が喜びそうな日本文学の伝統ばかりが書かれているのではない。「恐るべき漱石」や文学上の奇跡としての樋口一葉についてのくだりも惹きつけられる。さらにナショナリズムを人類の麻疹として捉えたり、戦中、戦後はどのように描かれたかとの視点も興味深い。生真面目な生き方に憧れてきた私としては、漱石や鴎外などといった正統派の文学に偏った読み方をしてきた。島田さんがあとがきで「文学とは時に不徳を極めた者を嘲笑うジャンルであり、権力による洗脳を免れる予防薬であり、そして求愛の道具であった。(中略)バラ色の未来が期待できない今日、忘れられた文学を繙き、その内奥に刻まれた文豪たちのメッセージを深読みすれば、怖いものなどなくなる」と結んでいる。こういう境地に達していない「浅読み」の爺さんとしては、日暮れて道遠しであり、老いてなお怖いものだらけであるのは切ないばかりだ。(2018・2・19)

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