(246)すくすく育ちすみやかに老いた「戦後」ー加藤典洋『敗者の想像力』を読む

この本の指向するところは極めて深く重い。わたしより少し若い、いわゆる団塊の世代に属する著者だが、こうした論考は日本社会ではこのところ忘れられているように思われる。昨年末の新聞読書欄で知った、加藤典洋『敗者の想像力』である。著者の言わんとするところは、日本人は先の太平洋戦争で敗れ、未だに真の意味での独立を達成していないということを自覚していない。占領期が終わって66年程が経っているのに、皆知ってか知らぬか、日常的には何も違和感を持っていないということに尽きよう。ゆでガエルの挿話が分かりやすい。「カエルを入れた水槽を温め、徐々に温度をあげていく、すると、そこから飛び出す機会を見つけられずに、カエルはついにはゆであがって、死んでしまう」との話である。「日本は未だ米国に占領されており、独立していない」のに、気づかず、ゆで上がってきているということなのだ■冒頭にカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を用いつつ語っているところは、クローン人間をめぐっての”私の浅読み”(過去に取り上げた)を自覚させられたうえに、「独立と占領」について大いに考えさせられた。ショックを受けるに十分な内容で、ぐいぐい引き込まれた。更に、日本には占領期の経験を描く文学作品が少ないのはなぜかとの指摘も興味深い。「日本は敗戦を終戦と言いかえたし、占領軍も、自分を進駐軍と言いかえた。占領をするものとされるものの、あうんの呼吸の協力があった」との記述は言い得て妙である。敗戦、占領というマイナスイメージを押さえることが両者にとって都合が良かったということだろう。というように様々な観点から日本は本当の自画像を知らないでいるのかもしれない■ただ、一方で、加藤氏のような戦後史の捉え方を「自虐史観」として切り捨てる立場についても触れざるを得ない。この主張をする人々は、概ね「戦前への回帰」を志向し、戦後の支配的潮流となった「欧米的民主主義」を否定的に捉えてきた。いささか極端に言えば「皇国史観」といえ、民族の誇りを前面に押し出す考え方である。ある意味で戦後の日本は、まさにそうした二つの史観の対立、抗争の時代であったと言えよう。戦後そのものが人生のすべてである昭和20年生まれの私にとって、少年期から青年期にかけては文字通り「民主主義」の申し子であった。無批判に”戦後の甘い果実”を享受してきた。しかし、長じてはそんな境遇に疑問を抱くようになったというのが偽らざるところだ■戦中派の思想史家である橋川文三氏は、敗戦前の20年余りが戦禍の連続であった日本を、「ながいながい病床にあった老人」と捉え、敗戦をその老人の死と表現した。それを引用した後、加藤さんは「戦後の時代にやってきたのは、新たに生まれた早熟な子が、みるみる育ち、しかし、すみやかに年老い、もう一度老人になって再度、『ながいながい病床』につくようになった、という経験だった」としていることは極めて印象的である。いかにも、という自虐性は感じるが、しかし、確かにすみやかに年老いてしまって70歳を超えた身として笑ってしまうほどの共感も覚える。大江健三郎と曽野綾子という今に強い影響力を持つ文人同士の”暗闘”ともいうべき事件の存在などの事実も興味深い。他に手塚治虫の『鉄腕アトム』と宮崎駿の『千と千尋の神隠し』の漫画・アニメの世界の比較やら、日本のそれとアメリカのディズニーのものとの比較など極めて面白い。さらに、映画『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』論などなかなかに読ませる。こうした一連のテーマを取り上げているのだが、若干消化するのに苦労することを告白せざるを得ない。(2018・3・4)

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