(274)フランス柔道の父は姫路の人ー吉田郁子『世界にかけた七色の帯 川石酒造之助伝』を読む

姫路の灘菊酒造といえば、名酒「灘菊」の蔵元として遍く知られているが、川石酒造之助なる人物はあまり知られていない。「フランス柔道の父」というからには勿論、只者じゃない。明治32年に姫路市手柄で父孫次郎の五男として生まれた。この孫次郎なる親父さんは、6人の男の子のうち長男、三男、五男の3人に「酒造」の字をあて、それぞれ酒造治、酒造作、酒造之助とつけたという。よほど酒造りに執心しておられたようだが、ご本人は味醂を製造(長男が継ぐ)。三男が酒造業を起こした。現在の同酒造の社長・川石雅也氏は三代目になる。流石に「酒造」はその名についていない。この人、私とは同い年。入学に余計な時間がかかった私は慶応の一期後輩にあたるが、同期もどきである。姫路に私が戻ってきた30年前辺りからなにかとお世話になってきた、楽しい友人でもある。その彼から吉田郁子『世界にかけた七色の帯  フランス柔道の父  川石酒造之助伝』なる本を頂いた。一読、こんな人が姫路にいたんだ、と誇らしく思うとともに、柔道について改めてあれこれと考えるきっかけとなった■柔道との個人的思い出といえば、慶応時代日吉の柔道場で体育の時間に、誰かしらにありとあらゆる技で、投げ飛ばされた痛い思いしか残っていない。黒澤明の名作・映画『姿三四郎』は見た記憶はおぼろげながらある。世界柔道選手権大会が終わったばかりだが、昨今の柔道に私は批判的だ。国際大会でも、大事な礼もろくすっぽしているようには見えず、マナーがいまいちに思われてならない。大体、畳の上でやらないのはおかしいなどと、古い日本人的感性が鎌首をもたげてきてしまう。そもそも日本柔道斜陽化の分岐点はフランスのへーシングに敗れた時から始まっていると私は思い込んできた。その手強い相手・フランス柔道を育てたのが姫路の男で、しかも友人の親族だったとは驚きだ■酒造家の五男に生まれた川石酒造之助は、名前とは全く別の人生を歩んだ。早稲田大学に入り、海外雄飛に憧れつつ、政治家の道を志したものの、北米、南米、英国を経てフランスに落ち着くまでにその目指すところは自ずから変質していった。若き日に講道館で身につけた柔道を通じて、行く先々で柔道クラブを設立、最終的にフランス・パリで見事な花を咲かせたのである。彼の柔道教授法は、技の名前の番号化と帯の色の多様化を中心としたもので、メトード・川石(川石方式)と呼ばれたという。上達度を掴むために、白、黄、オレンジ、緑、青、茶、黒の、七色の虹のように帯の色を変える方法を取り入れたこともユニークだ。外国人が柔道を習得する上で、極めて合理性に富んだ独特のものだったと思われる■フランスと柔道の結びつきの背後にいた姫路出身の早稲田マン。この本のカバーの裏にある写真をみると、一見、かの政治家の浅沼稲次郎風の偉丈夫に見える。柔道を通じての国際交流に見事な仕事をした人だが、私の勘では政治家の道に進んでいたよりも、この道の方が合っていたかもしれない。ただ、講道館との軋轢があって、今一歩これほどの足跡がある人物が日本で知られてこなかったことも、この本から伺えた。著者の吉田郁子さんは、パリの地でのある子供との出会いから、フランス柔道にカラフルな帯の色があることを知った。そのことが発端となってこの本を書いた。加えて酒造之助の先妻(柴田サメさん)の故郷・岩手における知人ということも手伝った。女性らしい繊細な目線が随所に行き届く。先妻・柴田サメさんとの出会いから別れに至る数頁の記述はなぜか心に残る。英国で酒造之助と知り合い、所帯を持ち、やがて一度帰国するも、姫路の暮らしになじめず、郷里に一人で帰る。晩年一人になってなぜか「川石ミキ」と名乗っていたことにさりげなく触れているが、妙にほのぼのとした気持ちになる。川石酒造之助を知って、柔道を見る眼がチョッピリ変わった気がしてきた。(2018-9-21)

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