西洋批判と生命論に共感ー夏目漱石『虞美人草』を読む

平成から令和へ。違う年号を跨いで長かったゴールデンウィークも漸く終わる。この10日間のうちで、読み終えたものは、夏目漱石『虞美人草 』だけ。全集を順次読み進めてきて行きついたもので、これで漸く第4巻目である。明治40年に漱石が朝日新聞に連載小説を書き始めた第1作だとされる。長くて読み辛く、読後感も爽やかさとは程遠い。美文調ではあるが。中国古代に登場する「項羽と劉邦」の逸話における項羽の愛妾・虞にまつわる伝説ー別名ヒナゲシと呼ばれる虞美人草の由来は、それなりに面白い。漱石は題名に困って、偶々花屋の店先で見つけたこの花の名をそのまま拝借したというが、果たしてどうだろうか▼遺産相続をめぐるお家騒動の話であるとか、題名が女性主人公に絡むのはこの小説だけだとか、あるいは京都と東京の二都物語であるといった解説がなされており、読み終えたあとで知るに至った。漱石読破のよすがの一つに私がしている小森陽一と石原千秋のコンビによる『漱石激読』では、「読めば読むほど、怖い」との触れ込みである。残念ながら、私にはそこまで怖さが伝わってこない。せいぜい「読めば読むほど、分からない」ってところか。そのうち、再読、三読すれば、その境地に達するかもしれないが、今のところその気は起こらない▼ただ、二箇所だけは大いに惹かれた。一つは、西洋批判のくだり。留学中の漱石を苦しめ抜いた根源に対峙するようで、興味深い。登場人物に語らせる「無作法な裏と綺麗な表」の「ふた通りの人間」を持っていないと、西洋では不都合だとの指摘は、その最たるものだ。「是からの人間は生きながら八つ裂の刑を受ける様なもの」で「苦しいだろう」とか、「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸(きんたま)をつけた様な奴ばかり出来て」くるといった表現で揶揄しているところは流石に考えこまされる。とりわけ「日英同盟」を囃し立てる当時の風潮に対して、「まるで日本が無くなった様ぢゃありませんか」とまで。西洋文明の激流に飲み込まれるだけではならず、日本古来の歴史と文化、伝統に誇りを持てとの漱石の主張は、百年後の今日一段と読むものの胸に響く▼もう一箇所は、最終章の末尾。生命を巡る哲学が顔を出す。「問題は無数にある」とした上で、どれもこれも喜劇であるとし、「最後に一つの問題が残る」と強調。「生か死か。是が悲劇である」と。しかも「普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である」と述べて、人生最大の問題である死について人は考えることを避けて生きていることに警鐘を鳴らす。漱石は、小宮豊隆宛の書簡で、「最後に哲学をつける。此哲学は、一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する為に全篇をかいてゐるのである」と述べていて迫力がある。最末尾の、ロンドンからの手紙の一文「此所では喜劇ばかり流行る」は、痛烈な西洋へのあてつけか。尤も、悲劇の重要性を強調するだけで、その哲学の中身がもっと披瀝されねば、此所も彼所も喜劇ばかり、ということになりかねない、と私には思われる。(2019-5-6)

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