偏ってはいるが面白い仏教概論ー五木寛之 梅原猛 『仏の発見』を読む

今から8年前に出版された五木寛之の「発見シリーズ」(平凡社)のうちの一冊。五木との対談集で、私がこのほど読み終えたのは今年の1月に亡くなった梅原猛との『仏の発見』である。なぜ、今これを読むに至ったか。親しい友人との対話の中で、彼が今五木寛之の対談ものを読んでいるということを知ったからだ。五木と梅原ーこの組み合わせは、仏教をめぐっての面白い話が読めるに違いないとの予感がした。それなりに的中した。梅原は、この対談の2年後に『人間哲学序説』を書き、西洋哲学批判を初めて鋭く展開したものだが、ここでもその一端が伺え、知的興味をそそられる▼この二人は親鸞そして浄土真宗に深い興味を持ち、惹かれていることで共通する。五木は戦中、戦後の辛く厳しい体験から、自身の罪深い暗さを自覚した。それが人間の罪や罰を考える真宗系仏教との出会いによって「なんとか救われ」、「この方向だと生きていける」との実感を持った。それはドストエフスキー体験とも相乗効果を発揮し、キリスト教と親鸞との対比へと連なっていく。法然、親鸞、蓮如にまつわる記述を読むにつけ、真宗系に潜むいわゆる「文学」志向を感じざるを得ない。私のように若き日に日蓮仏法と出会って、その道をひた走ってきたものからすると、あまりいただけない。人間存在に内在する懊悩の救済ばかりにのめり込むのは、あたかも物書きが身をやつすなかで経験を積もうとするようで、わざとらしいからだ▼二人の口から、日蓮については殆ど出てこない。辛うじて、宮澤賢治の評価について、日本社会では「法華経的なものを抜いていこうとする流れがあり」、「日蓮宗の熱心な信者で、国柱会のメンバーであった」ことなどは取り沙汰されないとしているところだけだ。この辺りについて梅原が、いまの真宗は利他の精神が足りないと強調しているくだりは興味深い。宮澤賢治は父親が熱心な真宗信者だったのに、真宗学に物足りなさを感じて日蓮宗に転向した。これは「利他行の精神は日蓮の思想にあると思った」からだという。賢治については、日常性を超越した感性の飛翔、沈潜などの側面で語られるところは多いが、利他行の観点から論じたものはあまり聞かない。この辺り、もっと突っ込んで語って欲しかった▼梅原という人の凄さは、若い時からいわゆる権威、既成の秩序に真っ向から挑戦し続けて来たことにある。だが、その自分のかつての主張、旧説に誤りがあると分かるとキッパリと否定するところも尋常ではない。「80歳を仕事のピークにしたい」といい、90歳から100歳あたりまで仕事の計画を公言していた梅原は、もっと生きていたら、西洋哲学から人類哲学への飛翔を更に説き、その根源に法華経を置いたに違いないものと思われる。そして仏教への自らの理解の浅さ、間違いを公然と認めたのではないかと確信する。その実現を見ずにこの世を去られたのはまことに残念という他ない。(敬称略=2019-9-4)

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