明治維新をわかり易く説く旅立ち

この夏は本当に雨が多かった。特に8月は毎週末には雨に祟られた。今年の私の家族旅行は(といっても夫婦二人だが)、7月末に一泊二日で萩・津和野へ行ったのだが、この時ばかりはお陰さまで素晴らしい好天に恵まれた。萩は明年の大河ドラマに取り上げられる(萩ゆかりの吉田松陰の妹がヒロイン)とあって、早くも前人気は上々だった。黒田官兵衛という戦国期の武将に続き、今度は明治維新があらためて話題になり、吉田松陰の生涯がなんであったかが人の口の端に上るのだなあ、と思った。そんな折も折、ある勉強熱心な中年の女性から「明治維新ってなんだったのか、教えて」と問われた▼いざ、正面切って真面目に切り込まれると戸惑う。「260年あまりの江戸幕府の鎖国政策が、時代の流れに合わず、帝国主義列強の開国要求に揺さぶられて、国内から若い志士たちの討幕運動が巻き起こった。結果として薩長土肥を中心とする明治維新政府ができた。これは世界史でも珍しい無血革命と位置付けられている」というのが私の取りあえずの答え。しかし、かねて明治維新における「尊王攘夷」や「佐幕派対勤皇派」などを人物相関図を明確にすることで、正確に理解したいと思っていた私としては、これを機会にあらためてこの時期の歴史を整理しなおそうと思い立った▼そこで手にし、読み直し始めているのが松本健一『開国・維新』(「日本の近代シリーズ」第一巻)である。私の現役時代に、松本さんとは太田昭宏氏(国土交通大臣)らと一緒に(三人とも同学年)親しくさせていただいたことがある。尊敬する歴史家のひとりだ。「憲法改正」にも真剣に取り組んでおられ、とくに「第三の開国」論が得意。わたし的には彼の「1964年日本社会変革説」(かつて公明新聞に連載された)に深く共鳴している。この本は、当然のことながら「ペリー来航」から始まるのだが、表紙裏の扉写真・風刺画が印象的だ。江戸庶民の目に映った幕末戊辰戦争の構図が「幼童遊び 孤をとろ 子をとろ」というタイトルで描かれている。幕府方についた姫路藩(注縄の柄)がわたしの目には、侘しい姿に映らざるを得ず、あれこれとその後の日本各地の運命(例えば、姫路は神戸に県中心地の座を奪われた)が連想させられる▼横道にそれたが、「ペリー来航」は1853年7月8日(嘉永6年6月3日)のことだから、それから15年間が明治維新の期間といえる。15年といえば、あのアジア太平洋戦争を別名「15年戦争」と呼ぶ向きがある。昭和6年の満州事変から敗戦の決まった昭和20年までを一括りにするわけだ。同じ15年間だが、明治維新の方は、江戸幕府が倒れて新たな政府が立ち上がるまでの時間をさすだけにイメージ的には明るい。それにつけても僅か15年で日本近代の礎が作られた、というのはまさに脅威的というほかない▼「ペリー来航」は、四隻の武装した黒船に象徴されるように、アメリカの砲艦外交の幕開けだった。約100年かけてアメリカは「日本駆逐」の思いを遂げたともいえるわけで、歴史というものはまことに「禍福はあざなえる縄のごとし」だ。この時に浦賀に真っ先に駆けつけたのが佐久間象山であり、一日遅れて到着したのが吉田松陰とされる。時に松陰24歳。このことが機縁になって彼は、渡航したいとの思いに駆られ、米船に乗り込もうとするも失敗、やがて死に至る因を作ることになる。5年後のことだ。僅か29歳でその後の日本に多大な影響を及ぼす生き方をした松陰。今度こそ、その真髄に迫ってみたいという気がする。正直、未だ再読が始まったばかりだが、鍵になるくだりは、「という時間がはじめは、「開国」路線をとった幕府によって切り拓かれつつも、結局のところ、「攘夷」路線をとる朝廷側の前に敗れていったのはなぜか、という深刻な問題でもある」というところだろう。これからこの本をベースに「わかり易い明治維新解説」への旅に出たい。(2014・9・10)

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