【48】日本近代の礎を培った15年の攻防━━松本健一『開国・維新』を読む

◆明治維新をわかりやすく説く旅立ち

 10年ほど前のことになる。夫婦で7月末に一泊二日で山口県の萩・津和野へ行った。その年は随分と雨が降ったのだが、この時ばかりはおかげさまで素晴らしい好天に恵まれた。萩は翌年の大河ドラマに取り上げられる(この地ゆかりの吉田松陰の妹がヒロイン)とあって、早くも前人気は上々だった。黒田官兵衛という戦国期の武将に続き、今度は明治維新があらためて話題になり、吉田松陰の生涯がなんであったかが人の口の端に上るのだなあ、と思った。そんな折も折、姫路在住の勉強熱心な女性Tさんから「明治維新って本当のところなんだったのか、教えて」と問われた。

 いざ、正面切って真剣に切り込まれると戸惑う。「260年あまりの江戸幕府の鎖国政策が、時代の流れに合わず、帝国主義列強の開国要求に揺さぶられて、国内から若い志士たちの討幕運動が巻き起こった。結果として『薩長土肥』を中心とする明治維新政府ができた。これは世界史でも珍しい無血革命と位置付けられている」というのが私の取りあえずの答えだった。しかし、かねて明治維新における「尊王攘夷」や「佐幕派対勤皇派」など錯綜する人物相関図を明確にすることで、正確に理解したいと思っていた身としては、これを機会に、あらためてこの時期の歴史を整理しなおそうと思い立った。

 そこで手にし、読み直し始めたのが松本健一『開国・維新』(「日本の近代シリーズ」第一巻)だった。松本さんとは私の現役時代に、共に同学年の太田昭宏氏(元国土交通大臣)らと一緒に親しく付き合っていただいたことがある。残念ながら先年亡くなってしまったが、尊敬する歴史家のひとりだ。「憲法改正」にも真剣に取り組んでこられ、とくに「第三の開国」論が持論だった。わたし的には彼の「1964年日本社会変革説」(かつて公明新聞に連載された)に深く共鳴してきたものだ。

◆100年かけて挑んだ「日本駆逐」の企み

 この本は、当然のことながら「ペリー来航」から始まるのだが、表紙裏の扉写真・風刺画が印象的である。江戸庶民の目に映った幕末戊辰戦争の構図が「幼童遊び   孤をとろ  子をとろ」というタイトルで描かれているものだ。幕府方についた姫路藩(注縄の柄)がわたしの目には、侘しい姿に映らざるを得ず、あれこれとその後の各地の運命(例えば、姫路は神戸に県中心地の座を奪われた)が連想させられる。

 横道にそれたが、「ペリー来航」は1853年7月8日(嘉永6年6月3日)のことだから、それから15年間が明治維新の期間といえる。15年といえば、あのアジア太平洋戦争を別名「15年戦争」と呼ぶ向きがある。昭和6年の満州事変から敗戦の決まった昭和20年までを一括りにするわけだ。同じ15年間だが、明治維新の方は、江戸幕府が倒れて新たな政府が立ち上がるまでの時間をさすだけに、イメージ的には比較すると、少し明るい期間といえるかもしれない。それにつけても僅か15年で日本近代の礎が作られた、というのはまさに脅威的というほかない。

 「ペリー来航」は、四隻の武装した黒船に象徴されるように、アメリカの砲艦外交の幕開けだった。約100年かけてアメリカは「日本駆逐」の企みを果たし遂げたともいえるわけで、歴史というものはまことに「禍福はあざなえる縄のごとし」であり、因果は簡単には読み取れない。この時に浦賀に真っ先に駆けつけたのが佐久間象山であり、一日遅れて到着したのが吉田松陰とされる。時に松陰24歳。このことが機縁になって彼は、渡航したいとの思いに駆られ、米船に乗り込もうとするも失敗、やがて死に至る因を作ることになる。

 僅か29歳でその後の日本に多大な影響を及ぼす生き方をした松陰。今度こそ、その真髄に迫ってみたいという気がする。再読を始めたばかりだが、鍵になるくだりは、「はじめは、『開国』路線をとった幕府によって切り拓かれつつも、結局のところ、『攘夷』路線をとる朝廷側の前に敗れていったのはなぜか、という深刻な問題でもある」というところだろう。これからこの本をベースに「わかり易い明治維新解説」への旅に出たい。

【他生のご縁 挫折してしまった「第三の開国」】

 松本健一さんといえば、東大同期の仙谷由人氏(元官房長官)を思い起こします。松本さんが晩年、民主党政権に参与的立場で関わることになったのは、仙谷氏との友情が機縁でしょう。亡くなってしばらく経った頃に、仙谷氏から「君とも親しかった松本の遺作を送るから」との電話がありました。2人とも早々と鬼籍入りしてしまいました。残念なことです。

 彼の持論だった「第三の開国」論には、当時私も刺激を受けました。明治の開国から、昭和の敗戦に伴う第二の開国に続いて、平成における開国を、と真剣に考え訴えていました。それぞれに見合う明治の「大日本国憲法」と昭和の「日本国憲法」に呼応して、第三の開国に相応しい「平成憲法」を、というものでした。ことは簡単には運ばず、平成の30年は「失われ」て、終わりました。彼が健在なら、私の『77年の興亡』論をぶつけて議論してみたい思いに今強く駆られています。

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