哲学は真理を教えているものではないー古田博司『使える哲学』

「今大学で何が起こっているか、知ってますか」って、数年前に筑波大学の古田博司教授から投げかけられた。「学問の淘汰が始まっているのです」「細分化された学問がどんどん間引きされ、使えないものには学生が全く見向きもしないのです」ー筑波大の場合では大学院の法学専攻が5年間志願者ゼロでとうとう廃止になった、という。インターネットの本格的展開は、旧来の”知の持つヒエラルキー”を壊した。分からないことがあれば、直ちに手元のパソコンを開けば何でも解決する。勉強をすることで普遍的な知に近づけるというかつての幻想は消えてしまった▼『使える哲学』なる古田先生の新刊本は極めて明快。使えないくせに”お高い雰囲気”を持つ哲学という学問のイメージを完膚なきまでに壊してくれる。めっぽう面白い本である。この本の結論は「近代=普遍知の時代が終わった」ということ。「哲学というものは哲学者が人を説得しようとしている話を聞く(読む)というだけで」、「別に真理を教えているわけではない」。「もしそこに自分にとって役立つものがあれば利用すればよいだけ」という。以前に取り上げた『ヨーロッパ思想を読み解く』で展開された、西洋哲学の基本にある「向こう側」という世界の捉え方から始まって、ドイツ哲学やフランス思想の問題点を曝け出し、イギリス哲学の優位性を説く。相変わらずこの人は知的刺激を猛烈にもたらしてくれるのだ▼これを読んで、私がかつて学生時代にー1960年代のことだがー知った創価学会の提示する価値観を思い起こした。それは、われわれが求めるべきものは「”真善美”ではなくて”利善美”だ」というもの。真理を求めるのは学者に任せて、一般大衆は利用すべき価値を探せとの指摘だと理解して、はじめは大いに驚いたものだ。あの頃はまだ「近代」のただ中で、普遍知なるものを皆が有難がっていた。「ポスト・モダン」の今になって、信仰50年の自分が創価学会の先駆性に気づくというのも気恥ずかしい▼20年あまり前からの知己である古田さんには、朝鮮半島をめぐる深い洞察から東西哲学比較まで、様々に教えを乞う機会が多い。「40年間、朝鮮だけを研究してしまい」、「朝鮮だけで終わってしまった」のが「悔しいから、今ちょっと暴れている」と謙遜されるだけあって、彼の進境はいやまして著しい。本来の儒教を骨格とする東洋思想への知見に加えて、ヨーロッパ思想への斬新なアプローチは余人の追従を許さないものがある。日蓮仏法をかじっただけの私など到底太刀打ちできないことは百も承知だ。しかし、そこは向こう見ずな私のことゆえ、なんとか蛇に怖じず、とばかりに時々無謀にも挑みかかっている。東洋の叡智の持つ「直観」に磨きをかけて、近くまた議論を吹っ掛けたいと思っているのだが。(2016・1・28)

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