25年前に誕生した背景に潜む真実ー転機を迎えたPKO➁

PKOに日本が参画したのは1992年。今年は25周年の節目に当たる。私が衆議院議員に初当選した年が1993年だから、その後今に至るまでの歳月は「PKO の興亡」とほぼ重なり合う。当時、カンボジアPKOへの参加をめぐって、世はまさに大騒ぎになっていた。議員生活を党の内部規定による定年で終えて5年が経つ今、しみじみとPKO と共に歩んだ政治家生活だったことには感慨深いものがある。それは何よりも政治家として身近な大先輩であった市川雄一公明党書記長(当時)のすさまじいまでの闘いぶりをつぶさに見てきたことが大きい。法律そのものの中に、PKO5原則を書き入れて「自制」を義務付けた市川氏の仕事こそが、この25年もの間に亘り自衛隊を、日本を守ってきたのである。しかし、もはやそれも限界に達したという他ない。というほど危うい事態が前回に見たように、今では起きている。だが、その前に、ことがここに至るまでの歴史的経緯を正確に追っておきたい▼PKO誕生の背景には、言うまでもなく湾岸戦争での日本の対応にあった。米国から、日本もイラク攻撃の陣列に加われとの矢のような催促がなされ、自民党政府も対応に大露わとなっていた。それは、一つは、90億ドル支援(約1兆7千億円。1ドル130円換算)要請、つまり「戦費協力」である。もう一つは、「軍事的的貢献」を受け入れさせようとする「国際平和協力法案」の制定だった。時の自民党政府は、二つながら受け入れるべく懸命に動いていた。米軍のイラクへの「憲法順守」から大幅に逸脱する路線には到底賛同できない公明党は、「国際平和協力法案」は廃棄すべく全力を挙げると共に、最終的に「戦費協力」には使途を武器弾薬には使用しないという条件を始めとする4つの条件を付けた。市川氏は衆議院予算委員会で海部首相に、条件を提起する一方、アマコスト米大使を通じてブッシュ大統領への要請を行った。様々な経緯を経て、最終的には、「90億ドル支援」は「4条件付き」で陽の目を見たのだが、これが「おカネで、血を流すことを避けた」との誤解に基づく批判を国際社会から受けることになる。湾岸戦争後にクウエートが日本への感謝の意思を大っぴらには示さなかったこともあり、少なからぬ波紋を呼んだ。尤も、これが機縁になり、国際社会において他国と出来るだけ足並みをそろえること、日本に「人的貢献」で何ができるかなどが鋭く問われる事態を引き起こしたのである▼公明党はこの憲法と真っ向から反する「国際平和協力法案」を廃案にしつつ、武器、弾薬には使わせないとする条件付きで「戦費協力」をするなど現実的対応に総力を挙げた後、今度はPKO法成立に力を尽くしていった。これはPKOの目的が、国家間の戦闘に介入するのではなく、紛争が終わった後に、平和な社会を作ることに貢献することにあったからだ。つまり、憲法9条により、日本は国家間の戦争を推進するための武力行使を禁じられている。が同時に憲法前文において、国際貢献を求められている。この二つを同時に満たす、日本にとって最も適切でふさわしい活動がPKOだと改めて気づいたのである。それまでの日本は公明党も含め、PKOの存在は知りながらも活用をしてきていなかった。それに着目し、自衛隊を参加させる決断をしたのである。それは、左右両翼からの批判を跳ね除けつつ、同時にその要求をも最低限満たす、文字通り中道主義の公明党に相応しい選択肢でもあった▼当初は、自衛隊を海外に派遣することは、何はともあれ許されないとする強固な反対意見があった。また、自衛隊とは別組織にすべき、との意見も内外に根強かった。しかし、9条を含む憲法解釈には、公明党は市川氏のもとに、共産党との憲法論争で見せたように折り目正しい論陣を張ってきた。それだけに、その正当性に深い確信を持っていた。ゆえに、内外の強弱、硬軟取り混ぜた異論、反論を一つひとつ排除し、最終的に一つにまとめていったのである。党内での激論。野党間の異論、反論に基づく相克。朝日新聞などメディアの強烈な反対の論陣。その辺りを市川氏は一野党の人間でありながら、特筆すべきリーダーシップぶりで、当時の自民党執行部と呼吸を合わせ〈自公民三党による協議の場を設け、司令塔役を果たした)ながら乗り切っていった。これらの展開については、今日真っ当な形で、一般庶民の目に供するには至っていない。これは誠に残念至極だ。身近で一部始終を見てきたものとして、真実を残したい、より多くの人々に伝えたいと強く感じる。そのためにこそ繰り返し発信する義務と使命があると、深く自覚している。(2017・8・22)

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