時代の下り坂をどう変えて上り坂にするか

23年目の「1・17」がやってきて、足早に過ぎ去った。あの時、私は衆議院議員に当選して1年半ほどが経とうとしていた。それ以来の日本の来し方を振り返るとまことに感慨深い。一言で言えば、あの震災で弾みがついたかのように、どんどんと時代は下り坂を転がる一方だということである。この数年あまり私は「40年日本社会変革説」や「80年周期日本危機説」を取り上げ、自分なりにそれへの処し方を考えてきた。ここでは、そういった議論の説明を繰り返さないが、論壇における未来展望の貧困さが気になる。例えば、1月15日付けの神戸新聞に掲載された文芸評論家の斎藤美奈子氏の「識者の視点ー近代の限界」である。この人は、あれこれと過去の具体例に触れた後、「経済は低迷、思想は戦前回帰、大地は揺れて科学技術の安全神話に疑問符がつく。近代にもさすがに限界が来たのか」と述べ、「次の40年をどんな形で上向かせるのか。2度目のどん底が来る(?)2025年の前に私たちは考えておくべきであろう」と結ぶ。おい、おい。貴女はどう考えるか、述べずに逃げるのかと問いたくなる■昨今の様々な論稿にうかがえる特徴として、この人のように、肝心のこれからどうするかを述べず(他のところで述べているかどうか寡聞にしてしらない)に、問題提起だけで終わるものが極めて多い。終りの数行を冒頭に持ってきて、そこから議論を始めてほしいものである。恐らくは誰しもその主張に決定打を欠き、世に問うだけの自信がないものと思われる。私の見るところ最近最も輝いている佐伯啓思氏でさえ、「矛盾をはらんだ日本の近代」(異論のススメ=朝日新聞)との論考で「福沢を後継する『新・文明論之概略』はでてこず、彼の危惧した『独立の気風』の喪失も問題とされない」風潮を嘆いている。阪神・淡路の大震災、東北の大震災の犠牲者の真の意味での追悼は、これからの日本をどう上り坂にするのかとの大議論を巻き起こすことだと、私は思う■これまで、私は日本の新しい国家目標を定めるべきだと主張してきている。明治の「富国強兵」、昭和の「富国強経」に代わる、平成の「富国強芸」とでも言えるものを、と。「強経」とは経済至上主義を指し、「強芸」とは芸術に力を注ぐことを意味する。尤も昨今の社会的状況は芸術ではなく芸能に傾きすぎてる感が強い。年末年始のテレビを観ていると、芸人のオンパレードでよくもまあとの感が強い、と思うのは私だけではあるまい。勿論芸術オンリーというわけではない。しっかりとした経済力と他国の侵略を許さない軍事力を背景に、したたかな外交力と成熟した文化を持つ、芸術に勤しむ国民、国家といったイメージである。勿論、これには異論があろう。私の尊敬する評論家の山崎正和氏も「国家目標などいらないでしょう」と、先年に私が持論を持ちかけた際にやんわり諭されたものである。確かに国家が人間の内面に関わることを目標として掲げると碌なことはないものと思われる。ただ、一つの方向としてはあっていいのではないか。その意味で、安倍自公政権が「一億総活躍社会」を掲げていることは興味深い。ただ、何でもって活躍の手だてとするかについてはあまり議論された形跡がないし、聞こえてこない。皆が元気で豊かに頑張れる社会作りということでは、政界に特有の当たり障りのないキャッチフレーズと同様に思われてしまう■最近になって”悪友”・飯村六十四(医者)と健康について語り合った。これまで、健康には食事、運動、笑いの三つが大切」(高柳和江との電子書籍鼎談『笑いが命を洗います』)というのが結論だったが、彼は、それに「音楽を加えよう」という。私も音楽、絵画など芸術に我を忘れて熱中することがいかに人間にとって重要かを考えてきただけに、もとより異論はない。というように、これからの日本の在り様に芸術志向を組み込むことは大切だ。音楽こそ民族、国境を越えて、言語、人種の違いを乗り越えて、平和のカギを握ると強く意識しているからだ。勿論、その背景には健全な思想の興隆(ワーグナーとナチスドイツとの関わりを想起するまでもなく)が欠かせない。過去の二回のどん底期(明治維新と昭和維新=斎藤さんは一回分を見損なっている)に勃興したナショナリズム、皇国思想がまたぞろ蠢いているとの感がぬぐえないだけに、なおさらそう思う。(2018・1・19)

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