結局はいつか来た道に迷い込むー「原発考」❶

平成23年3月11日午後2時46分。東日本大震災の発生した瞬間、私は新幹線車中にあった。横浜を過ぎて間もなく。当然ながら列車は停止したが、10分ほどで何事もなかったように目的地に向かった。かなりの混乱に陥った東京をその寸前に脱出していたのだ。さらに、それを遡ること16年前。平成7年1月17日午前5時17分。阪神淡路大震災の当日は神戸から西に約50キロ離れた姫路の借家で寝ていた。グラグラっと揺れる最中に瞬時、不謹慎にも「この家潰れても俺の家じゃない」と呑気なことを考えたことを覚えている。後者は衆議院議員に当選してのち2年。前者は勇退する2年前のことである。要するに20年間の議員生活のほぼすべてが大地震と共にあった。今や”大災害の時代”といわれる特筆すべき時間の流れの中に生きてきていることを改めて痛感する■地震のリアルは歳月と共に揺らぐ。直撃を受けず被災の当事者たることを免れたものは、ややもすれば悲惨な現実から目を遠ざけがちなのは否めない。だが「福島第一原発事故」がもたらした事態は、本来そうした身勝手を許さないはずである。事故発生直後ー経済最優先でしゃにむに生きてきた姿勢を改め一端立ち止ることが求められているとの論調が支配した。しかし、それから7年。結局は元来た道に戻ろうとしてはいないか。「原発」に向き合うことは、現代社会をどう生きるかを考えることに直結する。私は事故前まで、徹底した安全管理のもとに原発依存は止むを得ないという立場だった。だが今では、できるだけ早いうちに依存体質を解消し、早急にゼロに持っていくべしとの態度に変わった。国会議員としての現役最後の2年間は党の内外での様々な場で「原発ゼロ」に向けてどう政策展開をしていくかについて発言していったのである■外交・安全保障分野の党の政策責任者として、核抑止力は必要悪だとのだとの立場を堅持しながら、エネルギー政策にあっては原発依存から脱却していくべしとの態度を取った。これは「核」をめぐって一見矛盾するようだが、その実矛盾しない。前者は直ちに核廃絶は無理だが、必ずや将来において実現できる可能性はある。一方、後者も直ちにゼロは無理だとしても、その意思を持てば必ず実現できる。どちらも端から無理だと決めつけないことではないか。ところが原発にあっては、最初から最後までゼロは無理だとして「依存」を前提とする姿勢を崩さない人びとがいる。原発「ゼロと依存」と。この立場の違いをかつてのイデオロギー的「左右対決」という不毛のものにしてはならない■公明党内部でも後半2年、政調の議論の場で幾たびか論争した。経済力向上の立場からゼロには出来ないという人たちと、ゼロに持っていくべきだというものたちがぶつかり合った。原発依存の立場には、嵐が過ぎればやがてもとに戻せるという気分がそこはかとなく漂う。しかし、それを変えなくては元も子もない事態になるのではないか。衆議院予算委員会の場で、野田首相(当時)枝野経産相(当時)とも議論した。また外務委員会で、自らの原発事故の始末をつけぬままに外国に原発技術を輸出する民主党政府の姿勢に疑問を投げかけた。今は崩壊してしまった政権との論争を振り返ることには虚しさが残るとはいえ、議論の本質は色褪せない。これから数回にわたって国会での自らの議論の軌跡や、昨今の議論の流れを追いながら、これからどうこの問題に向き合うべきかを考えていきたい。(2018・3・11)

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