50年前の足跡を追って、”今再び”の旅に出る

今年のゴールデンウイークはみなさんいかが過ごされましたでしょうか。私は実にユニークで、意味深い二泊三日の信州旅をしてきました。それにはちょっぴりわけがあります。今からちょうど50年前に遡ります。昭和43年4月26日。人生の師匠との初の出会いをしました。22歳の春のことです。それから同年10月8日の二回目の出会いに至るまでの半年間は、私にとってゴールデンイヤーオブハーフ(黄金の半年間)でした。信仰生活を始めて3年にやがてなろうかという昭和42年12月、まさに青天の霹靂のように、医者から「肺結核につき一年入院の要あり」と宣告されたのです。闘病生活(親に内緒で下宿からの通院)を余儀なくされました。そのさなかに師と出会い、根源的な激励を受けることができたのです。まさに至福のひとときでした■「僕の人生も病魔との闘いであり それが転じて黄金の青春日記となった 君も頑張ってくれ 君自身のために 一切の未来のために」との揮毫を『若き日の日記』第二巻の裏表紙に認めて頂いたのは5月17日のことでした。この前後からのほぼ半年間というもの、まさに渾身の祈りを込めて唱題を重ねたものです。病を治すことは自分のためではない、この日蓮仏法の凄さを世界に証明するためだとの壮絶なまでの強い一念でした。その結果、夏の終りには「凄いわね。入院しないで治るなんて。よっぽどうちの薬が効いたのね」という慶応病院の看護師さんの言葉を聞くことが出来たのです。かつて肺結核で人生を棒にふる若者はあまたいました。私は幸いにもそうならずに済み、今に至るまであれこれと病に襲われはしましたが、なんとか逃げ切ってきています■そうした病との戦いを乗り切った大学4年の秋に、仲間たち8人と共に信州旅を実行することにしました。横浜の鶴見を出発点に、軽井沢から鬼押し出し、志賀高原、琵琶池、湯田中から長野、美鈴湖畔、松本、上高地、乗鞍岳などを巡った4泊5日の車による旅行でした。すべてテントを張っての野宿で、旅費は占めて5千円ぐらいだったと記憶しています。鬼押し出しの草原で皆でシートを敷いて勤行をした時に、遠くから年老いたおばあさんと思しき人が手を合わせて通り過ぎて行かれたことや、バスの中での唱題する姿に行きかう車からの不思議そうな眼差しなどが思い出されます。大正池で枯れ木にぶら下がったり、温泉宿(湯に入るだけ)での些細ないたずらなど、若さゆえの向こう見ずの旅でした。そのメンバーから、後に外交官、大学教授(経済学者)、ジャーナリスト(某テレビ局記者を経て幹部)、政治家(衆議院議員、市議会議員)、証券アナリスト、会社社長、地方公務員、団体役員などが誕生しました。その旅ではお互いの成長を誓い合ったものですが、今から振り返ると見事に結果をだしたといえます■それから50年。今年は大きな節目を迎えました。慶應義塾は卒業から半世紀を経た卒業生たちを祝って、その時の一年生の入学式に招いてくれることになっています。昭和44年に卒業した私たちはその式典を明年に控えているわけですが、かつて信州旅に挑んだみんなで「今再びの旅」に行くことを企画しました。残念ながら種々の都合で参加できないものが4人でてしまいました。結局5人で、50年目の旅をしました。二泊三日。新幹線や在来線、路線バス、ジャンボタクシーの乗り継ぎで、鬼押し出しから上高地を経て飛騨高山から帰って来るという駆け足旅行でした。当時映した記念写真やら日記を持ち寄っての旅は何とも言えぬ懐かしいものでした。我々戦後世代の在り様をめぐっては、戦後史における少なからぬ罪があります。難しいことを言いだせばキリがありません。ここはしばらくそれを措いて、ともあれ師との誓いを果たし、無事に歳をとってきたことを祝いあいました。そして人生総仕上げの闘い(私個人はこれを連続革命と名付けていますが)に向けての新たな出発をしたのです。それは50年前が何になるかを目指したとするのなら、今度は、何をなしえたかを目指すものであると銘記して。(2018・5・6)

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