自己防衛を武力で行うことについて

集団的自衛権行使容認によって、これから先は疑似戦争的状態が国内で起こりかねないー私の講演を聞き終えて、舞台そでに入ってこられた壮年が抱かれていた疑問は、要約するとこうなる。海外での戦闘には日本は参加出来ぬように歯止めを公明党がかけたとしても、仮に海外勢力によるテロが国内で起こったら、それに対抗することで日本各地は戦乱の巷と化す、ではないか、と。想定しがたい事態ではあるが、テロはいつ何時起こっても不思議ではないともいえるから、と▼講演の説明の中で、私が自国防衛のためには武力行使はやむを得ないものと述べたことに対して、この人はこうした事例を思いつかれたようだ。そんな恐ろしい状況が起こるなどとは、今講演を聞いた方たちは信じていないはず、とも言われた。要するに、一切の戦争(武力行使)は放棄するというのが憲法の精神であり、70年近くそれで日本はやってきたし、公明党こそその精神の体現者ではないのかと言われる。何かがおかしい、何かが変化しようとしている、と▼今回の集団的自衛権問題で、こうしたピュア(純粋な)な議論を持ち出されるケースはしばしばある。創価学会の会員、公明党の党員の皆さんの中にはとりわけこうした絶対的平和主義に立つ方々が少なくないように思われる。20年ほど前のPKO (国連平和維持活動)に日本が参加すると決めた際にも大騒ぎとなったが、あの時は戦闘活動が終わって、再発を防止することが主目的だと言って理解を求め、そして納得を得た。今回は、抑止力を持つために、自国領域内にせよ武力行使をも辞せずとの選択に驚きを抱く向きも少なくないようだ▼いわゆるテロであれ、海外からの侵略的行為対応であれ、いかなる事態にも武力を用いない、なされるがままにしているーこうしたことが夢の世界でなく、現実のこの世において可能だろうか。聞きながらそういう疑問をこちらが抱かざるを得なくなった。長い間の平和の持続によって、およそ暴力的行為を認めないとする姿勢が深く広く浸透している。それ自体はまっとうなことであろうが、ではそれを打ち破る行為にまで、ただなされるがままで、座して死を待つということでいいのか、との素朴な疑問が頭をもたげてきた。(2014・9・3)

 

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2014年9月3日 · 9:50 AM

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