“超ド級の諸天善神”の講演に深い感銘

「この場に私が立つ資格があるのかどうか悩んだし、とても今緊張しています」と開口一番切り出し、「私はプロテスタントのキリスト教徒ですから」と続け、場内から爽やかな笑いを誘った。関西創価学会にとって忘れようにも忘れられぬ大阪市中央公会堂、いわゆる中之島公会堂で9月20日に開催された潮出版社主催の文化講演会は開場と同時に続々と詰めかけた聴衆の人々で満員の盛況だった。佐藤優氏の『「地球時代の哲学」ー池田・トインビー対談を読む説く』を聴くために、私も姫路から一時間半かけて参加した。東京の友人が応募してやっとの思いで得た入場整理券を、彼が急な不幸のために参加できなくなったので、譲ってもらったのである。あだやおろそかに聞き流しては行けないと、こちらも緊張して臨んだ▼ピタッと一時間のお話を聴き終えて、深く感じるところがあった。その著作の大半を必死になって追いかけてきた私にとって、この人物はまさに現代の巨人の一人に数えていいと思っているのだが、その見立てにいささかの狂いもなかった。参加した学会員の庶民感覚とでもういべきものを、見事なまでに自家薬籠中のものにした鮮やかな弁舌だった。池田先生とトインビー氏との対談については、その著作の中でも強調されているように、親子ほど年下の池田先生が師匠であり、名だたる歴史家のトインビー氏が弟子であると改めて明言していた。対話の名手である池田先生が様々に意匠を凝らし、深い思いやりの心を駆使して対談を進められたことは、連載中に雑誌を読み、単行本で二回読んだものにとって自明のことだけに、まさにストンと落ちる言い回しであった▼先生の対ソ民間外交40年の経緯における見事なまでの展開ぶりの評価は、かの国のすべてを知り抜いた彼だからこそ言えるもので、一段と重みがある。重ねて池田先生の凄さを教えていただいた思いがしてただただ恐懼するばかりだった。また、あの大阪事件において先生が官憲の歪んだ追及の前にひとたび罪を認められたのは何故か、という問題についての言及も迫真の重みがあった。それは戸田先生を亡きものにし、戦時中に獄死せられた牧口先生に続き、二代続けて創価学会の会長を死に追いやることで、創価学会を滅亡させようとする権力の魔性と断固闘うためであった、と。この指摘をあの大戦の戦時下のキリスト教との比較で語られたあたりも、キリスト教に精通している人だからこその深い響きがあった▼21世紀が東洋の思想なかんずく仏教の時代になるということは、いや増して真実性を帯びてきているのだが、その仏教各派のなかでの優劣の差異という点が気に懸らないでもない。親鸞人気や参禅への不変の流れ、後絶たぬ四国八十八か所巡り等々。それにも佐藤氏は、SGIのように世界各国に深く根ざしている仏教がどこにあるか、と一刀両断。一方、集団的自衛権問題を巡っても、随所での彼のコメントの鮮やかさぶりは、他を圧しているが、この日も繰り返し公明党の見事な闘い、と称賛してくれた。私など、「公明党の完勝だとあんまり強調しないでくれ」と思っている。交渉事なのだから、自民党がやきもちを焼くではないか、との小賢しい思いからなのだが…。学会員がどういえば喜ぶかを知り抜いた目線を保っていることはただ呆れるばかりだった▼かくほどまでに池田先生を尊敬し、学会のファンだといっても、「だからといって入会はしないでしょう」というくだりをさりげなく挟み込むのも小憎らしいほどの心配りがうかがえた。外に身をおいているからこそ,佐藤氏の言論を通して、世の人々が創価学会への見方を変える可能性があるということだろう。最後の方で、「政教分離の行き過ぎ」を指摘されたり、物言わぬ公明党議員の消極性をやんわり触れられたところなど、身が縮む思いさえした。これからは「言論出版問題の本質がどこにあったか」などについて取り組みたいと述べられていた。あれやこれや山盛りの講演で、あっという間の一時間だったが、つくづくと、”超ド級の諸天善神”の登場だなあ、と感じ入ったしだいである。(2014・9・21)

 

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