イスラム過激派の心象風景をどう読み解くか

新年に入って続くイスラム過激派にまつわる事件は看過できない重大な問題をはらんでいます。この間に夥しい報道がなされたものをそれなりに読んでみましたが、思うこと大なるものがあります。ここではわたしにとって印象深いものをあげてみて今後の考察の出発にしたいと思います。今日ここにいたるまで、わたしがこのテーマを取り上げなかったのは、直ちに反応することに躊躇するものがあったのです。まず、フランスでの出版社への狙撃事件です▼これについては、ちょうどその気分を代弁する発言が、爆笑問題の太田光氏の「黙るということが必要な時もあるんじゃないか」とのテレビでのひとことでした。彼の気分とは正確には違うやも知れませんが、わたし的には、単純に「表現の自由」で押し通せないものを感じて、発言がためらわれたのです。フランスの歴史学者のエマニュエル・トッド氏が「フランスは文化的道義的危機に陥っている。わたしも言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続けるシャルリーエプドのあり方は不信の時代では有効ではない」と発言、併せてこうしたことはフランス本国では言えず、日本だからこそ言えると述べていたのには大いに感じ入りました。また、日本のイスラム問題の専門家である酒井啓子氏の「(シャルリーが)毎年しつこくキャンペーンのごとく(風刺画を掲載し)続けることに、イスラム教徒は自分たち全体が侮辱され差別されていると感じている」との指摘も傾聴に値すると思います。何事も中庸が肝心だと思わざるを得ません▼次いでイスラム国による後藤健二さんら二人の日本人殺害事件です。これも多くの論評を目にしましたが、最も感銘を受けたのは、これは「単純にテロという表現で済ますと反感を招くだけ」だという指摘です。現代イスラム研究者の宮田律さんのある座談会での発言ですが、意表を衝かれた思いがいたしました。日本人からすれば誰しもテロだと思っているでしょうが、「イラク人から見れば、米国に抵抗している武装集団であって必ずしもテロリストではないかもしれない」との指摘です。また、今回の人質の交渉をめぐってヨルダンを拠点にしないで、トルコにすべきだったというのはその通りだと思えます。イスラム国からすればヨルダンという国は、敵対包囲網の一角を形成しているわけだから、敵視せざるをえないわけです。こうした視点は重要です▼わたしが今回の事件を考えるときに、同じ地球上で生活をしているといっても、異時代を生きている民族や国家は相互に理解し難いということに思いを馳せざるをえないということです。例えば、東アジアでも北朝鮮と韓国、中国と日本ではかなり生きている時代状況が違います。北朝鮮は近代以前(プレモダン)ですし、中国、韓国は近代(モダン)真っ只中といえましょう。それに比べて日本はポストモダン、つまり近代以後の時間を先行しているのです。この四つの国でも相互理解は難しいものがあります。同じようにイスラム国は近代以前を強く意識した人たちで形成されているだけに、欧米各国や日本などポストモダンを生きる国々とは様々な面で受け止め方が違ってきます▼1914年の第一次大戦までのオスマントルコの支配から英国の占領下へと変遷を経て、やがて米国の進出で自分たちが生息する地域を滅茶苦茶にされたとの怨念が彼らには強いということを意識する必要があります。そういう意味では日本は二重三重に慎重な態度で挑まないと、欧米と同一視されてしまいます。テロは許されないという一点だけに寄りかかっていると、イスラム過激派の思いが理解できないことを知る必要があるということを痛感します。(2015・2・6)

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