戦後70年に古希を迎えた同窓生たちの集い

戦後70年というのは、私のように昭和20年(1945年)に生まれたものにとって、人生そのものの時間的経緯と重なります。古希を記念して集まろうと、中学校の同窓会を企画しました。私は、たきつけただけで、実際に連絡やら準備など様々な面で気のいい友人たちにお世話になりました。元生徒会長だった私が開会のあいさつをすることになり「みんな70、わたしゃ17、と言いたいところだけど、残念ながらそうはいきません」との出だしで、いささかの言葉を並べました。神戸市立垂水中学校を昭和36年に卒業した仲間たち(9回生)は、約400人余り。そのうち、この日に会場の生田神社会館に集まってきたのは65人ほど。物故者も、体調不良者も当然いて、集まれたのはいろんな意味で恵まれている連中といえます。お世話になった担任の先生たちも,お元気なのはお一人だけ。若くてぴちぴちしておられた女性教諭も85歳の高齢に。ただ、背筋も凛として矍鑠としておられたのは何よりでした▼戦後日本が米国に占領されていた7年という期間がほぼ私たちの小学校入学前の時期に当たります。思えば食べるものが何もない頃に、食べ盛りの幼児期を過ごしたわけで親の苦労が偲ばれるというものです。戦後日本の高度経済成長とともに成人となり、働き盛りの40代のただなかにバブル絶頂から崩壊という日本近代の一大エポックを経験しました世代でもあります。様々な見方が成り立ちますが、2025年の少子高齢のピーク時に向けて今日本は下降期にあるというのが有力なとらえ方です。もちろん座してこれを待つというわけにはいきません。この流れを転換させるべく今に生きる日本人、なかんずく我々責任世代が頑張るしかないと思います。文字通り戦後40年が政治・経済・社会の方面で興隆期だった日本が今、戦後80年の厳しい局面に向かって悪戦苦闘しているといえましょう。残された10年を精一杯生きることが個人にとっても社会全体にとっても重要な意味を持つということを私はあいさつで述べました▼同窓会というものには私のように過去の仕事柄もあって積極的なものもいますが、まったく無関心という剛の者(柔の者というべきでしょうか)もいます。同じ中学校で学んだ親友に、その手の男がいて今回も姿を見せませんでした。また、せっかく集まっても雰囲気を壊す剛の者もいます。前回(15年前)は帰り際に、教師に食ってかかった手合いがいました。要するに自分の成績が悪かったのはあんた(担任の教師)のせいだというのです。いやはや、あれには居合わせた誰しもが鼻白みました。今回は突然怒鳴りだしたのがいました。「こんな会合は意味がない。むかしを懐かしむべきで、いまのしごとがどうのこうのなど関係ない」という意味のことを叫んでいました。未だ現役で活躍してる仲間の前向きの話が癇に触ったのかもしれません。ともあれ酒のせいでしょう。70になっても、いや歳に関係なく、人間修養の道は遠いようです▼いろいろあっても、昔の仲間との久方ぶりの語り合いは楽しいものです(私はとくに)。北は東京、千葉から、南は九州・熊本から駆けつけてきた連中とわずかな時間で別れるのは惜しいとばかりに,あらかじめ延長戦を考えました。二次会,三次会でも飽き足らず、翌日まで持ち越して、二泊三日の旅に出たのです。同じクラスで学んだ仲間も卒業後の進路によって50年余りも音信不通であった者同士が直ぐには離れがたいという心境になりがちだからです。人一倍ひと恋しいたちの私などこれまでの人生で、会えば別れが辛いことがしばしばでした。というわけで、大学の名誉教授(工学博士)や元大企業社長、現役中小企業社長らと元代議士が和気あいあいの楽しい旅をしたのですが、そのあたりはまたの機会に。(2015・6・16)

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