公明党兵庫県本部での27年間に終止符うつ

先週末に公明党の兵庫県本部の臨時党大会が開かれました。統一地方選挙も大勝利で終えたうえでの人事大会の側面とともに、次なる目標の明年の参議院選挙を目指して立ちあがるためのものでした。私は衆議院議員を辞めたあと2年半ついていた県本部顧問という役職を退任することになりました。思えば、昭和63年の晩秋に東京から生まれ故郷の播州姫路に戻り、兵庫県本部の嘱託として働きながら、衆議院選挙への準備を始めた転機から数えて27年が経ったわけです。43歳から70歳へ。この歳月は私なりに燃え尽きた政治家としての時間を送ることができました▼現在127人の議員を擁する兵庫県本部。三人の衆議院議員を含めてほぼ全員が集まってきていました。会場で見る顔の中には、私の引退後に新たに陣列に加わった人もいたものの、多くは旧知の間柄。猪名川町の南さんを除けば、すべて私より年下の連中です。始まる前に会場で一人ひとりに声をかけました。公明党地方議員のなかには政治家になりたくてなったという人は殆どいません。居住地域の「信仰の世界」から推薦され、突然のように政治の世界に入ってきたひとばかりです。自身の個人的悩みを乗り越えて、庶民・民衆のために、ひとびとの幸せを実現するために立ちあがったのです。尊い”共戦の友”の顔、姿を見るにつけ、誇らしい思いが私の心に湧き上がってきました▼この日の圧巻は、幹事会議長・松田いっせい氏の語りでした。彼は定数2の神戸市兵庫区を地盤にこれまで4期にわたり県議会議員をしてきました。持ち前の人なつっこさと明るい性格を十二分に発揮し、選挙区内をくまなく歩きまわっています。今では兵庫区内どこへいっても彼を知らぬ人はいないと云われるほど、徹底した現場第一主義の男です。「何のために議員になったか、それを常に考えよう」が彼の口ぐせ。44票という僅少さで落選しながら、その後不死鳥のように立ち上った体験談は大いに沸かせました。中でも、落選中に支援者の葬儀に駆けつけた際に、「敗北」という二文字を刻印させたまま旅立たせることの申し訳なさを痛感したという話には胸打つものがありました。「選挙区の中で、あの人のおかげで今の自分があるという人を何人作るかだ」「無所属で出ていたら、自分の力で何票とれるかを考えよ」「市民相談は、解決できそうにないものだからこそ議員に頼んでくる。すぐに出来る、出来ないと答えをいうのではなく、懸命に対応し、出来なかったときは、相手の方が納得できるように結果を返すという態度が大事」など彼ならではのいい話がいっぱい聞けたのは大収穫でした▼彼とは私にとって飛び切り懐かしい思い出があります。昭和56年のこと。当時私は35歳。公明新聞関西支局に転勤、創価学会の青年部幹部として兵庫県内を走っていました。青年層の後輩たちとの懇談のなかでアドバイスをしていたのです。その時に未だ20歳台後半であった松田氏から相談を受けました。自分の経験や先輩からの話をもとに精一杯の助言をしたものです。やがて見事に問題は解決し、大いに喜んでくれました。これは二人にとって忘れられぬ”若き日の出会い”となっています。彼の話を聞きながら胸にこみ上げてくるものがありました。彼自身の体験談を話す中で、「この中で落選の経験がある人は」と松田氏は敢えて問いかけたのはインパクトがありました。手を挙げたのが幹部席に座ってる3人だけー赤羽かずよし県代表、吉田けんじ県幹事長、そしてわたしーだったのです。笑いが渦巻く中で独特の共感が漂ったように思えました。久方ぶりの後輩たちとの出会いで、「この仲間たちと我が27年はあった。彼らにこれからを託して大丈夫、もう思い残すことはない」との感慨を持って会場を基に後にすることができました。(2015・6・26)

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