自民党内の”たった一人の反乱”から、何が見えるか

八月最後の日曜日の昨30日における国会周辺は、10万人を超えるデモで大変な騒ぎとなったようです。地元での創価学会の座談会に出て会員の皆さんと懇談をしたり、自治会の活動に汗を流した私にとっては遠く離れた地の出来事でしかありませんでした。一夜明けて新聞やテレビでその報道を見ながら、いくつか思いを致したことに触れてみます。一つは、安保法制批判の背景の変化です。かつて私が中学三年生だった昭和35年(1960年)の、あの日米安保改定反対のデモの際には、保革の対立には決定的なものがありました。その世界観が左右で全く違っていたのです。今回の場合は、自衛隊を違憲だとする考えは遠く後方に去り、むしろ「自衛隊員が危険な目に合うかどうか」といった具体的な争点に移っているかのように思われます。55年の歳月は、日本人の安全保障上の考えの違いを、少なくとも”不毛の対決”からは脱却させたと言えます▼新聞、テレビなどマスメディアの報道の仕方も、こぞって反対ではなく、賛成する機関もあり、どの媒体を見たり聴いたりするかによって、受ける影響が違うと思われます。先日、横浜に住む友人から「なぜ、戦争法案反対のプラカードを掲げたデモばかりなんだろう」「戦争阻止のために、安保法制は必要だという看板こそ掲げるべきではないか」との手紙を頂きました。確かにサイレントマジョリティの声の中にはそういう意見もあろうかと思われます。衆議院での法案採決の際に、詩人の金子兜太さんが書かれたという「安倍政治を許さない」との紙ばかりの乱立を見て、いささか違和感を感じたのは私だけでしょうか。もっと多様なる意見の表明の仕方があっていいのではないか、と思います▼前回のこのブログに書きましたが、先日国会に参りました際に、自民党の村上誠一郎代議士(衆議院政治倫理審査会会長)と会ってきました。彼とは現役時代から様々な交流があり、いつなんどきでも「正論」を叫ぶその姿勢を高く評価し、尊敬しています。今回も自民党のなかで唯一人反対を表明し、安倍総裁率いる自民党の態度を激しく批判しています。私には会うなり、「公明党はどうなってるんだ」「あなた自身はどう考える」と堰を切ったように尋ねてきました。私は、今回の安保法制が憲法9条の許すギリギリの枠内での適正な解釈に基づくものであると述べ、公明党の頑張りで安倍自民党に歯止めを掛けさせたとの持論を表明しました。ただ、自公の間での昨年来の合意に至るまでの議論が公開されていないために、あたかも最初からすべて一致しているように見えるのが、ことの本質を分かりづらくしているとも付け加えました。彼は、選挙制度が小選挙区中心になってから、自民党の人間はみな黙ってしまい執行部のいいなりになっていると力説。もっと同調者がいると思ったが、気付いたら後ろには誰もいず、自分一人だけだったと苦笑いしていました。惜しむらくは彼が”一匹狼”だということです。総裁選に打って出るような気迫が欲しいと思います▼「集団的自衛権を憲法解釈で可能にするというのは誤りであって、憲法改正をするのが筋」だというのはその通りです。しかし、今回の安保法制は、いわゆる集団的自衛権を行使するものではなく、その一歩手前のものです。従来からの個別的自衛権の範疇に入るものだというのが公明党を支持する者のふつうの理解です。それを集団的自衛権を限定的にしろ認めたものだとすると、話は違ってややこしくなってきます。今回の混乱を見るにつけ、憲法改正を真正面から問う時期に来ていることを痛感します。村上さんは、「安倍首相は憲法改正の実現が直ぐには難しいと見て、解釈で事態を変えようとしたが、これでかえって憲法改正は遠のいた」と言っていました。公明党は、「憲法改正」とりわけ9条をどうするのかをはっきりさせるべきでしょう。憲法を改正して集団的自衛権行使を認めるのか、それともそれには反対で、今回のギリギリの憲法解釈でよしとするのかを明確にすべきです。でないと、自民党とますます一緒に見えてしまい、公明党の真実の主張と、その立ち位置が見えてこないのです。(2015・8・31)

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