孤高の兄弟子の少し早い”長すぎる不在”

とても親しい関係にあった同門の兄弟子が数日前に死んでしまった。この夏の初めに大病を患って入院加療中と聞いていた。回復し退院したとご本人から連絡をいただき、全快祝いを段取りせねばと思い込んでいたのに、突然の訃報にしばし茫然自失してしまった。あらゆる意味で青春を共有した仲だった。共に稀有の大師匠を仰ぎ見ながら、切磋琢磨したかけがえのない同志でもあった。まだ古希を迎えたばかり。ようやく第一線の仕事から少し身を引き、これからは壮大なる天地で束の間の自由を謳歌できるという矢先に。別れの言葉も交わさずに、早々と逝ってしまった▼昭和55年の夏。35歳だった私は、大阪の地に転勤し、神戸に戻ってきた。それからの1年半というものは、19の年に上京していらい久しぶりの慣れない関西の地のため悪戦苦闘することが多かった。その間、陰に陽に激励をしてくれ心を砕いてくれた。大阪のとある場末の酒場で一緒に食ったてっちりの味は忘れ難い。当時関西の若き青年群像のリーダーだった、この兄貴は輝ける存在だった。背筋がびしっと一本通った孤高ともいえる男だった。彼の義母上が不慮の事故で義弟とともに焼死されるという惨劇があった時のことは今なお鮮明に覚えている。涙をこらえて凛々しく振舞っていた姿には、個人の悲しさを超えて、大義に生き抜く者の尊さと厳しさを教えられた。実父を早い段階に失っていて、その存在を記憶に持たない彼は、師匠を実の父同様に思い慕い抜いたに違いない。色々な場面で関西の師弟の壮絶な関係を身で教えてくれた。得難いひとだった▼その後東京に戻った私は、やがて5年余りが経った平成の初年に再び関西の地に戻ってきた。そしてまた苦節5年の戦いの末に大きな立場をいただいた。ここでも生来の生意気でわがままな気質が災いして、まわりと軋轢を生むことが少なくなかった。そのつどかれは陰に回って私をかばってくれた。幾度助けられたことか数知れない。あるとき、大先輩がついむつかしい顔をしてしまう私を咎められたことがあった。その時、「人はそれぞれだ。一緒じゃないよな。そんなこと気にするな」と、慰めてくれたことは無性にうれしかった▼定年前の私は数回にわたって入院したことがあって迷惑をかけたが、いつも激励をしてくれた。また定年後、ブログやフェイスブックで勝手気ままな言動を発信する私をしばしば褒めてくれた。私が発刊した電子書籍六冊もことごとく読み、感想を寄せてくれた。つい数か月前に私は72候に因んで5日間ごとに原稿を書くことを公表した。そのときも真っ先に「赤松ちゃんらしい発想だ。とてもふつうはそんなことを思いつかない」と言って感嘆してくれた。褒められれば豚も木に登るというが、70近くになってもその原理は適応するようだ。そんな兄貴も今はいない。かつて神戸のスナックで二人だけでカラオケを楽しんだ。その時に彼が歌ったのは『わが人生に悔いはなし』(石原裕次郎)だった。「右だろうが、左だろうが」とのくだりで、「真ん中だろう、俺たちは」と茶々をいれたことが堪らなく懐かしい。しかし、いつまでも嘆き悲しむのはよそう。その死は肉体の不在であって、消えて亡くなってしまったのではない、と。「長き不在」の身になってしまった兄弟子の代わりを一分なりと果たせる弟弟子にならねばならない、と心に期している。(2015・11・5)

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