イラク戦争をめぐる私的検証➅-「米国」と正面から向き合う意味

公明党がやったイラク戦争の検証は、結果として私が党機関誌のインタビューに答えるなかで反省するという体裁をとっただけであった。残念ながら、政党としてオフィシャルな形をとったものとは認められないだろう。公明党だけではなく、これまで責任ある政党はどの党も総括めいたことを満足な形ではやっていない。誤りを一度認めてしまうと、政党として以後際限なく疑念を集めてしまうので、避けたいということだろうか。また、長いスパンで見ると、ある時期の誤れる選択も、後々には良いものをもたらしたというケースもままあるから、早急な判断は避けた方が得策だということかもしれない▼しかし、「論語」にあるように、過ちを改めるのに憚る(はばかる)ことなかれ、である。むしろ、失敗は潔く認めた方が一般的には好感をもたれる。タイミングもあろう。安保法制の議論の最中に、私はイラク戦争についての総括と引き換えに、自民党との交渉を進めてはどうかと提案した(一般紙の紙上で)が、無駄なことであった。良い機会だと思ったのだが。公明党と自民党の集団的自衛権についての姿勢は微妙に食い違っており、結局は最後までというか、今日現在に至るまで玉虫色の決着のままだ。ここは集団的自衛権のいわゆる国際標準の規定に合せて、公明党が折れて、その代りにイラク戦争の検証をお互いにしてみせるというということがあっても良かったのではないか▼20世紀の後半に青春を生きた我々世代はヴェトナム戦争の影響を強く受けた。ドミノ理論を持ち出して、反共の旗印を掲げることの無意味さを結果として思い知らされた。空爆を始めとする米軍の猛攻撃をしりぞけ、執拗なジャングルでの戦いで、遂に巨大な米国に勝った小国ヴェトナム。その後の国家としての佇まいの在り様は、もう一つの「20世紀の奇跡」と言ってもいいかもしれない。評論家の立花隆氏は、米映画『地獄の黙示録』について、「誰もコッポラ(監督)のメッセージがわかっていない」と、ヴェトナム戦争の深い闇をキリスト教的見地から説いてみせた。この戦争の悲惨さは、赤裸々に描かれた数多の映画を観るまでもなく分かる▼イラク戦争やアフガン戦争、そしてシリアでの戦闘やイスラム国をめぐる現在の国際平和を脅かす戦いに、我が日本では反対の声を上げ続ける若者や平和勢力が少ないとの指摘がある。確かに、安保法制に「戦争法」とのお門違いの批判をする向きは多いのに。内向き過ぎる”一国平和主義”のなせる業だろうか。ヴェトナム戦争の教訓は、何も米国だけに向けられているものではない。その敗北の教訓を今に生かせていない米国は、中東での一連の紛争に砂漠のなかで血まみれになってのたうち回っている。この姿は、米映画『アメリカン・スナイパー』一作で十分すぎるほど伝わってくる。個人も政党も国家も、イラク戦争の検証をすることで、米国なるものと真正面から向き合い、新たなる「平和」への生き方を自身に迫ることができるのではないか。(この項終わり 2016・9・20)

Leave a Comment

Filed under 未分類

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です