好きな生き方50年。そろそろ死に方をー「生死の研究」(1)

昨年10月と11月の二か月にわたって、私の友人で”浪花のカリスマ・臨床心理士”志村勝之氏のブログ『こんな死に方がしてみたい!』を通しての感想めいたものを『忙中本あり』で取り上げて、12回ほど書いた。12月は休んでしまったので、新年からは舞台を『後の祭り回想記』(これも回走記ではなく、回想記に改める)に移して、再挑戦してみたい。どうしてかくも彼のブログにこだわるかというと、いかに忙しくても生死にまつわることは避けて通ってはならず、真正面から向き合っておかないと後悔するとの強迫観念めいたものがある。加えて、約60年もの長きにわたって友人関係を持つ男の思索の道あとが気になってならないからだ▼タイトルも改めて『生死の研究』とでも仮にしておく。体裁としては、やはり志村氏の一昨年から昨年にかけて延々と続いたブログを下敷きにして、私の捉え方を述べていきたい。ご興味のある向きは、彼のブログにぜひアクセスされることをお勧めする。かれは私の見るところ当代随一の心理学徒であり、彼の書いたものは実にためになるからだ。今月は彼の続き物のうち、三回目の「死の物語」から。14回にも及ぶブログで志村氏は田沼靖一『ヒトはどうして老いるのか』、品川嘉也、松田裕之『死の科学』などからの引用を繰り返しながら「死」を考えていく。彼の「死」についての捉え方は、つづめて言うと、「好き勝手」に死にたいということに尽きる。今の時代は「自分の死の基準」及び「死生観」が求められており、自分自身の「死の物語」が要求されてくる時代が必ず訪れるとしたうえで、そう結論づける▼これはいうまでもなく彼は「好き勝手」に生きてきたから、死ぬ時も「好き勝手」にしたいということに他ならない。そこには、巨大な宗教集団に所属し、その組織の枠の中で生きることを「義務付けられ」てきた、私などの生き方を「嫌い」だと言っていることからもはっきりしている。中学時代からほぼ60年の時間の推移をものともせず、二人の間のこの自由さと不自由さの平行線は、表面上全く縮まらない。私は若き日より、先達の生き方をまずは学び、死に方もそこから学ぼうとし続けてきて、未だに学びきっていない。彼のように、自分の考えを突き詰めたあげく「自由に好き勝手に生き、そして死ぬ」というものとは対極にあるのだ▼私の場合、若き日の直観で、これしかないと決めた日蓮仏教、創価思想の道筋を懸命に学んできた。その途次で窮屈さを感じなかったといえば嘘くさくなるが、実際には気づいたらこの歳になっていたというのが正直なところである。「日蓮」、「池田大作」という巨大な存在が放つものを、必死に受け止めることの知的面白さ、感性的愉快さを上回るものなどなかったからこそ、この道一筋で、きた。しかもその方法論で、誤解を恐れずにいえば私も結構「好き勝手」に生きてきた。「好きこそものの上手なれ」という。だれが嫌いなものに取り込まれたりしようか。(2017・1・16)

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