Author Archives: ad-akamatsu

市政130年を寿ぐ「お城まつり」でのハプニング

姫路市は今年市政130周年を迎えています。この5月10日から12日までの三日間、例年のごとく「お城まつり」が行われていますが、節目とあってひときわ賑わっているようです。思えば、30年前の市政100周年は、平成元年、西暦1989年でした。私は衆院選に出るということで、故郷・姫路に戻って、西播磨一帯の4市6郡21町を走り回っていました。当時の市長は戸谷松司氏。兵庫県の副知事からの転身で、軽妙洒脱な話しぶりが印象的なうえ、なかなか華のあるお方でした▼以来、堀川和洋、石見利勝両市長と続き、今は先日当選したばかりの清元秀泰氏というわけです。平成のちょうど30年をここで過ごしてきた私としては、南北の駅前の整備が進んできていることには素直に評価をしたいと思います。ただ、姫路城に行っても、他に見るべきところも、滞在して楽しむところも殆どない。お城に登っても見えるのは冴えない街並みだけというのでは、二度と再び観光客は来ないと思います。ぜひ、私がずっと訴えてきた「城下町」を作って欲しいものです。▼それを作るにあたって、城周辺の掘削を文科省が許さぬのなら、少し離れたところにでも伊勢おかげ横丁的なものを、京都太秦の映画村と類似でもいいので、作るべきです。駅の東側に県立病院が出来るとのこと。それもいいのですが、わたし的には、イベントが出来、城情緒が味わえる溜まり場としての城下町を出現させたいものと思います。そうしてこそ、お城が生きてくると云うものです。新しい市長にはそのあたりを是非考えて欲しいと思うのですが、さてどうでしょうか▼お城まつりの初日。三の丸広場で恒例の薪能が催されました。市内北部の安富町に住む友人夫婦二組と、家内と私の6人で夕闇迫る会場に足を運びました。このうちの一人はフランス人男性。同町の山裾に居を構え6年ほど、IT関連企業での仕事をされています。その近くに住む私の60年来の友人(長田高から慶大と一緒)と共に、昨年のこの催しに参加されてから、親しくなりました。薪能の醍醐味を味わえたかどうか。演能者から発せられる言葉の難解さは日本人とて同様。日仏の国の枠を超え、わからなさと同時に伝統芸能の持つ奥深さを共有した不思議な時間と空間でした。二つの能の演目に挟まれた狂言は心和むものがあり、ほっとした次第です。ここでハプニングが起こりました。演能者に体調の不調を訴える方が出たと云うアナウンスがあったのです。間髪おかず救急車がサイレンとともに駆けつけ、更に消防車まで。場内騒然とまではいきませんでしたが、不安げな空気が漂いました。10分くらいで応急手当はすみ、病院に搬送されたとのことで、ほっとしました。火入れ式の直前で、ここから佳境に入るという時に〝水をさされた〟のは否めませんでした。初夏とはいえ冷え冷えとする寒さに、私たち6人は後ろ髪を引かれる思いで腰をあげてしまいました。初めてお目見えされる新市長の挨拶も、大会実行委員長の高石佳和さんの声も聞かずに。御免なさい。(2019-5-11)

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平成から令和へ、人との繋がり深く広く

「熊森協会」の年次総会(29日)で開けた今年のーといっても翌年の響きがあるがー私のゴールデンウィーク。2日には、毎日新聞の『発言』欄に「放置人工林の天然林化を」とのタイトルでの私の論考が掲載されました。3日には、現実に放置人工林との長い闘いの末に、自らが保有するそれを「熊森」に提供しようとする、徳島美波町の友人を姫路に迎えました。「熊森」本部の事務局の青年に紹介するためです。その間、近所に住む自治会活動を通じて知り合った青年と、初めて二人だけの懇親会(30日)をやったら、何と私の出た大学の後輩であることが判明。また、選挙期間中に知り合った夢前町に住む壮年と、その仲間3人との懇親会(2日)をやったら、多くの友人との絡みあった関係が明るみに出ました。人と人の繋がりはまことに面白いものです▼毎日新聞紙上での「発言」は、様々な波紋を呼びました。というか、こういう記事は放置していますと、誰も気づかないので、親しい友人にはメールをしました。読んでくれ、って。そのうち、兵庫県の井戸敏三知事は「(兵庫県の)緑税でも奥山林の整備として実のなる木を植えています。主張に全く賛成です。こころいたします」と。彼とは「熊森」を巡って論争の経緯(熊の駆除の是非)があるので、嬉しい反応でした。山口那津男公明党代表は、私の活動に敬意を表してくれたうえで、「広葉樹林化に大賛成です。故郷・日立市の森林再生は50年がかりでした」と述べてくれました。これに対して、私がもっと公明党も関心を持って欲しいと返事しますと、同代表は、私の発言が「刺激になる」し、農地問題とともに森再生が地方議員にとっての課題になると、丁寧に応えてくれました。さらに石破茂元地方創生相は「CLT(大型パネル)の普及促進など『儲かる森林作り』も併せて進めなくてはならないと考えております」と自民党の政策通らしい答えをくれました▼実はこの「発言」欄は、以前は「発言席」という名前でした。著名な知識人や文化人らが数多く登場する由緒あるもので、私は常々注目してきています。と言いますのも、かつて創価学会の池田大作先生が環境権を憲法に盛り込んではどうかと提案されたことがあるからです。実は私が厚生労働副大臣を辞めた直後に、関わった後期高齢者医療保険についての論考を寄稿し、掲載されました。今回久方ぶりに登場させて貰い満足しています。こちらが知らせないのに、読んだよとメールをくれた方たちも少ないながらいます。そんな中で最も嬉しかったのは、朝日新聞の根本清樹論説委員長が「論旨明快、間然するところなしですね」と激励してくれたことです。文章修行を人生の一つの目標にしてきた者にとって、ある意味で同業者の褒め言葉はお世辞半分としても悪い気持ちはしません▼徳島からの友人ー春田裕計さんーと知り合ったのは、地域起こしの対象地域として美波町(旧日和佐町)を、勝瀬元広島県立大客員教授から紹介されたことがきっかけです。放置人工林については、春田さんのご両親がかつて懸命になって植林したものですが、それを息子の世代が持て余し、方向転換に向けて長年苦闘されているのは、悲劇を通り越して喜劇にさえ見えてきます。私は彼を「熊森」の会員にして、未だ支部のない徳島の中心者に仕立てようと密かに意気込んでいます。今月末には熊の生息状況を見るために徳島県北部にそびえる剣山に行く予定ですが、彼との再会も楽しみです。このように、人との繋がりが一段と強化され、その輪が広がる中で、私の10日間のGWも終わろうとしています。 (2019-5-5)

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放置人工林の天然林化に動こうー日本熊森協会総会で強調

毎年恒例の一般財団法人「日本熊森協会」の総会がGWの第一日目の27日に尼崎市のホテルで開かれました。この協会の顧問を務めている私は今年も参加してきました。この協会は今年で発足以来22年目になりますが、会長が森山マリ子さんから、室谷悠子さんに代わって初めての総会です。全国各地から会員が参加され、例年にも増して盛況でした。と言いますのは、長きにわたって人工樹林の天然林化を訴えてきた同協会の念願が、ようやく叶う一歩となる「森林環境税」がこの国会で成立したことに起因します▼式次第の中に、「森林環境税への取り組み」が盛り込まれ、映像を通して国会でのロビー活動を中心に「特別報告」がなされました。この中で、挨拶をということで、私がマイクを握りました。この一年の新会長を中心とする懸命の努力を高く評価する一方で、私はこれまでの国会における政治の取り組みがいかにいい加減であったかを直裁に述べました。一つは、私が衆議院予算委員会分科会、同環境委で、森の荒廃が熊の状況に予兆として現れていることを質問でしてきても、大臣や政府担当部局はきわめて消極的であったこと。第二に、かつて某環境相に直接、熊森協会の青年たちを引き合わせて、森と熊の相関関係を訴えて、善処を要望しても全く取り合ってくれなかったこと。そして第三に、議員連盟を立ち上げ、数年間は活動したものの結局は挫折してしまったこと。以上の三点です▼これは、勿論私の非力の結果でもありますが、かくほどまでに政治家たちの関心が低いことを訴えたかったのです。今回の森林環境税の成立に当たって、人工樹林の天然林化を法律にビルトインすることを強く熊森協会は求めましたが、結局叶わず、付帯決議にとどまりました。一般的にこれは前進と受け止められているのですが、私個人としてはきわめて不本意です。この日も挨拶の中で、付帯決議なるものはこれまであまり実現されたことはない、と正直に述べました。努力目標であって、それ以上ではないとまでは流石に口に出来ませんでしたが。ともあれ、国会議員始め政治家のさらなる力の発揮を求めたいと強調しました▼最後に、近く一般紙に、日本熊森協会の顧問の肩書きで書いた私の文章が掲載されるはず、と述べて、是非とも読んで欲しいと力説しました。そして、この会を日本最大の環境保護団体とするために、さらなる努力をと訴えました。終わって、多くの方から、面白かった、感銘受けたとの反応や、それほどまで付帯決議は効力ないのかとの感想を聞かされました。ともあれ、全てはこれから始まるのだとの合意が大事だと思います。議員を引退して6年。この活動も新段階にはいったことを痛感し、皆で力を合わせようと励ましあったものです。(2019-4-28)

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統一地方選後半戦を終えてー姫路市長、市議選に見る

今回の統一地方選後半戦で、姫路市議選には定数47に対して57人が立候補しました。60人のポスターが貼れる大掲示板や、候補者の政見が読める公報を目にしつつ、考えたことは、一票をどう投じるかの難しさです。私のような人間にとっては、公明党から出ている候補者と、自治会のために日頃から頑張ってくれている候補者のどっちにするかは悩みどころでした。二票制に出来ないものか、ととつくづく思います▼また、掲示板の前で思案投げ首の一般の有権者に聴いてみると、誰を選ぶかは本当に選ぶ基準が分からず困るというのです。そこでいつも考えるのは、現役候補なら、実績一覧、新人候補なら、これまでの経歴を主張、抱負と合わせて見ることができる掲示板の常設です。選挙が終わったら片付けてしまわず、そのまま残しておき、当選者については、その後の活動ぶりを継続して見られるような工夫が出来ないものでしょうか。これは掲示板でなく、サイトでもいいのでしょうが、高年齢者には馴染まないかもしれません。ぜひこの辺りをどうするかは当選者の皆さんにも知恵を求めたいものです▼姫路市長選挙はなかなかの激戦でした。結果は、石見市政を継承するとした清元氏の2万5千票差の圧勝に終わりました。勝敗を分けたのはどちらも新人ながら、副市長としてここ数年関わった飯島氏よりも、全く突然舞い降りてきた清元氏の方が新鮮なイメージがあったのかもしれません。市政の継承をする清元氏か、それとも刷新を狙う飯島氏か、の関係が逆転して見えたのは、内科医あがりと総務省出身という政治とのこれまでの関わりも関係したかもしれないように思われます。加えて、組織戦と個人戦の違いもありました。かたや現職市長と代議士のタッグマッチです。地を這い回るような飯島氏の地道な戦いと、企業、団体ぐるみの清元氏とでは、自ずと差が出たのは無理からぬことと、見られましょう▼この選挙戦を通じて気づくのは、メディアの問題提起の弱さです。今回はどう見ても、「市政継承か、新しい市政か」が唯一最大の争点だったのに、正面切ってそうした切り口を提起し、掘り下げるメディアはありませんでした。それどころか、地元紙に至っては、明らかな勇み足をしでかしました。最終盤で、「名門校対決」などと称して、姫路西対白陵という候補者の出身高校を対比する記事を掲載しました。姫路の学校と高砂の学校を比べるのは、受験戦争の記事でもあるまいし、明らかにミスリードです。しかも西高の出身者が5代にわたって続いたとデカデカと市役所市長室の肖像写真を載せたうえ、後援会副会長のコメントを出しました。一方、白陵の方は名前を伏せたままの声だけです。政財界トップ輩出とはあるものの、西高も同様に輩出しているだけに首を傾げざるをえません。ある友人が怒りの電話をしてきました。こんなアンフェアはない、って。かつて、直木賞作家の車谷長吉さんが「西高にあらずんば人にあらず」という姫路の気風を嫌ったことはよく知られているところですが、思わず彼の言葉を思い出してしまいました。こんないびつな切り口で、市長選挙を追うしかなかったのか。大いなる反省を求めたいものです。(2019-4-22)

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中身ある政策論戦に期待の姫路市長選

先に、明石市長選挙や大阪府知事、市長選についてあれこれと書きましたが、今度は地元姫路市の市長選挙です。11日の夜に姫路市市民会館で7時から「公開討論会」があったので行ってきました。青年商工会議所の主催です。元総務省の防災課長で、前の副市長・飯島よしお氏と、元東北大教授で内科医出身の清元秀康氏の対決です。800人くらい入る会場ですが、結構空席があったので、500人くらいでしょうか。当初、一問一答形式で一方的に司会者と候補者のやりとりに終わるかと懸念していましたが、案に相違して面白い論戦になりました▼これをざっくり総括すると、大相撲でいえば、大関対前頭筆頭の勝負で、下位の力士があれこれと仕掛けたのですが、通じず最後は勇み足で自滅したいうことでしょうか。花にたとえると、華やかな桜と、厳しい寒さに耐えてやっと咲いた地味な梅との対決でしょう。桜は艶やかでしたが、パッと咲いて散ってしまいました。どっちがどっちと、訊かれなくともお分りでしょう。飯島さんは、総務省出身の行政のプロです。役人あがりの生真面目さと硬さは否めません。ただ、やはり地方自治については当然ですが、通暁しています。しかも姫路に帰ってきて8年ほど、副市長をしながら、姫路の全地域を這いずり回ってきた(本人はママチャリで走り続けたと言います)強みがあります▼一方、清元さんは、香川医大を出て内科医をしていたようですが、請われて東北大に移り、中央行政にも関わられたといいます。ポスターでお見受けするところ花も実もあるいい男ぶりです。いかにも優しい上品なお医者さんという雰囲気をたたえています。震災の地・東北で懸命の活動をされてきた強かさを持っておられます。この二人の討論は聞き応えがありました。立ち上がりからの前半戦は、清元氏が個別の質問を飯島氏に投げかけ、対論を有利に運ぶかに見えました。ただ、中盤以降は、やや肩や腕に力が入りすぎ、足元がふらつき、上体は常に揺らいでいました。特に、医科大を姫路に誘致するとか、道の駅を市内に四つ作るとか、財源的裏付けのないことを口にして、飯島さんから嗜められていました▼最後は、自ら喋りすぎたとか、ペットボトルの水を殆ど飲んでしまったと口にする一方、自分が行政の現場が分かっていないことを自ら認めていました。面白くて率直な人と見受けました。双方の意見を聞いて、これはいい試みだと感心しました。司会の方もうまい運び方でした。姫路市青年商工会議所も捨てたもんじゃあない、とも。姫路市の発展のためにはこういう機会はどんどん作るべきでしょう。両者とも見識豊かです。政策にもアイデアの違い、実現に向けて手法の相違は見えても、方向はもちろん「姫路の前進」で一致しています。私は今回の選挙で、兵庫県自民党がどちらかを推薦するのではないかと思っていました。しかし、しませんでした。すれば、自公協力で、公明党はその候補を応援せざるを得ないからです。しなかったということは、中立・自主投票で、個人の判断が優先することになります。自民党及びその関係者の干渉を受けずに、それぞれが自分の理性と感性で、より姫路市長に相応しい人を選ぶ選挙になったことは、地域発展にとって好ましいことだと思います。(2019-4-12)

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統一地方選前半戦を終えてー県議選を姫路市に見る

統一地方選挙前半戦を終えて、私がいま考えてることをご披露します。私の住む姫路市という人口53万人の地域に限ってのフォーカスですが、それはそれで全体に通じる教訓とでもいうべきものが見えてくるのではないかと思います。今回の姫路地域では、定数8に対して、公明2、自民3、立憲民主1、共産1、無所属3の11人が立候補。何れ劣らぬ強者揃いで、誰が落ちてもおかしくないと見られる激戦区でした。落選する3人は誰か、興味津々でした。公明は2人のうちどちらかが票を取り過ぎると、片方が憂き目を見ることは必至でした。終わって見れば、私が予想した通りの3人でした。公明勝利に胸をなでおろす一方、予想を書いておけば良かった、とクイズを言い当てたのに口に出さなかった人のように、悔しい思いさえしています▼なぜその3人が落選したのでしょうか。3人に共通しているのは、日頃の活動が市全域にわたっては見えなかったことが挙げられます。次点の維新現の候補者は、この4年間、街頭演説など殆ど私は目にすることがありませんでした。露出度が少ない分、恐らくダメだと見ていました。次の無所属新は、市議一期からの転進でしたが、知られていたのは彼が住んでる地域のみ。市内全域では全く知られていず、やはり無理だと見ていました。3人目の立憲新は、候補に決まったのが2ヶ月足らず前。しかも落下傘候補。これではいくら中央で野党第一党の党に所属しているといっても、難しいのが常識。案の定でした▼さて、後出しジャンケンの解説見たいで、気がひけますが、これからの選挙を占うために、当選者8人を見比べると、いくつかの強さの秘密が浮かび上がります。まず言えるのは二世候補の強さです。自民党現の3人はいずれも親父さんが、元県議であり、元衆議院議員(彼は爺さんも)でした。本人たちは、その秘書だったり、会社の後継者や普通の会社員だったりと色々。政治家としての力量は殆ど見るべきものがなかったのですが、一期4年ですっかり、親の地盤、鞄、看板を引き継いでしまいました▼公明を除くあとの3人は、元自民党だった無所属元と、旧民主の無所属現と、共産現。3人共、二世組とはひと味もふた味も違う個性が際立っています。根強い個人的人気に支えられたものと思われます。このうち、無所属元は前回市長選挙に出て落選しただけに、現市長と戦った功労賞的意味合いの同情票が集まったと思います。旧民主現は、かつて兄貴分だった民主党代議士がさっさと自民党に鞍替えしてしまったので、離婚した親の片方に残った弟のように、哀れに見られた向きがあります。節操のない兄貴分も、さすがに見捨てられないと思ったのでしょう、せっせと弟の面倒を見たとの評価が専らです。共産現はやはり、宮本百合子『播州平野』を生み出した土地柄もあって、一議席を死守するぐらいの力はあります▼公明党の現と新の二人は、知名度の低さが最後までまとわりつきましたが、見事に当選しました。これはなぜでしょう。組織力云々はこの際別にして、私の見るところ、二人が議席を受け継いだ先輩の遺産が大きかったと思われます。公明現の方の先輩は、街頭演説で声が潰れるほどの数をこなし、市民相談も圧倒的に多かった伝説的人物でした。残念ながら脳出血で倒れてしまいました。先輩のこのイメージがダブって、後輩は苦労もしましたが、その分かえって助けられたとも言えます。もう一人の公明新は、政治的にはズブの素人でした。やはり先輩が個性豊かで、演説の特異さが目立っていました。特に婦人層に大変人気があった人でしたが、体調が不調なこともあって、今回退きました。その先輩のイメージと支えがあって、やはり苦労はしたものの、後輩にも受け継がれるに違いないと、期待された向きがあります。こう見ると、今回は無事当選できたものの、次回はよほど頑張らねば、危ないことは違いありません。これから4年の精進が待たれるところです。(2019-4-9)

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50年目の大学入学式に参加して

「新入社‥‥員」と言いかけて、慌てて「新入生の皆さん」と言い直したもんだから、場内大笑い。「令和」への改元が公表された一日の午後3時。パシフィコ横浜展示場で開かれた、慶應義塾大学入学式でのこと。恒例の卒業50年に当たる塾員の参加者を代表して、麻生泰君(麻生セメント社長)の挨拶はなかなか聞かせました。冒頭の言い間違いで笑いを誘ったあと、新入生に対して、大学時代に三つの力を習得せよと続けました。一つは、体力。二つは、語学力とIT力。三つは、魅力だ、と。大学を出て、ちょうど50年、大先輩が後輩達に与える言葉として、いい内容でした。特に、語学力について、日本語は世界で2%ぐらいの人しか喋らない言語だから、国際社会では役立たない。英語と、もう一つぐらいの外国語を話せるようになれとのアドバイスは重要でしょう。選挙戦のさなか、いささか肩身の狭い思いをして上京し、参加してきた50年ぶりの入学式とその周辺を報告します▼慶應義塾大学のこの慣例は、恐らく大学としては寄付を募る絶好のチャンスということでしょう。人生最終盤の峠にさしかかった卒業生に、孫のような新入生と一緒に50年前を再現し、懐かしさを味あわせてあげるから、ちょっとお金も出してね、ということでしょうか。5000万円を超えるお金が集まり、大学の新しい建物建設の一助に使って貰うとの話がありました。この日集まった卒業生は1700人ほど。個人差はあれ、参加した連中は1-3万円程は出しているはず。それなりの満足感を体験できました。この日の式典では、長谷山彰塾長もいい話を聞かせてくれました。福澤諭吉の独立自尊の精神は、己が道は自分が開くということだとして、これからの大学生活で自らの歩む道を決めよと、呼びかけていました。学問は二の次にしてしまい、一生をかけるに足る思想・宗教の習得だけに時間を使ってしまった私は、我が大学の4年間を甘酸っぱい思いで想起しました▼この日入学した新塾生は6000人を超えていました。その代表として登壇し、入学の辞を堂々と述べたのは田中美帆さん。いやはやほんとうに惚れ惚れするような清新さ。近い将来の大輪ぶりを感じさせる、知性と人間的魅力を湛えた素晴らしい女性でした。法学部との紹介でしたが、恐らくはそのスピーチから察するに、法律学科ではなく、私と同じ政治学科に違いないと、勝手に推測したものです。私たちはスクリーンに映し出された映像を見たのですが、かえってその場に挑んだ新入生の顔の表情が良く見えました。21世紀の前半、恐らくは令和の時代に働き盛りを過ごす若者達の面構えを食い入るように見たのですが、田中さんほどには、迫力を感じる表情を見出せず少々落胆しました▼終了後に近くのホテルで塾員招待会が開催されましたが、70歳を超えた元気な爺さん、婆さんばかり2000人も集まっての宴会は壮観そのものでした。二クラスごとに集まったテーブルでのしばしの立食懇談に花が咲き乱れました。私のクラスでは20人ほどが結集。3年ほど前に、電子本を一緒に出した、小此木政夫君(慶大名誉教授)と梶明彦君(元日本航空常務取締役)らと旧交を温めました。また、隣のクラスの田中俊郎君(慶大名誉教授)とも。小此木は韓国、田中はEUの専門家ということもあって、今話題のテーマに自ずと話は及んだものです。この場の話では、英国がこの国本来のしたたかさを失ってるかに見えること、および、中国の不気味な浸透ぶりがEUで目立つとの田中君の話が印象に残りました。小此木君とは、「本を出したから読んでね」「送ってくれたら読後録書くよ」「うーん、ちょっとそれは」「なんで」「分厚くて、高いんだよ」「いくら」「8640円」「えーっ、高すぎるよ。仕方ないから図書館で借りるかな」「頼むね」という会話をしました。この結果、『朝鮮分断の起源』なる、我が友の最近著作を読む宿題を頂いてしまう羽目になってしまいました。(2019-4-2)

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昨今の「教育事情」についての三題噺

きっかけは徳島県の美波町行きでした。去年の11月にも行っているのですが、再びこの25-26の両日に行くことに。なぜこうなったかは、この地の地域おこしに携わるNPO法人「雪花菜工房」(東丸慎太郎代表)との関わりに端を発します。この度は、神戸山手大学の男女学生8人(ベトナム人留学生4人含む)と徳島商業高校の生徒男女10人ほどが一緒です。若者の視点から、この地に必要なものを提案して貰おうというのが狙いです。前回同様に、勝瀬典雄前県立広島大客員教授と、鈴鹿剛徳島商業高校教諭に加えて、神戸山手大学の山下さやか講師も参加されました。二日間にわたり、あれこれの遊びや、ものづくり作業、キャンプファイアもどきのイベント、さらには美波町長との懇談などを行いました。それはともかくとして、当方は教育関係者との懇談に意を注ぎました。これがその後の一週間における二つのグループとの語らいに繋がり、期せずして現代教育事情の三題噺に発展したしだいです▼まず一つ目は、徳島での語らいから。ここでは高校生と大学生、日本人とベトナム人、そして男女双方といった3点程に別れた角度から、観察する羽目になってしまいました。かねて徳島商業高校生については付き合う機会があり、そのパワーは存知のことでしたが、まとまった数の大学生については初めて。それによれば、大学生はいかにも大人しいなあ、との印象を受けました。山下講師によると、最近の大学生はいたって従順で、自己主張が殆ど見られないとのこと。それに引き換え、ベトナム人に限らず留学生はとても意気軒昂とのことでした。確かに、私の目に映った日越大学生比較も、その感受性の度合いで勝負ありの感は否めませんでした▼続いて、姫路に帰って翌27日のこと。石川誠兵庫県民間病院協会会長の呼びかけで、中杉隆夫・前姫路市教育長(元県立姫路西高校長)と橋本俊雄・東洋大姫路高校長(中学校長も兼務)のご両人と種々懇談することに。ここでも教育についての話題が当然ながら出ました。私から、現代の高校における受験教育と職業教育とのありようについての問題提起をしました。実業高校の現代社会での即戦力性と受験高校における文系の脆弱性についてが主たるテーマです。橋本さんは元相生産業高校の校長だったこともあり、大いに共感してくれました。併せて、現在の中高一貫教育において、あれこれと仕掛けを試みており、やがてそれが実を結ぶはずと確信を込めながら熱心に語ってくれました▼三つ目は、翌28日の昼、私の住む地域の住人で大阪市大教授の桝田幹也先生と、環境・医療分野の技術研究者で、学習塾を経営する古岡信吾先生の二人と懇談。ここでは数学をはじめとする理系教育についてが話題に。さらに、昨今留学を望まぬ学生がなぜ多いのかについては、親が子供に危険な旅をさせようとしない傾向があることと、留学せずとも日本で事足りるとの思い込みが学生にあることなどが指摘されました。さらに、留学を促す仕組みがないことも。私からは、仕組み作りの阻害要因として、内外の富裕層が社内留保、親族留保にこだわり過ぎ、自分たちが儲けた資金を世のため、人のために提供、寄付する姿勢がないことが大きいと、指摘しておきました。(2019-3-30)

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平成における「自公連立政権」の隠し味

平成の終わりに際して、様々な形でその30年を振り返っての論評が新聞や雑誌、書籍で展開されている。そのうち、先日の私の「読書録ブログ」でも取り上げた日経の論説フェロー・芹川洋一さんの『平成政権史』なる本について、その背景を考えてみたい。というのは、平成の30年を振り返って、政権の変遷を追いながら、全くそこには公明党の存在が触れられていないからである。いったいなぜなのか。昭和の後半から平成のはじめは自民党単独の政権だったが、途中から連立政権が常態になり、後半はずっと公明党との連立政権だったのに。しかも、ご丁寧に、その締めくくりに、平成の30年間が終わって、日本の政治は元に戻った、とまで仰る。すなわち、かつて55年体制下の自民党、社会党、公明党、民社党、共産党の5党と比較すると、社会党に代わる立憲民主、民社に代わる国民民主党と名前は変われど、中身はほぼ同じで、結局「30年経って一回りした」というのである▼これはあまりではないか。公明党の入った自公連立政権の意味を無視するにも程がある、と。早速、私は旧知の芹川さんご本人にメールを差し上げた。「30年前に一回りで戻ったとされるのには大いに異論があります。公明党が与党になっても政権は変わっていないと言われるのなら、それはそれで批判するなり、論評してほしい。全く無視されるのではあまりにも寂しい」と。日経新聞の論説を代表する看板男だけに、読書録ブログはあくまで丁寧に感情を抑えて書いたつもりである。返答メールには「平成政治史ではなく平成『政権』史です。ご了解していただけないと思いますが、悪名は無名に勝るです」とあった。うーん。「政権」史だからこそ、連立政権の功罪めいたものがあってしかるべきではないか。悪名云々は、政治家がとみに使うセリフ。開き直りとしか思えない▼尤も、ここは謙虚に行こう。公明党が無視されるのは、存在感がないからだ、と。自公連立の時代は15年(途中の民主党政権時代の3年を除き)に及ぶから、平成のちょうど半分を占める。確かに、公明党の音頭で大きく舵取りが変化したとか、自民党の政治を変えるに至ったとかという場面はすぐには思い浮かばない。「もり・かけ」問題やら大臣、政治家の不祥事でも公明党が安倍首相や自民党に揺さぶりをかけたとの場面はない。政権の「安定」に寄与してはいるが、改革のリーダーシップに目を見張らせるものは見られない。一般的には自民党の補完勢力に甘んじていると見える。しかし、本当にそうだろうか▼例えば、公明党が連立政権下で、自民党に呑ませた政策には、年金制度改革、安保法制への新3要件導入、消費税への軽減税率の導入などがある。これらは、家の建築に例えると、新築ではなく改築といったようなもので、どちらかといえば地味である。しかも、普通の市民にとって年金改革でどんと生活が良くなるわけでなく、消費税の軽減税率で大助かりというわけでもない。できれば消費税は上げて欲しくないというのが本音だ。安保法制に至っては、無用の長物に見えかねない。という風にみると、公明党の政治は瑣末なことにこだわってるかのごとくに思われるのは無理からぬことかもしれない。しかし、である。もしも公明党なかりせば、を考えるとどうだろう。全てが安倍自民党のなすがままになってしまうのを、自公二党間の合意形成を探りつつ、軌道修正させてきた。細かな生活次元の創造的政策提言は、あたかも美味しい料理における隠し味のように、偉力を発揮しているといえないか。ことほど左様に中道政治の役割は微妙で繊細であるがゆえに、普通の市民には理解して貰うのは難しいのかもしれない。(2019-3-26)

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浪速の〝ロシア風〟とりかへばや首長選

大阪があれよあれよと言う間に市長、府知事のダブル選挙になった。まさか、と思う向きが私も含め大方だったと思われるが、予測を裏切る展開である。これまでの経緯を追うと、「大阪維新の会」の常軌を逸したと言う他ない「都構想」への思い込みがある。府と市の二重行政が住民にとって不利益をもたらすとの認識には同調出来る。だが、自分たちの案がベストで、それへの様々な対論、異論があるのに、結果として無視してしまう運び方には賛同出来ない。何よりも、2015年に705585人もの大阪市民が住民投票で反対の意思を示した「民意」をあまりにも軽く考えすぎていることには納得がいかない▼維新の掲げる「構想」とは、一言で言えば、今の大阪市をひとたび解体して、5つの特別区に分け、東京23区のようにそれぞれが行政府として自立しながら、大阪府のもとに集約される枠組みである。東京都と似たものなので都構想というわけであろう(府構想と言えばいいのに)。これに対して公明党は、政令市の行政区を「総合区」に格上げし、区の権限を拡大する総合区制度(総合区案)を掲げてきている。現在ある24の行政区を人口20万人程度の統合区に再編するとともに、市議会議員を現行の86から65に減らそうとしている。市を解体せずに、現行の不備を整頓しようというものだが、主にこの2つの案が対立してきている▼こうしたぶつかり合いの解決には、時間をかけての話し合いと妥協、調整しかないと思われる。住民投票の結果と首長選挙の結果とを混同してはいけない。後者での勝利は前者を覆すに足る選択を導くものではないのだ。大阪の隣に位置する兵庫県から見ていると、まるで別世界のように思えてならない。自分たちの意のままにならないからと言って協議を打ち切り、合意を得ぬまま、府知事が市長に、市長が府知事にと、たすき掛け立候補で選挙戦に持ち込むというのは呆れはてる。プーチン大統領が首相になり、メドベージェフ首相が大統領になって選挙戦に挑んだロシアを連想させる。大阪はいつのまに〝維新王朝〟になってしまったのか▼こういう事態になった背後には、維新の中に公明党は選挙で脅かせば、必ず靡いてくるとの読みがあるとされる。衆院選での候補者調整をちらつかせれば、折れる、と。合従連衡は政治の世界の常だが、有権者の総意を睨まずに、庶民大衆の心から遊離した判断は、政党の私物化であろう。「維新」は、西欧風のイデオロギーを連想させない党名である。だが、その名の由来を探ると、水戸藩の藤田東湖が中国の「詩経」の一節(「周雖旧邦 其命維新」)からとったものとされ、東洋風イデオロギーが臭ってくる。日本の政党の中で、その党名にイデオロギー的残滓を残さない唯一の党・公明党の支持者からすると、 その自己中心のゴリ押し的振る舞いは危険極まりないものに写る。いいところもそれなりにある党だけに残念というほかない。(2019-3-16)

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