Author Archives: ad-akamatsu

50年前の足跡を追って、”今再び”の旅に出る

今年のゴールデンウイークはみなさんいかが過ごされましたでしょうか。私は実にユニークで、意味深い二泊三日の信州旅をしてきました。それにはちょっぴりわけがあります。今からちょうど50年前に遡ります。昭和43年4月26日。人生の師匠との初の出会いをしました。22歳の春のことです。それから同年10月8日の二回目の出会いに至るまでの半年間は、私にとってゴールデンイヤーオブハーフ(黄金の半年間)でした。信仰生活を始めて3年にやがてなろうかという昭和42年12月、まさに青天の霹靂のように、医者から「肺結核につき一年入院の要あり」と宣告されたのです。闘病生活(親に内緒で下宿からの通院)を余儀なくされました。そのさなかに師と出会い、根源的な激励を受けることができたのです。まさに至福のひとときでした■「僕の人生も病魔との闘いであり それが転じて黄金の青春日記となった 君も頑張ってくれ 君自身のために 一切の未来のために」との揮毫を『若き日の日記』第二巻の裏表紙に認めて頂いたのは5月17日のことでした。この前後からのほぼ半年間というもの、まさに渾身の祈りを込めて唱題を重ねたものです。病を治すことは自分のためではない、この日蓮仏法の凄さを世界に証明するためだとの壮絶なまでの強い一念でした。その結果、夏の終りには「凄いわね。入院しないで治るなんて。よっぽどうちの薬が効いたのね」という慶応病院の看護師さんの言葉を聞くことが出来たのです。かつて肺結核で人生を棒にふる若者はあまたいました。私は幸いにもそうならずに済み、今に至るまであれこれと病に襲われはしましたが、なんとか逃げ切ってきています■そうした病との戦いを乗り切った大学4年の秋に、仲間たち8人と共に信州旅を実行することにしました。横浜の鶴見を出発点に、軽井沢から鬼押し出し、志賀高原、琵琶池、湯田中から長野、美鈴湖畔、松本、上高地、乗鞍岳などを巡った4泊5日の車による旅行でした。すべてテントを張っての野宿で、旅費は占めて5千円ぐらいだったと記憶しています。鬼押し出しの草原で皆でシートを敷いて勤行をした時に、遠くから年老いたおばあさんと思しき人が手を合わせて通り過ぎて行かれたことや、バスの中での唱題する姿に行きかう車からの不思議そうな眼差しなどが思い出されます。大正池で枯れ木にぶら下がったり、温泉宿(湯に入るだけ)での些細ないたずらなど、若さゆえの向こう見ずの旅でした。そのメンバーから、後に外交官、大学教授(経済学者)、ジャーナリスト(某テレビ局記者を経て幹部)、政治家(衆議院議員、市議会議員)、証券アナリスト、会社社長、地方公務員、団体役員などが誕生しました。その旅ではお互いの成長を誓い合ったものですが、今から振り返ると見事に結果をだしたといえます■それから50年。今年は大きな節目を迎えました。慶應義塾は卒業から半世紀を経た卒業生たちを祝って、その時の一年生の入学式に招いてくれることになっています。昭和44年に卒業した私たちはその式典を明年に控えているわけですが、かつて信州旅に挑んだみんなで「今再びの旅」に行くことを企画しました。残念ながら種々の都合で参加できないものが4人でてしまいました。結局5人で、50年目の旅をしました。二泊三日。新幹線や在来線、路線バス、ジャンボタクシーの乗り継ぎで、鬼押し出しから上高地を経て飛騨高山から帰って来るという駆け足旅行でした。当時映した記念写真やら日記を持ち寄っての旅は何とも言えぬ懐かしいものでした。我々戦後世代の在り様をめぐっては、戦後史における少なからぬ罪があります。難しいことを言いだせばキリがありません。ここはしばらくそれを措いて、ともあれ師との誓いを果たし、無事に歳をとってきたことを祝いあいました。そして人生総仕上げの闘い(私個人はこれを連続革命と名付けていますが)に向けての新たな出発をしたのです。それは50年前が何になるかを目指したとするのなら、今度は、何をなしえたかを目指すものであると銘記して。(2018・5・6)

Leave a Comment

Filed under 未分類

起業を目指す元気な若者たちとの出会い

いい大学を出て、潰れそうにない大きい会社に入るーひと時代前の若者の志向はこれだった。いや、ふた時代ももっと前のことかもしれない。いわゆる「親方日の丸」 的傾向に支配されていたのは。今やそうした憧れは全くといっていいほど見いだせない。かつての就職先の人気上位にあった銀行もメディアも今では斜陽産業。大きい企業だからいいということはなさそうだ。いやそれをいうなら国家官僚も弁護士業も歯科医も憧れの職業とは言い難くなってきている。そんな状況に呼応して新たな会社や業種を起こすという「起業」が若者たちの関心事であるようだ■先日、知人のNさんが主宰する、私にとってはなかなか珍しい会合(「コモンズくつろぎBAR」)に出席した。起業を目指す若い人たちが集まるので、何人か紹介したいので来ないかと誘われたのである。Nさん自身がまたユニークだ。事務所のシェア化を進めたり、モノを寄付する仕組みを作ったり、古民家活用を展開するなど旧来的な思考から逸脱した事業運営に幅広く取り組む女性だ。かねて私が親しくしているビジネスファーム研究所のKさんとはまた一味違う。今回の会合のお目当て、というか人寄せパンダ役は、渋沢健さん。「金融と社会課題の解決をつなぐ投信会社の会長」との見出しで、つい先日朝日新聞の「ひと」欄で紹介されたばかりの人である。ちょうど新聞にでた翌日にお出会いした。コモンズ投信株式会社の会長であるが、実は日本資本主義の父とうたわれる、あの渋沢栄一の高孫にあたる■社会全体にいま横たわる課題解決に向かって立ち上がる人々のために、必要な資金を循環させる流れを作ったという。毎年10月には社会起業家に事業内容と思いを語らせるフォーラムを開催している。また、成長のための資金を循環させ、利益を追求する営利活動とNPO やNGOなどが担う非営利活動をつないでいこうとする試みにも挑戦している。画期的な取り組みをされるひとにしては極めて穏やかで静かな雰囲気を湛えた好感度抜群の紳士だった。いつもながら一方的に喋ってしまう癖のある私の話を、しっかりと受け止めて頂いた。楽しい会話をすることができたが、早速数日後には渋沢さんの著名な「シブサワレター」なるものがメールで届いた。そこには、長期投資とは「未来を信じる力」です、との言葉が添えられていた■渋沢さんのお話の後で、少なからぬ若者たちと名刺交換したり、会話を交わしたが、なかでもS君という25歳の青年は実にパワフルで魅力的であった。台湾出身の整形外科医の父と歯科医の母のもとに京都で生まれた日本人。この3月に大阪医科大を卒業したばかりだが、予防医療普及協会の理事や医療ベンチャー協会の事務局の仕事もしながら、株式会社の代表取締役も務めるという。それでいて、名古屋の病院で勤務医をしているとか。まさに正体不明の”怪人”である。「これ読んでください」と『ロハス・メディカル』なる小冊子を差し出されたので、見ると、元参議院議員で医師の梅村聡さんと彼との対談「あの人に会いたい」が掲載されていた。その肩書には「チュージング・ワイズリー・ジャパン発起人」とある。いやはや驚いた。あれもこれもに首を突っ込んでいるエネルギッシュそのものの若者だ。これから長い付き合いになりそうな予感がする。(2018・4・29)

Leave a Comment

Filed under 未分類

空白区なくした候補者と支援者のあつい共闘ー神河町議選快勝を喜ぶ

兵庫県神崎郡神河町は、姫路からJR播但線に乗って約40分ほど北上すると寺前駅に到着しますが、このあたり一帯の森林に囲まれた田園地帯にあります。北に隣接する生野峠を越えるとそこはもう但馬地域。神河町は旧大河内町と神崎町が合併してできた人口14000人ほどの町です。数年前に話題になった増田寛也元総務相による『地方消滅』という本において、2040年には「消滅する可能性が高い」523自治体の一つに挙げられています。私が現役のころには大河内町には中島さんというベテラン町議がいましたが、この人が引退し、二町が合併してからというものずっと公明党所属の町議は不在でした■兵庫県下で唯一の公明党議員がいない町ということで、周辺地域の議員がカバーするとはいうものの、支持者の皆さんは何かと悔しい思いをしてきました。この地域に今回の町議会選挙(22日投票)で初めて候補者を擁立することになり、昨日の開票の結果、新人の小島義次さんが549票を獲得して5位で初当選(候補者16人)しました。投票率が79%を超え、新人が6人も挑戦する中での激戦を勝ち抜いたことは特筆に値します。定数12で政党公認は一人だけということも注目されましょう。農村部では無所属が殆どで公明党を名乗ることは何かと障害があることも否めません。ここでの勝利はなんといっても候補者の人柄であり、この地域における人としての足跡だと思われます■小島さんとは、私が初めて挑戦したころから交流があり、何かと意見交換をしてまいりました。小学校の教員を長くされ、最終的には校長職に。地域の皆さんに尊敬され愛される存在であった人で、私も畏敬の思いを抱いてきました。町議候補の推薦を受けて挑戦されると聞いて、電話をしたところ、この歳(昭和25年生まれ)になって議員に出させていただくことになるとはまさに青天の霹靂だと言っておられたのが印象的でした。功なり名を遂げられて、普通なら隠居の身ですが、改めて地域の最前線に立たれることは大いなる決意が必要だったと思います。これからの活躍を大いに期待してやみません■人生の総仕上げの年齢で、生まれ育った地域で、庶民大衆の皆さんのために汗をかき、力を尽くすって凄いことですよね、といって激励をさせていただいたものです。実は投票日の前日の21日に朝来市和田山町で、但馬、丹波に在住する元公明党の市町議経験者の会がありました。私はその責任者として駆けつけましたが、集まった13人のメンバーは異口同音に議員引退後の日々を元気で明るく戦ってる喜びを語ってくれていました。私はそれぞれの皆さんとの共戦の日々を思い起こし、そのご家庭を訪問させていただいたことを懐かしく思いだしたものです。82歳の方を始め皆大先輩ですが、それぞれいや増してお元気なことは頼もしい限りです。神河町の小島さんは70歳を目前にして、これから議員活動をされるわけだから、先輩の自分たちも負けてはおられないと奮闘を誓いあいました。ともあれ「ひと」の大事さを改めて痛感した次第です。(2018・4・23)

Leave a Comment

Filed under 未分類

池上彰氏の底力ーBS5夜連続対談を見ての感想

池上彰という人ほど毎日の如くテレビに出ているひとはそうざらにはいない。勿論、いわゆるお笑い芸人と称される人を、連日連夜のごとくテレビでお見かけすることも少なくない。しかし、池上氏は2時間ほどもの長時間にわたって様々な時事問題を解説するといった登場の仕方で、その影響力たるや右に出る人はいないものとさえ思われる。その彼がBSの5局、しかも5夜連続で各界の売れっ子と対談するというので、ビデオに録ってみた。一人2時間だから合計10時間は、見るだけでもなかなか大変。このほどようやく見終えたので、そこで感じたことをざっと取り上げてみたい。その5人とは、橋田壽賀子、美輪明宏、磯田道史、久米宏、ビートたけしという面々■橋田壽賀子さんは『安楽死で死なせてください』というタイトルの本を出しており、それが対談のきっかけとなった。番組の中に実際に安楽死が認められている国での、「服毒自殺」の瞬間が放映され、かなり衝撃的だった。ただ、彼女は安楽死を本当に今望んでいるというよりも、元気で生きている間はいいが、まじかに死を意識するようになったら、安楽死を選択したいという程度のものであった。印象的であったのは、彼女が池上さんの書いた本よりもテレビでの話が面白いといっていたところ。本業は文筆家であると自負する彼としてはいささか不本意そうだったが無理もない。三輪明宏さんはご存知元丸山明宏。絶世の美男子として一世風靡した人だが、その一代記はあまり知られていない。この度の番組で知り、その波乱万丈ぶりは興味深かった。作家三島由紀夫の愛人だったのでは、ということはあまねく知られている。そこいらを訊かれてさらりとかわしておられたのは、味わい深いものがあった。昨今は黄色い長髪をたびかせて妖艶さを漂わせている。池上氏が最後の解説のところで三輪さんのことをしきりに「彼女は」といっていたが、「彼」ではないのかと気になった■磯田道史さんは、若い歴史学者。この人も昨今よくテレビに登場する。最初の頃はメガネをかけていたのに、今はかけていない。コンタクトなのだろう。もっと書くことに専念されたら、などと余計なことを考えてしまう。『陰謀の日本中世史』の著者・呉座勇一氏などと比較し、少々書くものが軽いと思うのは私だけだろうか。久米宏さんは我々世代の「テレビ世界」の寵児だった。池上さんとの掛け合いは、新旧のテレビ解説の裏舞台を垣間見せてくれ実に面白かった。ビートたけしさんは妙におとなしく感じられ、普段の凄みがなかったように思われる。昨今のトラブルが影響したのかと勘ぐったりもしたのだが■池上さんの様々な場所での講演は実に多彩で、ただただその知識の深さ、幅広さに驚く。現代世界史の講義や経済をめぐる解説など色々と彼の「作品」を私はCDで持っている。以前にノート片手にそれを観たり、聴いたりしたものだが、実に勉強になる。尤も、分量が多くただ見るだけでも大変である。先年、姫路にこられた時に、会場別室で数人の方々と一緒に色々とお話を伺う機会があった。何時ものテレビでの印象と全く変わらぬ気さくな印象で、好感が持てた。くだらないテレビが多いと思われる時代状況で一層この人の果たす役割はおおきいものと思われる。(2018・4・15修正)

池上彰氏の底力ーBS5夜連続対談を見ての感想 はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

「都をどり」の歴史を通じて観光の極意を知る

私は現役時代にC型、B型肝炎に悩む人たちに様々な角度から接触してきました。党の肝炎対策プロジェクトチームに関わってきていたからです。引退してからも、地域で肝炎に悩む知人を肝炎訴訟弁護団に紹介したこともあって、より一層綿密な関係が生じています。一昨年からは、弁護士、患者、厚生労働省の担当者らと懇談の機会を得ることができました。のど元過ぎれば熱さ忘れる、といった例え通りに肝炎問題は問題山積ですが、風化しがちです。改めて自分の今の立場で支援をしなければならないと痛感したしだいです■先日はそのメンバーたちと、旧交を温めると共に、「都をどり」を観てきました。京都の春を彩るこの催しに参加したことは過去にもありますが、観光を通じて地域おこしに今関わっているものとして、あらためて大いに刺激を受けることが出来ました。京都は観光地の王者の風格があります。京都駅はもとより四条通りはじめ、外国人客で市内のどこもかしこも大賑わいでした。従来の舞台は祇園甲部歌舞練場。しかし、ここは震災対策に着手するため一昨年の10月から休館となっており、去年に続き今年も京都芸術大学春秋座に舞台を移しています。ここでも観客席の一角は外国人で埋められていました。六景仕立ての演舞は「続洛北名跡巡」と題して洛北の美しい山や川、ゆかしい寺庵をめぐるものでしたが、つくづくと京都の奥深さを満喫できました■六景のうちで、印象深かったのは三景の「盂蘭盆会五山の送り火」です。かつてテレビで詳細な「送り火」の風景を観たことがありますが、現地に足を運んだことはありません。尤も、祇園祭も葵祭も観たことがないのですから、何をかいわんやですが。借りたイヤホンを通じての解説を聞きながら観ていて、つくづく京都の文化のもつ味わいを感じました。これまで京都の祭りは人ばかり多くて、と尻込みしてきた自分を大いに恥じた次第です。四季折々の風景を現地で味わうべきであったな、と。四景では、「詩仙堂紅葉折枝」と題して秋の詩仙堂の紅葉が登場、これまた惹きつけられました。詩仙堂とは、江戸初期の漢詩人・石川丈山によって建てられた山荘です。この人は徳川家に仕えた武人ですが、後に退隠の志を持ち、仏門に入り、学問に精進し詩作に励みました。90歳で亡くなるまでの30年程を詩仙堂で過ごしたと言います■実は京都好きの友人に勧められて、先年にこの詩仙堂に行ったことがあります。紅葉の季節ではなかったこともあり、訪れる人は殆どなく、まことに静謐そのものでした。中国の漢や晋、唐、宋の詩人36人の肖像が4隅の壁に掲げらていたのが思い起こされます。庭に出て散策した際に、流れる水が竹筒を動かす”鹿威し”の音に驚いたほどでした。かつて、丸谷才一さんと山崎正和さんが対談本『日本の町』で「京都は文化を売り物にしているが、金沢は文化の中に生活している」と述べていたのを読み、なるほどなあと思ったものです。しかし、静寂そのものの詩仙堂にいると、改めて京都はいいと感じ入りました。恐らく秋に行っていると、また感想は違っていたかもしれませんが。ともあれ、兵庫・淡路島へのインバウンドに今取り組む身からすると、やはり文化を売り物に出来る地はいい、と思ってしまいます。(2018・4・10)

Leave a Comment

Filed under 未分類

青年部を結成、壁新聞の発刊もー3年間の自治会長務めを終えて

姫路城のすぐ西側に位置する新在家自治会(城西小学校区)の自治会長をすることになって、あっという間に3年が過ぎました。約410世帯もの大所帯です。東京から生まれ故郷に引っ越してきたのが昭和の終り、1989年のこと。今のところに落ち着くまで4度も引っ越しましたが、どこでも自治会活動は妻任せ。地域活動ーゴミ出し、溝掃除から祭りなどーには顔出しすらしませんでした。ところが公職をおりて間もない4年前に、今住む地域の自治会の副会長を引き受けざるを得なくなり、1年やりました。我が地域には4つの区域に23の隣保があります。それぞれ平均すると約20世帯くらいの住民を受け持つわけです。あっという間に副会長の1年が過ぎると、今度は我が区から会長を出すという巡りあわせだということを知りました。会長も、副会長も任期は2年ですが、例外もあり、結局すったもんだの挙句に私が会長を引き受けざるを得なくなってしまったのです■というわけで、2年が過ぎましたが、後継者難で結局1年延長。何とかこのたびは後を継いでいただける方を発見し、拝み倒して引き受けてもらい、私は新設の相談役に就任した次第です。この3年の間に色々なことに手を付けましたが、客観的に見て一番評価されることは、青年部を作ったことでしょう。毎年10月に行われる秋祭りの最大の呼び物はご多聞に漏れず、屋台巡行です。姫路の南部地域では全国に名を馳せる「灘の喧嘩祭り」がありますが、それには到底及びつかないものの、それなりに魅力があります。私も当初はあまり乗り気ではなかったのですが、やがてその魅力に嵌りました。若者が重い神輿を担ぎ、それを老人や女性、子どもたちが囃す。やって見ると中々の面白さです。皆で力を合わせ一つのことを成し遂げる喜びです。屋台を担ぐには最低40人ぐらいの若者が必要ですが、これまでいつも大騒ぎしてギリギリの人数をかき集めるのが精いっぱいでした。それを就任一年目の祭りのあとの「打ち上げ」の場で、皆に青年部を作ろうと提案。賛同を頂いたのです■それには十数年も前から、少年野球の指導をやってくれている壮年の存在があります。この人を中心に毎年祭りの運営が行われてきていました。その息子さん(30歳代後半で小学校の先生)が、かつて父親のコーチのもとに少年野球をやっていたのです。その仲間たちが今やいい青年になっています。そこで、この青年教師を中心にして青年部を結成しようと呼び掛けました。昨年は様々な活動を率先してやってくれ、ついに正月の「餅つき大会」まで企画運営をしてくれることになりました。また、昨年の祭りの終わった時点で、役員の新旧交代をすることにしました。その際に、永年祭りを仕切ってきた壮年が若い世代と交替することに、感極まってしばし声が出なかったことは、大いなる感動を呼んだものです■また、女性のお年寄りを中心に「百歳体操」なるものを毎週水曜日に開催。参加者が少しづつながら増えて、皆本当に楽しいと言ってくれてるのにはホッとします。これは中心になる二人の女性の存在が大きいのです。昨年参加者の皆さんの持ち寄りの品々や手芸ものでバザーを開催するまでになったことも嬉しい限りです。市の高齢者活動を担当する方が、「ここまで活発な自治会は珍しい」と褒めてくれています。ただ、課題も残っています。私が就任する直前に解散した「老人会」を復活させるべく、名前を「超青年クラブ」と替えて、春の桜見物、秋の紅葉狩りとバス旅行をやってきましたが、結局はそれだけで進展はなし。今後の課題として新会長に引き継がざるを得ません。個人的に最も大きな仕事だと自負しているのは、「新在家ニュース」という名の壁新聞(A4版)を発刊したことです。毎月一回発行し、2年を越えて続けてきており、既に27号を数えています。地域内に住む医師や数学者、杖術道指導者らに講演、実技を披露してもらって、それを掲載してきました。また、地域内の飲食店の紹介も好評を博しました。今は「播磨の写真風土記」をプロはだしのカメラ好きに連載してもらっています。もともと新聞記者だったのに編集長になれずに政治家に転出した私ですが、70歳を過ぎて遂につかんだ編集長の座に一人にんまりしている次第です。(2018・3・31修正)

Leave a Comment

Filed under 未分類

領域保全に限定した自衛隊ー憲法9条加憲についての私案( 修正版)

私は衆議院議員に在職当時(1993~2013)のほぼ大半を、憲法調査会と憲法審査会に身を置いていた。中山太郎(元外相)さんが会長を務められている頃には、第一回目の海外における憲法事情の調査(2000年)に、共に欧州へ赴いたものだ。与野党呉越同舟の旅で、右は保岡興治、中川昭一(故人)、左は仙谷由人、辻元清美氏らといったうるさい面子との和気藹々の旅であった。忘れがたいことは、イタリアはローマの大使館において同地在住の作家・塩野七生さんに会ったことである。そのときに彼女は「日本の政治家の皆さんがわざわざイタリアまで来られて、日本人の私に憲法についての考え方を聞きたいと仰るのは名誉なことではありますが、しかし……」と語尾を濁された。懇談の中では、憲法改正に向けては、各議院の総議員の3分の2以上の賛成を得ないと発議できないことを定めた憲法96条の規定を変えることが最優先されるべきだと持論を強調された。政治の世界のまどろっこさを気にされながら、いつものこの人らしい直言居士ぶりに似合わない抑え気味の口調が強く印象に残っている。あれから20年近い歳月が流れた。ここへきて、日本国憲法も改定に向けて、ようやく一歩を進めるかのように見えることは喜ばしい■このたび一般社団法人「安保政策研究会」の構成メンバーによる議論を経て、憲法9条についてどう考えるかの意見表明をまとめる機会が得られた。まず、冒頭に私の考える結論を簡潔に記したうえで、その周辺を補足してみたい。ただし、当然のことながらこれは私個人の考えで、現時点での公明党のスタンスとは異なる。公明党は「憲法9条改正」をめぐっては、慎重な姿勢を崩していない。
 
 憲法9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際平和を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
 ただし、我が国の存立を危うくする明白な事態に対応するため、領域保全に限定した能力を持つ自衛隊を置く。

 今回の憲法改定論議は、憲法9条1項、2項をそのままにして、自衛隊の存在を明文化しようとする安倍首相の提案から始まった。これは改憲、護憲に対して、第三の加憲の立場に立つ公明党を意識したものであることは自明のものであり、従来から加憲の対象に9条も例外ではないとしてきた身として、我が意を得たりという他なかった。公明党内の主張としては少数派であったが、かつての同僚でも有力なメンバーに同様の意見があったものと記憶する。公明党が憲法論議の中で、各党の同意が得られやすいものから加憲していくとの態度をとってきたことは周知の事実であり、環境権などをその筆頭に挙げてきた。議論の当初において加憲は殆ど顧みられなかったが、ここへきて「9条加憲論」がにわかに脚光を浴びるに至ったことは感慨深い■陸海空の戦力を保持しないと述べた後に、自衛隊を置く規定を設けることについては、もちろん異論が少なくない。字面を追うことから矛盾ありとする議論である。ただ、2項の規定を削除せずに、自衛隊を置く規定を新たに加えることは、従来の政府解釈からすれば矛盾はしない。政府は、一切の「戦力」の保持を禁止するとしながら、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするため必要な自衛の措置をとることを(9条が)禁じているとはとうてい解されない」としたうえで、「(自衛の措置は)国民のこれらの権利を守るためやむを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべき」との解釈を示してきている。これは政府の憲法9条解釈の基本的論理であり、1972年(昭和47年)の政府見解である。むしろ、2項を削除したあとに、自衛隊を置く規定を明記することは、明らかに自衛の能力を超えたものとしての自衛隊保持を意味することになり、これまでと違って際限なき軍備拡大への道を開くことを意味しかねない■もちろん、この「9条加憲論」が本来の意味からの合理性に難点を抱え、従来から指摘されてきている現実との乖離を一掃するものでないことは百も承知である。だが、自衛隊という現実に今存在するものを否定しかねないという最も大きな非合理からは逸脱できる。今回の議論はまず、その一歩を踏み出すことで収束させるべきである。つまり、戦後70有余年、延々と続けられてきた憲法論議の顛末を蒸し返すことはもはや御免蒙りたい。今ある自衛隊を認め、領土、領海、領空を守る専守防衛に限定した領域保全能力を発揮することを銘記することだ。なお、先に規定された安全保障法制でも、公明党は専守防衛を越えた、専ら他国を防衛するための武力行使、いわゆるフルサイズの集団的自衛権の行使は許されないとの立場を取った。これは、他国の武力攻撃について、日本が直接に武力攻撃を受けたと同様の被害が及ぶことが明らかな場合を存立危機事態と定め、自衛の措置を認めたものであり、いわゆる集団的自衛権の行使ではない。あくまで、専守防衛内の領域保全のための自衛力を行使するものだとの解釈に立つ。
                                          (2018・3・28)

Leave a Comment

Filed under 未分類

依存派とゼロ派、どちらにリアルがあるか「原発考」❷

Continue reading

Leave a Comment

Filed under 未分類

結局はいつか来た道に迷い込むー「原発考」❶

平成23年3月11日午後2時46分。東日本大震災の発生した瞬間、私は新幹線車中にあった。横浜を過ぎて間もなく。当然ながら列車は停止したが、10分ほどで何事もなかったように目的地に向かった。かなりの混乱に陥った東京をその寸前に脱出していたのだ。さらに、それを遡ること16年前。平成7年1月17日午前5時17分。阪神淡路大震災の当日は神戸から西に約50キロ離れた姫路の借家で寝ていた。グラグラっと揺れる最中に瞬時、不謹慎にも「この家潰れても俺の家じゃない」と呑気なことを考えたことを覚えている。後者は衆議院議員に当選してのち2年。前者は勇退する2年前のことである。要するに20年間の議員生活のほぼすべてが大地震と共にあった。今や”大災害の時代”といわれる特筆すべき時間の流れの中に生きてきていることを改めて痛感する■地震のリアルは歳月と共に揺らぐ。直撃を受けず被災の当事者たることを免れたものは、ややもすれば悲惨な現実から目を遠ざけがちなのは否めない。だが「福島第一原発事故」がもたらした事態は、本来そうした身勝手を許さないはずである。事故発生直後ー経済最優先でしゃにむに生きてきた姿勢を改め一端立ち止ることが求められているとの論調が支配した。しかし、それから7年。結局は元来た道に戻ろうとしてはいないか。「原発」に向き合うことは、現代社会をどう生きるかを考えることに直結する。私は事故前まで、徹底した安全管理のもとに原発依存は止むを得ないという立場だった。だが今では、できるだけ早いうちに依存体質を解消し、早急にゼロに持っていくべしとの態度に変わった。国会議員としての現役最後の2年間は党の内外での様々な場で「原発ゼロ」に向けてどう政策展開をしていくかについて発言していったのである■外交・安全保障分野の党の政策責任者として、核抑止力は必要悪だとのだとの立場を堅持しながら、エネルギー政策にあっては原発依存から脱却していくべしとの態度を取った。これは「核」をめぐって一見矛盾するようだが、その実矛盾しない。前者は直ちに核廃絶は無理だが、必ずや将来において実現できる可能性はある。一方、後者も直ちにゼロは無理だとしても、その意思を持てば必ず実現できる。どちらも端から無理だと決めつけないことではないか。ところが原発にあっては、最初から最後までゼロは無理だとして「依存」を前提とする姿勢を崩さない人びとがいる。原発「ゼロと依存」と。この立場の違いをかつてのイデオロギー的「左右対決」という不毛のものにしてはならない■公明党内部でも後半2年、政調の議論の場で幾たびか論争した。経済力向上の立場からゼロには出来ないという人たちと、ゼロに持っていくべきだというものたちがぶつかり合った。原発依存の立場には、嵐が過ぎればやがてもとに戻せるという気分がそこはかとなく漂う。しかし、それを変えなくては元も子もない事態になるのではないか。衆議院予算委員会の場で、野田首相(当時)枝野経産相(当時)とも議論した。また外務委員会で、自らの原発事故の始末をつけぬままに外国に原発技術を輸出する民主党政府の姿勢に疑問を投げかけた。今は崩壊してしまった政権との論争を振り返ることには虚しさが残るとはいえ、議論の本質は色褪せない。これから数回にわたって国会での自らの議論の軌跡や、昨今の議論の流れを追いながら、これからどうこの問題に向き合うべきかを考えていきたい。(2018・3・11)

Leave a Comment

Filed under 未分類

領域保全に限定した自衛隊ーわたしの考える憲法9条改正案

憲法を改正するとしたらどうするか。これまで現役の時から私がずっと主張してきていることは、「憲法改正」の国民的大論争を起こそうということです。つまり憲法論議をタブーすることなくオープンにすべきだ、と。更に、どこを変えて、どこを変えずとも今のままで良いのかも、はっきりさせようと言ってきました。それは、「憲法改正」ではなく、取りあえずは「憲法改革」とでもいうべきものではないのかとも。日経新聞社に同名の本がありますが、あえて私はこの社の姿勢に賛意を表明し、その本をまとめた現・論説委員長にも会って、それなりに意気投合したことを認めます■で、今話題の核心である憲法9条に限って言えば、私は三項に自衛隊を位置付ける項目を加えればいいという考えを公表してきました。昨年、安倍首相がほぼその線での改憲姿勢を表明したため、若干の驚きを抱いたことも包み隠さずに書いてきました。今、国会の内外でこれをめぐって意見が百家争鳴の様相を呈してきています。私が議員を引退してから所属している一般社団法人「安保政策研究会」でもこのほど憲法論議を開始しました。この会は東京で月に一度開催され、できるだけ上京をその開催日時に合わせるようにしてきましたが、このところ難しくなっています。憲法論議の一回目もやむなく欠席してしまいました。現時点で、同研究会の浅野勝人理事長(元衆議院議員、元外務副大臣、元内閣官房副長官)から次のような試案が提起され、それに対する意見を求められています■「第2章戦争の放棄 第9条1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2項 前項の目的を達するため、国の交戦権はこれを認めない。但し、我が国の存立を危うくする明白な事態に対応するため自衛隊を置く」というものが理事長試案です。これに加えて、いくつかの註が挙げられています。➀平和憲法の根幹は堅持する➁国の存立を担保するために、自衛隊保持を明記する➂集団的自衛権の行使は厳しく制限する。手直しは最小限度に留め、国情および現下の国際情勢に合致するものが望ましいと考えるなどといったものです■これに対して、➀概ね賛同➁異論(手直しすればOK)➂慎重ないしは反対ーの見解を次回までに提示してほしいと求められています。私はこれに対して、➁と提示するつもりです。そして、具体的な手直しについては、第2項の但し以下を、我が国の存立を危うくする明白な事態に対応するため、領域保全に限定した自衛隊を置くとの案を提起するつもりでいます。つまり、領土、領海、領空の領域に限定しての自衛隊です。公明党がこれまで認めてきた自衛隊は、海外に派兵するものではありません。先の安保法制でも我々が認めたのはあくまで領域保全に限定したものです。ここらは自民党との間で見解の差異が存在することは認めざるを得ませんが、改めてここは譲れぬ一線としておきたいと思っています。(2018・3・4)

Leave a Comment

Filed under 未分類