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「米中人権論争」余波ー公明党の対中態度を巡って【上】/4-16

●米中外交論争と参議院決算委での公明党議員の質疑

米国バイデン大統領の誕生後、初めてとなる米中両国の外交担当者によるアラスカ・トップ会談が3月18日に行われた。ここでの衝突ぶりは、ある意味世界史上初の対決とも言えるもので、その報道に接して実に面白かった。戦争は御免被るが、論争は大歓迎だ。とりわけ「人権」を巡っては、この両大国共に脛に傷を持つ以上の弱みがあるだけに、非難の応酬は大いに興味をそそられた。

それから約3週間後の、さる4月5日の参議院決算委員会。公明党議員の質疑をNHK テレビの放映で見ていて、訝しく思わざるを得ない場面があった。予定される日米首脳会談に関連して、同議員が「人権問題」に言及したので、当然ながら米中の対立に踏み込み、日本政府のスタンスを確認するものと期待した。ところが、さにあらず。彼は、「すべての国に人権は守る義務がある普遍的な規範である。ミャンマーだけでなく、日本の近隣諸国を含めてすべての国はこの規範の下にある」と当たり前のことを一方的に喋っただけ。ウイグルにまつわる中国にも触れず、ましてや人種問題の米国にも言及はなく、質疑がなかったのである。

●日本での「マグニツキー法」への動き

このテーマを巡っては、日本版マグニツキー法(深刻な人権侵害を行った個人や団体に対して、資産凍結や入国制限を可能にするロシア発の制限法)を作ろうとの動きが国会内にある。3月30日には、偶々超党派の会合が持たれた。年初の結成準備会には公明党からも発起人が出席していたが、この日は参加者はゼロだったという。これについては後日、ほぼ同主旨の別の議員連盟が結成され、それには公明党から代表者が出たようだが、舞台裏の動きは詳らかとしない。

実は山口那津男公明党代表が同じ日の記者会見で、「人権を巡る欧米と中国の対立」について記者から訊かれて、以下のように答えている。(公明新聞3月31日付けから転載)

1)米国との同盟関係を強固にするために基礎を固めると共に、交流の厚い中国との関係も十分に配慮しながら、国際社会での摩擦や衝突をどう回避するかが重要だ。国際的な緊張の高まりを回避、または収められるよう積極的な対話を日本が主導すべきだ。

1)(日本政府の対応について)人権の保障には対応しなければならない。外国の人権侵害については、日本が制裁措置を発動するとなれば、我が国が外国の人権侵害を認定できる根拠と基礎がなければ、いたずらに外交問題を招きかねない。慎重に対応する必要があるのではないか。

1)(国内で提起されている人権侵害制裁法「マグニツキー法」について)日本政府に海外の人権侵害の状況を調べさせ、制裁措置を発動できるようにする法律だと受け止めている。慎重に検討すべきだ。

この山口代表の発言の捉え方への賛否の見解の披歴もなく、先の公明党の質疑が終わったのは妙に気になって仕方がない。(2021-4-16 以下つづく)

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変異株急増の関西を離れコロナ蔓延中の東京で過ごした三日間

●顧問先の要望対応を次々とこなす

変異株コロナが猛威を振るう大阪、神戸を離れて、コロナ蔓延中の東京へと、6日から8日までの三日間、「何処も同じコロナ禍の旅路」をしてきました。主たる目的は、顧問先の団体の要望を処理したり、定例会合に出席するためです。もちろん、その合間を縫って、昔馴染みの番記者たち、姫路出身の旧友たちとの久方ぶりの飲み会、学問上の恩師の次男で中国文化・映像論の専門家(早稲田大教授)との対話もこなしてきました。合計で10の出会い。「赤松正雄十番勝負」と勝手に銘打って。そのうち仕事絡みの三つの出会いのさわりだけご披露します。

公益財団法人になりたいー一般財団法人「日本熊森協会」の要望を叶えるべく、同協会の室谷裕子会長らと共に6日朝、虎門にある内閣府の出先機関に行きました。姉妹団体の「奥山保全トラスト」の公益財団法人化に取り組んだのが5年前。日本全国各地の森林を守るためのトラスト運動は着実に前進しています。今度は、熊に象徴される大型野生動物との共存を目指す活動への支援の本格化です。担当者から事前説明を受けて、今後の内部的調整に決意を新たにしました。

久しぶりに議員会館の食堂で、昼食をとりましたが、顔馴染みの仲間と次々に出会う楽しいひととき。その都度「熊森」の由来を話す始末に。中でも江田康幸衆議院議員と出会ったことは有益でした。彼は熊本県在住で、「環境」のエキスパート。森林保護と熊との共生への支援を改めてしっかり訴えておきました。

●急遽、石破茂氏との面談も実現へ

翌7日午前、私が名誉会長を務める「日本カイロプラクターズ協会(JAC)」の本部へ。村上佳弘顧問から念入りな施術を背骨、四肢に施してもらいました。命が蘇る爽快さを実感したのち、二人でJ R浜松町駅前の蕎麦屋でじっくりと懇談しました。その中から、石破茂衆議院議員に「カイロ」への協力を求めようということで意見が一致。急遽翌8日朝に日程をとって貰うことにしました。いつもながらの私流の「即断即決」。それに直ちに応じてくれる石破氏は有難い存在です。

翌朝に、同協会の竹谷内啓介会長を伴って議員会館へ。石破氏と30分あまり意義深い面談をしましたが、彼が当選直後に厚生族を目指して勉強し動いていたことは初耳でした。様々な伝統的手技治療に比べて「カイロ」とは殆ど出会いがなかったとのこと。それだけ有意義な機会となり、今後の協力を約してくれました。

●久方ぶりの「安保研」定例会で〝若い発言〟

最終日の8日昼は、内幸町の日本記者倶楽部での「安全保障研究会」の顔合わせ。浅野勝人理事長始め、12人のメンバーが久方ぶりに集まり、押し黙ったまま「アラスカ」の幕内弁当をつつきました。ベトナムの新たな国家主席になったフック氏の甥・フン氏(「ベトナムの声放送」東京支局長)の挨拶に始まり、元外務省、元防衛省幹部らの示唆に富んだ話から、元民放政治部出身のジャーナリストに至るまで、興味深い知見を聞く機会になりました。その間に、若い中国人学者や北京日報記者のコロナ禍や人権をめぐる米中〝小競り合い外交〟への見解披歴など刺激的な場面も。浅野氏の巧みな問いかけに乗せられたかの発言に妙な聞き応えがありました。

私自身は、山口那津男公明党代表の「日中関係は好悪の感情で判断するものではなく、深く浸透している経済的相互依存関係に思いを凝らした大人の対応が求められている」との見解を紹介、公明党独自の立ち位置の斬新さを強調しました。併せて、この20年余の「与党暮らし」の功罪に触れた上で、連立離脱をも視野に、ダイナミックな政局対応を待望している、との自論を披歴したのです。

終わって、浅野理事長や柳澤協二(元内閣副官房長官補)氏らと立ち話。浅野氏から「〝連立離脱〟を口にするなんてまだまだ若いねぇ」と言われ、柳澤氏も同意の雰囲気を匂わせるので、「離脱するくらいの心意気が必要だとの意味ですよ」と反論的弁明。「それなら私と同意見だ」と呆気なく一致をみたしだい。尤も、帰路に着く新幹線車中に、連立を離脱し野党の中核的存在になるといっても、とても「オリーブの木」の軸にはなれないよ、ならば、いかに与党内野党の存在感を増すかだね、と言わずもがな、聞かずもながの〝追い討ちメール〟が届きました。私の発言がそれだけ気になっていることの表れと見えます。

そこへ車内販売が。直ちに「ビール下さい」と呼びかけると、「販売は致しておりません」との連れない返事。「持ち込みは自由なのですが」との不合理極まりない補足説明に危うくキレそうに。「あぶない、アブナイ」ーコロナ禍の飲酒は危ないとの初心に戻り、大人しくお茶を片手にお弁当をつつくことにしました。(2021-4-10 一部修正)

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「尖閣問題」への軍事傾斜と外交無力そして国会での論議なしという不可解な三点セット

少し前のテレビ放映(2-21)になりますが、NHKテレビBS1『自衛隊が体験した離島防衛のリアル』なる番組があり、興味深く見ました。以前にこの欄で報告した『自衛隊が体験した軍事のリアル』の姉妹編とでも言うべきものです。前者が集団安全保障の一環としての日米共同軍事演習だったのに比して、こちらは日本防衛の枠内における米軍支援を受けての共同軍事演習の実態が克明に報じられていました。場所は、ロサンゼルスの南にあるキャンプ・ベンドルトン。2年前の2019年1月に陸上自衛隊(水陸機動団)600人が40日間参加した際のものです◆「離島防衛」と言っても、現実に最も有事が起きうる可能性が高いのは、勿論「尖閣諸島」です。2010年に発生した中国漁船衝突事件以来、この10年余というもの、中国漁船やら同国海警局所属の船舶の侵出が日増しに増加しており、日本の海上保安庁船との一触即発の事態が懸念されています。具体的には、中国漁船や海警船とが数十隻も混在した形での「キャベツ戦略」なる用語で呼称される不気味な挑発が常態なのです。◆尖閣諸島を巡っては、私自身も現役の頃、日本の支配下にある島らしく、船舶が停泊できるような港施設を作るなり、常駐の駐在員を置くべしとの主張をしてきました。しかし、現実にはそれができぬままいたづらに月日が経ち、現時点では島嶼周辺を中国の船舶で包囲されていて、およそそれは不可能と見るのが現実となっています。さてどうするのでしょうか。先のテレビ放映を見ている限り、敵に島が占拠されたという事態を想定し、どうこれを奪回するかにばかり集中しての対応ぶりの演習でした◆これではあたかも戦闘対処あるのみと客観的には写ります。一方で、先の中国の王毅外相の日中共同記者会見での傍若無人の言動(2020-11-24)に、何も言えずに含み笑いのでやり過ごした茂木外相の不可解な態度が問題視されました。この外交戦なき茂木外相の態度と、日米共同軍事演習のリアルを思い浮かべる時に、どう理解すべきか、判断に苦しみます。まさか、わざと中国側に先に手を出させようとの考え抜かれた魂胆であろうとは思えないのですが。この背後には、日常的な国内議論の不足ぶりがあると私は見ています。コロナ禍の現状にあっても、衆議院外務委や安保委、そして参議院外交防衛委の場で、あらゆるシュミレーションを想定した議論が日常的に展開されていれば、外相のあのようなボーンヘッドは起こり得ようがなかったと思うのです。(2021-4-6)

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「タブー」をめぐる2人の言論人のささくれだった関係

「1945年生まれ、慶應大学法学部卒業」という経歴は私と同じ。ただし、卒業は一年私の方が遅い。つまりこちらは浪人したからで、残念ながら一年後輩になる。評論家の佐高信氏のことである。この人は名だたる「左翼」。というか、今はなき「旧日本社会党」の応援団長的存在。政治的には、共産党とこの党を叩き潰すことに青春をかけてきた我が身とすれば、恨まれて当然の立場である。個人的にはこちらは恨みも何もない。この人がしきりに創価学会や公明党批判をしているとは知ってたが、負け犬の遠吠えーいや失礼、老評論家の見当違いと放置してきた◆そんな彼が元外務省分析官で作家の佐藤優氏の書いたものを通じて、私をけなしてくれていることを知った。『佐藤優というタブー』という本である。鈴木宗男氏のいわゆる「ムネオ疑惑」に対して、衆議院予算委での証人喚問に私が立った時の発言がきっかけである。その後の外務委員会に同氏が委員長として復活してきた際に、私が同委で〝形を変えた謝罪〟をしたのだが、それを佐藤氏は前向きに評価をした。『創価学会と平和主義』においてである。「創価学会や公明党のもつ、組織の文化」から出たもので、「失ってほしくない価値観」だと。私は「過ちを改むるに憚ること勿れ」との論語の一節を応用しただけで、感心されるほどのことではなく、かえって恥ずかしいというのが一貫した立場である◆佐高氏は「私には、コウモリ党の代議士らしい状況適応型、いや状況便乗型の発言としかみえません」とステロタイプ的な認識を示している。「コウモリ党」という表現は公明党批判の常套句のようだが、普段友人、知人から「公明党の代議士らしくない」と言われ続けてきた私としては喜ぶべきか悲しむべきか、対応に苦慮する。また、私は公衆の面前で鈴木宗男氏を「叩き上げの人と言われているが、実は周りを叩き上げてきてえらくなった人だ」と揶揄した。なのに、後年再会した際の佇まいが予想を超えた。それに私が感じ入ったということがことの発端である。状況適応も便乗も何もない。人の微妙な心理の綾への気配りどころか、嫌いな政党の人間だからと、ののしる。それはまあ勝手だが、お里が知れようというものである◆佐高氏いうところの、「佐藤氏のタブー」をめぐる態度についての「喧嘩」に、一言だけ口を挟むと、佐藤氏に比べて志が低過ぎる。タイトルについ惹かれて買ってしまい、読んでしまったが、人に勧めるつもりはない。ただ挑発につぐ挑発、罵倒だらけの、聞くに耐えず見るに忍びない文章の羅列で、「読んではいけない」本だからである。尤も「権力批判」を旨とし、「論争」や「喧嘩」をメシの種にしているジャーナリストの生き方には興味がある。その点、最終章の「読書日記」は面白かった。誰と親しい関係かが手に取るように分かってそれなりにためになる。読書好きには‥‥、おっと、佐高氏の術中にはまってしまったかも。(2021-3-21 一部修正3-22)

佐藤優の人柄と著作  山口那津男とのこと

公明党をめぐるタブー

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不断の外交努力で、軍事衝突の事態回避をー安保法制の発動の前に(下)

菅首相が昨年その座についた直後に、日本学術会議の構成メンバー選定を巡っての強権的姿勢が明らかになり、強い批判を浴びました。安保法制の制定時に反対の態度をとった人たちが任命拒否の対象だったのです。5年半前の意趣返しさながらで、学問への政治の圧力と見られたのです。この背景には、憲法9条の規定がいささか厳密さを欠くために様々な解釈を許容する余地を生み出してきたことがあります。憲法学者たちの殆どが安保法制を憲法違反としましたが、少なからざる国際法学者がそれと異なる見方をしていたことは銘記する必要があるのです▲自衛隊の存在すら憲法違反と見るような、憲法9条の解釈と現実との乖離が、先の大戦後から今に至る日本の宿痾です。憲法に対しての「拡大解釈」と「縮小解釈」とがせめぎ合う事態が一貫して続いているのです。前者の立場に立つ人々は国際法に合わせようと、何でもありになりがちですし、後者のスタンスに拠る人たちは、武力行使はたとえ自国防衛であっても禁じられていると、全て反対に陥りがちです。5年半前もその迷路にはまりこもうとしたのを、公明党が議論を整理し、フルスペック(本来の機能を全て満たしている)ではない、限りなく個別的自衛権に近いものに集約させていきました(これについては、自公両党の協議実態を検証すべきだと思いますが、未だなされていないのは残念なことです)▲この論考のきっかけは陸上自衛隊の日米合同軍事演習が初めて米国最大の軍事演習場で行われたことでした。一方、海上自衛隊の合同軍事演習はこれまで幾たびも行われてきています。陸上でのものについては、かつてのイラク事態のようなケースにおいて、日米で円滑な連携対応が出来るようにすることを主たる狙いとしています。あの時は幸いなことに本格的な軍事衝突には至らぬまま、派遣された自衛隊員に1人の犠牲者も出ませんでした。海上での演習は、朝鮮半島や台湾での有事が想定されています。ここでの対応が曖昧だと、「他国防衛」という日本国憲法で禁じられている分野に日本が乗り出すことになります。そうなると、たちどころに悲惨な現実に直面することになるに違いありません▲そこでは「新防衛3条件」に合致したものかどうかが、対応の分かれ目となってきます。机上では第一の条件に盛り込まれたもので線引きが可能なように思われますが、果たして現実にはそううまくいくかどうか。公明党の平和主義も重要な試金石を迎えることになるのです。もちろん、第一義的には、そうした事態に直面せぬように、不断の外交努力が必要になってきます。外交と軍事の双方に万端怠りなく準備する、それこそが政治の選択と決断に委ねられていることを、改めて銘記せねばならないのです。▲ほぼ150年前に欧米各国からの外圧に抗し、日本の政治は、不平等条約解消など国家の「自主独立」を確保するために懸命の外交努力をし続けました。結果としてそれは75年前の〝一国滅亡〟に帰着してしまったのですが、日本という国家が勃興する明治期の外交と、敗戦から占領期を経ての今に至る外交に根本的な違いがあると思われます。「対米従属の構図」にはまっていないのかどうか。それに抗する日本外交の真摯さが見えてこない限り、戦争への懸念はつきまとうと言わざるを得ないのです。(2021-3-10 この項終わり)

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「安保法制騒ぎ」とは何だったのかー5年が経ってその中身を整理する(中)

安保法制の制定から5年。それまで禁じられていた「集団的自衛権」を容認することになったとの捉え方が一般的です。前回に見た、米国での陸上自衛隊の日米軍事演習も、その対応に備えるものと見る向きもあるやもしれません。しかし、両方とも正確を欠いた早とちりです。いわゆる集団的自衛権はー同盟国への攻撃を自国へのものと同一視して、共同で対処するー依然として完全な形では行使できないのです。また、陸上での日米合同軍事演習は、いわゆる集団安全保障の範疇の問題です。仮に中東での紛争に日本が後方から支援する場合に円滑にできるようにするためのものです▲安保法制以前における日本の武力行使の条件は、❶我が国に対する急迫不正の侵害❷これを排除するために他の適当な手段がない❸必要最小限の実力行使ーの三つでした。そのうち❶の記述が長くなりました。「我が国に対する武力行使が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」となったのです。❷と❸はほぼ同じです。これらは「武力行使の新3条件」と呼ばれます。これを集団的自衛権を容認したものと見るか、制限を付けただけで、従来からの個別的自衛権の域を出ないと見るかが、「騒ぎの淵源」でした▲全面的に集団的自衛権を認めるーつまり他国を守るために武力行使をするーのなら、そう書けばいいし、認めないなら従来通りの記述で変えなくともいいわけです。それを新たに変えたということは、「制限付きで容認した」ということでしょう。日本が位置する北東アジアの安全保障環境ー朝鮮半島や台湾をめぐる情勢ーが、今まで通りの対応を許さなくなったからです。つまり、日本の周辺で何が起ころうが我関せずの「一国平和主義」が通用しなくなったとの認識です。ざっくりいうと、自公の政権与党はその認識は一致しましたが、野党との間ではくい違ったのです。更に、自公の間でも、全面容認か制限付き容認かでは対応が分かれ、最終的に公明党の意向が認められたといえるのです▲この問題の最大のポイントは、国際法と日本国憲法との間での考え方の相違をどう調整したか、ということです。国際法では、自国を守るためには勿論、親密な関係にある他国を守るためでも、武力行使は認められています。一方、日本国憲法では、あくまでも日本を守るためにだけしか武力行使は許されないとの立場です。国際法に合わせようとする人たちは集団的自衛権を全面的に解禁しようとし、日本国憲法にこだわる公明党は後者の姿勢を貫き、制限を厳しくつけたのです。敢えて言えば、「日本を守るため」の中身を整理した、といえると思います。(2021-3-6 この項続く)

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自衛隊が体験した軍事のリアルー日米合同軍事演習の密着取材の放映から(上)

一連の安全保障法制が成立してから5年半ほどが経ちます。様々な意味で日本の防衛にとって、大きな転換点となったはずですが、表面上は何事もなく推移していて、その変化は一般市民には感じられません。「軍事」をめぐる議論は、日本ではややもするとタブー視される傾向が強く、あの騒ぎも当時はともかく、今や遠い過去の出来事で何事もなかったかのように思われます。そんな状況下、先日NHK(BS1)で放映された『自衛隊が体験した軍事のリアル』は、軍事紛争と日本、対米関係などについて大いに考えさせられました▲米国にある世界最大の軍事演習場・ナショナルトレーニングセンター(NTC)で行われた軍事演習に、一昨年1月に初めて日本の自衛隊員330人(陸上自衛隊第72戦車連隊=北海道北恵庭駐屯地)が参加したのです。2週間にわたって、米軍(4500人)と、実戦さながらの訓練がなされる場面を密着取材したものが放映されていました。中東の砂漠地帯にある架空の国に駐留する米軍ーそれを敵国のゲリラ部隊が襲うという想定の中で、側面から支援する自衛隊の動きがリアルに写されていたのです。なかなか見応えある内容でした▲この番組で注目されたのは、田浦正人・前陸上自衛隊北部方面総監と、柳澤協ニ・元内閣官房副長官補(防衛省元官房長)がそれぞれインタビューに答えていた発言の中身です。米軍と一体化した軍事演習だと見られるのではないか、との聞き手の懸念に対して、田浦氏は「演習の指揮系統は分けられており、米国の大義のために動いていると見られぬよう、長い歴史をかけて積み重ねてきているものだ」と、キッパリと否定。その上で、「自衛隊は軍事演習に行きたいわけでも、行きたくないわけでもない。しっかりした法の中で、国民に行ってこいと背中を押されて行きたい。そのために、準備するのがプロとしての誇り」と、慎重に自衛隊の立場を明らかにしていました。一方、柳澤氏は、この演習は果たして日本の国土防衛に繋がるものなのか、との疑問を投げかけると共に、「武器を使えば相手も撃ち返してくる」として、「自衛隊部隊の安全と日本の参加がどう受け止められるか、両面から考える必要がある」と、懐疑的な立場を吐露していました▲制服組と背広組のトップ近くにいた二人が異質の答えをしていたことがとても印象的でした。柳澤氏と私はお互い現役当時から懇意で、今では同じ一般社団法人「安保研究会」に属しています。こういう発言をする元背広組はほぼ皆無なだけに、退任直後の彼の発信には波風穏やかならぬものがありました。私には自衛隊幹部の言い分も、建前としてよく分かりますし、柳澤氏のスタンスも本音として首肯できます。それだけに、彼が番組の最後で「この問題は一から十まで政治の問題です」と述べたのがグサリと刺さりました。(2021-2-28 この項続く)

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公明党は中道改革路線の初心を忘れないー森元首相の発言をきっかけに(下)

森発言をきっかけに、日本の政治の今をもたらしている背景について考えてきました。小池都知事の一撃が見事に炸裂。辞任を決意せざるを得なくなった森氏は、後継者指名の模索まで表沙汰になる失態を重ね、「密室好き」の実態を曝け出したのです。こうなると、もはや喜劇。晩年を汚す哀れ極まる姿に、人の出処進退を考えさせる機会を与えてくれたことに感謝するべきかもしれません。

●平成の30年はいったいなんだったのか

平成政治史の30年を振り返る時に、見逃すことの出来ないことがあります。著名なジャーナリストが「平成の政治」についての、政治学者との対談で、政治改革の嵐に始まって、自民党の崩壊から政権交代を経て、結局は元に戻ったと発言しているのです。政党の分布図を見ると、かつての社会党が立憲民主党に代わり、民社党が国民民主党に看板を変えただけで、あとは大筋一緒だというのです。しかし、平成の始まる時点で野党だった公明党が与党に姿を変え、20年も続いていることや、日本維新の党の誕生が見逃されていることをどう考えればいいのでしょう。

公明党のこれまでの懸命の努力を無視されて異議を唱えないことは私には不可解に思えました。直ちに、旧知のこの方にメールで抗議しました。事実認識が間違っている、と。残念ながら曖昧な反応で、納得はいきませんでした。公明党の与党化が自民党の変革を妨げていると、正面から批判されるのならまだしも、その影響についての是非を全く吟味しない態度は、政治評論の名に値しないと思います。対談相手の名うての政治学者には、異論を差し挟んで欲しかったのですが、同意されるに留まっており、残念なことでした。

ただ、それほどまでに、公明党の存在が注目されていないことには考えこまざるを得ません。自民党政治の変革に取り組むために、内側に入り込んだものの、結局はミイラ取りがミイラになってしまってるのかもしれないのでしょうか。当事者の意思はともかく、客観的に見て公明党への評価がお座なりなものに終始しているのは認めざるを得ないのです。

●見えない公明党の〝政権戦略〟

こんな状況の中、尊敬する元外務官僚のN氏とのやりとりで、こんな質問を頂きました。「かつて59議席も獲得(1983年)したことがある公明党が、停滞を続けているのは何故か。退潮に歯止めをかける鍵はなんだと思うか」との問いかけです。この質問を頂いて正直恥ずかしい思いを抱きました。ほぼ40年前に公明党が衆議院60議席に手がかかる寸前だったことを忘れかけていたからです。

中選挙区から小選挙区比例代表制への変化が根源にあるとはいえ、確かに平成の30年を概観すると、公明党は議席数の上でも、獲得投票数においても「停滞」と言われてもやむを得ません。一方、この時代の幕開けの頃には退潮傾向だった自民党が38年続いた「一党独裁」の座からひとたび下野したものの、結局元の位置に返り咲いています。ただし、「自公連立」の名の下に、です。

この間に両党が得たもの、失ったものをあげつらうことは避けます。党利党略的視点ではなく、日本の政治がどう変わったか。庶民大衆にとってどうか。改革の名に値するものかどうかで見ると、残念ながら「連立政権の20年」は、及第点には遠いと思われます。安倍第二次政権誕生前後で比較すると、混乱から安定を勝ち得たとの自己評価が自公両党にはあるのでしょう。この8年でここまできたのだから、これからが〝改革の本番〟だと見る向きが好意的な捉え方でしょうか。

日本の政治の安定のために、公明党の目指す改革を犠牲にしてきたというのが私の考える停滞の原因です。小さな声を聞くあまり、大きな意思が見えづらくなっているともいえます。更に言い換えると、自民党に合わせすぎるあまり、公明党の政権戦略、この国をどうしたいのかとの本音部分が隠れて見えないからだと言えるかもしれません。それが結果的に公明党の存在感を薄れさせることに繋がり、多くの有権者の皆さんに、期待を持ち辛くさせていると私には思われてならないのです。(この項終わり 2021-2-15一部修正)

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〝金権横暴〟の自民は変わらず、改革は未だしー森元首相の発言をきっかけに(中)

●「小池劇場」の再幕開けなのか

森喜朗元首相の「女性蔑視」発言を受けて、小池百合子都知事が東京五輪に向けての「4者協議」に欠席するとのニュースが流れました。この人らしい行動パターンに、思わずニヤリとしてしまいます。またも小池劇場の開幕か、とメディアが騒ぎ始めています。恐らく世論の動向を見ながら、森さんを揺さぶろうとの狙いでしょう。かつて彼女を「男にしたいいい女」と、セクハラまがいの言い回しで表現し、仲間に紹介した私としては、「やれやれ」(嘆息でなく)とけしかけたい思いです。小池さんといえば、細川護煕元首相との、日本新党デビューが今に印象に強く残っています。

その後の今日に至るまでの彼女の変遷はここでは敢えてふれませんが、平成政治史の裏面を飾るにふさわしいプレイヤーのひとりです。私とのご縁は、かつて小沢一郎さん率いる新進党の一員として、「住専問題」で自民党に抗議するすわり込みをしたことを思い起こします。あの頃は紛れもなく「自民党政治」を変えたいとの熱気に、私たちは包まれていました。その少し前に自民党を飛び出した小沢さんの「真意」に賭けた人々は、この国の中で、少なくなかったのです。

自民党の中心軸を占めた彼の思いが、政治家が本来の姿を見失い、官僚の欲しいままになっていることへの反発にある、と私は見ていました。ご本人自身が抱える問題を一時棚上げしても、その破壊力を利用しない手はないと思ったのです。外から自民党政治を変えようと長きにわたって悪戦苦闘してきた公明党ですが、内側から呼応する動きを見せた小沢さんとの「共闘」は、危険を孕見ながらも魅力溢れるものでした。その頃の市川雄一公明党書記長こそ、小沢さんとの「改革劇」の中心的な助演者だったことは言うまでもありません。

●安倍から菅への交替の背後には

その小沢さんが、刀折れ矢もつきた姿になっても、今なお共産党との共闘さえ辞さないスタンスをとっていることはまさに驚異の執念です。自民党政治を外側からでなく、内側から変えることに方針転換した公明党の一員として、その手法の是非は別として、初心を忘れぬ一念の強さだけは学びたいと思っています。「自公連立20年」の経緯の中で、パートナーの質を変えることを忘れてはならない、ということです。自民党はこの8年の第二次安倍政権で、すっかり昔の悪い性癖が頭をもたげてきています。いわゆる「森友、加計、桜を見る会」問題から、河井夫婦の〝金権選挙〟まで、これを往年の「金権腐敗」政治の復活と言わずしてなんでしょうか。

安倍晋三前首相はそのあたりの問題を何ら反省した風もなく、二度目の政権投げ出しとも思える態度で、ひとたび後衛に退いたかに見えます。後釜を選ぶ自民党総裁選に声を上げた三人のうち、一人は宏池会の流れを汲む岸田文雄氏、もう一人は一度は自民党を出たことのある元経世会の石破茂氏。そして金的を射止めたのは、安倍氏のこの8年を支え続けた〝女房役・番頭さん〟だった菅義偉前官房長官というのは中々示唆に富んでいます。雪深い秋田出身で、苦学したあげく地方政治家を経て代議士になったこの人に、就任直後の支持率が高かったことも、いかにも日本人好みで分かろうというものです。ようやく開かれた通常国会冒頭の首相演説。最後のくだりで政治家としての恩師が梶山静六氏だったことに触れ、受けた励ましの言葉を披露して話題になりました。

梶山氏とは、かつて有名を馳せた経世会7人衆の一人です。このことが何を意味するか。権力の主軸が、経世会から清和会へと移った平成政治史を、令和になって元に戻す機縁となるのか。清和会支配の中断を意味するのかどうか、未だその全貌は見えてきません。(この項続く 2021-2-13 一部修正)

 

 

 

 

 

 

 

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経世会から清和会へ、自民党政治の30年ー森元首相の発言をきっかけに(上)

森喜朗東京オリンピック・パラリンピック組織委員会長(元首相)の、いわゆる『女性蔑視』発言を巡って、日本はおろか世界中で顰蹙をかっています。結論は、お辞めになることに尽きると思います。ただ、ここでは少し角度を変えて、自民党論から日本の政治について思うことに発展させてみます。

●安倍晋三前首相の森、小泉論議から

森さんと私の幾つかの出会い、思い出については既に「回顧録」に書いています。一言で言えば、〝軽口居士〟です。私も注意せねば、と自ら戒めてはいます。一点、今まで書いてこなかったことを披露します。かつて、安倍晋三前首相が赤羽一嘉代議士(現国交相)の応援に神戸市にやってきて応援演説をしてくれた時のことです。前首相は、自分が支えた二人の元首相(森喜朗と小泉純一郎両氏)を比較し、こんなエピソードを伝えてくれて会場は沸きました。

まず小泉さんについて。あの人は、人からものを贈られるのを嫌う。送ってきた人には、受取人払いで送りかえすのです。知ってる人はあの人にはものを送らないことにしています、と。一方、森さんは、懇談している際に「君のそのネクタイいいねえ。自分で選んで買ったの。それとも誰かにもらったの?」と訊いてこられるので、えーっと、誰だったかなぁと思案していました。すると、「それは、僕があげたもんじゃあないか。覚えておかないとダメだよ」と。以来、私は人から頂いたものは忘れぬようにしているのですが、と言われたと記憶しています。ただし、この最後の安倍発言は定かではありません。

●自民党の派閥抗争の淵源

実は安倍晋三、小泉純一郎、森喜朗の3人はいずれも自民党清和会に属します。かつての福田赳夫元首相率いる派閥の流れを組むグループです。3人に福田康夫元首相を加えた4人は皆同じ派閥出身ということになります。といっても、福田康夫さんは他の3人とは肌合いの違うところがありますが、ここでは深入りしません。森さんは就任当初は、3年ぐらい経ったら今の立場の後継には、安倍さんをと思っていた、と述べていたようです。かくまで長く首相をやるとは思っていなかったということでしょう。

ともあれ、21世紀を迎える直前に首相だった小渕恵三さんが最後のいわゆる経世会(田中角栄、竹下登の流れを汲む派閥)出身で、以後は、森、小泉、安倍、福田、第二次安倍内閣と、宏池会(池田勇人、大平正芳元首相ら)の流れに属す麻生太郎元首相を除き(勿論、民主党政権も)、ずっと清和会が自民党では主流なのです。

長々と自民党の派閥について述べてしまいました。私のような昭和40年代に新聞記者をしていて、平成の時になって暫く経った頃(西暦では90年代初め)に政治家になったものからすると、経世会の盛衰が見えてきます。政治改革の嵐が吹き荒れていた頃、自民党の人たちから、経世会の鬼子としての小沢一郎さんの怖さを聞かされることが少なくなかったのです。わかりやすく言えば、当時、角福戦争(経世会と清和会の抗争)の尾を引き摺って、虐げられてきた清和会の人たちを中心にした経世会への怨念のようなものが渦巻いていたのです。あれから30年ほどが経って、もはや表面上にはそんなことは見えません。しかし、底流には蠢いているような気がします。(この項続く 2021-2-8)

 

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