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人類相互の連携を目指す戦略樹立の必要を痛感ーコロナ新時代への指針(BS1放映)から

哲学、人類学、歴史学ー日常的にはあまり役に立ちそうにないと一見思われる、三つの学問の碩学がコロナ禍後の新しい時代の方向性を語った番組を観ました。哲学は國分功一郎、人類学は山極寿一、歴史学は飯島渉の三氏です。御三方の注目されるべき捉え方について触れると共に、私なりに考えてみました。

●生命の尊厳さをを追いやるコロナの襲来

まず、哲学から。國分さんのお話で最も印象に残っているのは、イタリアの哲学者アガンベンのこと。今回のコロナ禍で最大の問題は、人の死が極めてないがしろに扱われていることだとしていたことについてです。人が亡くなっても、感染拡大を恐れて遺体はおろか、見舞うことすら叶わないとの現実に対して、「生存以外のいかなる価値も認めない社会とは一体何なんだろう」との問いかけをしていました。尤も、これまでの社会においても、人が死んだら直ちに生存との区別をつける(早々に片付けるという意味)ということが起こっています。直ぐに気づく例は病院の霊安室です。その場所は、地下の目立たぬところにあるものと大概は決まっています。その形態の究極が、今回のケースだと思われます。

このケースと対照的な出来事が、梅雨前線の停滞のもたらす大豪雨による水害でしょう。こちらは行方不明の人を求めてまさに草の根を分ける捜索活動が展開されています。残念ながら見慣れた遺体探しの映像を見ていて、改めてこっちの方が自然なのだと気づきました。生きていながら、見舞いもして貰えず、息を引き取るやいなや別れの儀式もして貰えずに、捨て去られるコロナに襲われた際の人間の存在。仮にこの闘いが常態化すれば、人類の生存にとって最大の危機の訪れとなるやもしれません。

目に見えない敵としてのウイルスと目に見える敵としての水害。前者は人の死を人の生から遠ざけ、忌むべきものとしてのあり様を一層際立たせます。その結果は、生命の尊厳さではなく、生命の限りなき粗末な扱いかもしれないのです。

●ひとり一人の生死に関わる地球全体の危機

次に、歴史学の視点から。飯島さんは、「疫病史観」というものの成り立ちが、ひとり一人の生命を貴重な存在とせずに、数字で捉えてしまうことの危険性にあることを指摘していました。そこでは人間ひとり一人の顔が見えず、集団としてしか捉えられないのはいかがなものか、との問題提起をされていました。

さらに、1万年前に遡って考えると、人間は野生動物を家畜化することで、生態系に介入し、感染症との出会いを必然のものとしてしまった。感染症の流行の背景には、文明化、都市化、グローバル化があることに留意する必要があり、これとの本格的な向き合い方が問われているのではないか、としていたのです。

さらには、大都市からアマゾンの流域に至るまでの世界が初めて、人間の生死の問題を通じて、一体化したと言えることを強調していたのが印象に残っています。コロナ禍に伴う危機は、地域が限定される戦争や災害とはまた異質の、ひとり一人の人間の生死に関わる、まさに地球全体に及ぶものだというのです。

そこから帰結されるものは、自国優先の対応ではならず、世界の連帯こそが求められるということになるのでしょう。にも関わらず、トランプ米大統領始めあいも変わらぬ自国ファーストの姿勢を崩そうとしていません。そう急には改められないということは首肯できますが、真反対の方向へ舵取りの大転換は果たして可能かどうか。それがうまくいかなかった時には、人類の歴史はひたすら滅亡への道を辿るしかないと思われます。

●言葉以外の最良のコミュニケーション手段としての音楽

最後に人類学から。山極さんの指摘で耳目をそばだてされたのは、言葉以外のコミュニケーションの手段が失われようとしており、その見直しが求められているとしていたことです。つまり、ステイホームが是とされ、人の移動が禁止され、人の接触が絶たれることで、人間相互の信頼をどう取り戻していけば良いのかという問題提起です。

その上で、山極さんは音楽の役割の重要性を指摘していて注目されました。人と人を共鳴させる最も良い装置が音楽だというのです。確かにその点は誰しも認めざるをえません。テレビ放映の一場面で、5〜6階のバルコニーから、地上の下に向かって大きな声で歌っている人の姿が耳目に焼き付いています。また、トランペットを吹く伊勢崎賢治さん(東京外大教授)の演奏に合わせて、舞踏家の菅原小春さんが激しく体を躍らせる場面をやはりテレビ放映で見て、心底から感動を覚えた人は少なくないものと思われます。

他方、山極さんはこれから日常生活が取り戻されていくにつれて、再び、人やものの移動が再開されると、地球の汚染が酷くなって、環境破壊が一層進むことを憂えていました。元を正せばウイルスの惑星であった地球を今日のように汚し壊してきた人間は、地球上の主人公ではないことを思い知るべきだと言ったことが強く印象に残っています。その上で、次に来たるパンデミック第二波に備えて、人類はどうアフリカや中南米に援助の手を差し伸べることができるのかが問われるとしていたのです。

これも歴史学からの指摘と同様に、人類の根源的な方向転換の必要性を示唆しています。

●個人としてでなく、人類共通の戦略として

以上に見てきたように、三者三様に大事なことを述べておられました。それぞれ大いに共鳴し、教えられることは大きかったのです。コロナ禍中にあって、ややもすれば感染者の数の変動に一喜一憂するだけで、政治的対応の巧拙を口の端に乗せて、鬱憤を晴らしがちな日常にあって、まことに貴重な問題提起や課題認識となりました。喉元過ぎれば熱さ忘れるがごとく、コロナ禍去って、漫然と以前の放漫な生活に戻らぬよう自戒したいと思います。というよりも、個人のレベルではなく、社会的、国家的、人類的見地からコロナ禍後の人類の行く末を睨んだ戦略を打ち立てる必要を痛切に感じる次第です。(2020-7-14  一部修正)

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コロナ禍中・アラート後の東京を行く

▲久しぶりに二泊三日で上京

6月15日から二泊三日の日程で上京してきました。目的は、農水省水産庁に行き、北海道豊浦町の地域おこしに関連した要望を、同地の関係者と一緒にするためでした。私は議員勇退後、一時シニアアドバイザーとして関わったコンサル会社時代に豊浦町とは町長始め関係ができています。当初は3月あたりに行く予定だったのですが、コロナ緊急事態宣言騒ぎがあり、延期していたものがようやく陽の目を見たわけです。東京はアラートが消えたとはいえ、未だ警戒感が漂うだけに、その地に行くのはいかがか、との家人の警告を無視しての旅ーせっかく行くのだからと、いつもながらの便乗スケジュールをふんだんに組み込んでしまいました。

▲日本カイロプラクターズ協会で施療、懇談

梅雨の時季であることから心配した天候も、日頃の行いの良さを反映してか、晴れ間にぶつかる見事さで、爽やかな行程に恵まれました。第一日目の15日午後の上京後に真っ先に目指したのは、新橋と浜松町の間にある日本カイロプラクターズ協会。旧知の政治顧問による治療を受けながらの意見交換。脊椎をぐっと押しつつ進める矯正施術は抜群の心地よさ。いつもながらの巧みな手技は心底から感心します。この人に初めて会ったのが厚生労働副大臣時代だから、もう15年ほどが経つ。衆院解散総選挙の空気も漂うだけに、いざという際の支援もお願いしたしだいです。

▲衆院法制局で憲法審査会の経緯を聞く

午後3時には衆議院法制局へ。橘局長に会うため。憲法審査会から憲法特委を経て憲法審査会と、一貫してお世話になったこの人とは上京のたびに不定期に懇談して、憲法をめぐる状況を巡って国会の動きの表裏を聴くことにしています。この日は国会最終盤とあってタイミングは良かったのですが、審査会が開かれたのは通常国会を通じて結局1日だけだったとのことで、不満足感は否めませんでした。去年は産経新聞、今年は毎日新聞のインタビューを受けて、様々な提案を私はしてきただけに、愚痴も出ようというものでした。中山太郎元憲法審査会長のような与野党から信頼の厚い人物が必要との観点で一致。私はある意中の人物を推薦しておきました。

▲姫人会で元麻薬課長の出版祝い

夜は、姫路出身の仲間たちで構成される姫人会。私が上京するときに極力集まってくる気心知れた連中で、この日は、元厚労省麻薬課長だった山本章さんの『「奇跡の国」と言われているが‥ どうする麻薬問題』という本の出版祝いを目的に集まったしだい。元東京工大副学長、産婦人科医で早稲田大学教授、元姫路市副市長、元大企業トップと私の6人でした。話題は勿論、麻薬。本に書けなかったという裏話をいっぱい聞き、大いに盛り上がりました。秘話的赴きが多くて、読書録に書くかどうか悩むところです。話題は多岐に亘りましたが、日本のコロナの対応をめぐり、安倍政権の対応は後手後手に終始したという意見が出たので、私はそう断定するのはいかがかと注文をつけました。新型コロナ対応はまだマシな方で、「モリ、かけ、さくら」から「黒川、河井」に至る不祥事5連発の方が罪深いのではないかと主張しておきました。

▲農水省政務官に要望。全国自治体病院協議会理事長と懇談

翌16日は午前から午後にかけて、今回の上京の主目的である、農水省水産庁への要望案件を巡って、勝瀬典雄関学大講師と北海道豊浦町の関係者2人合計4人で打ち合わせをしたのちに、午後2時に河野農水政務官に会いました。北海道豊浦町ではホタテ貝漁が行き詰まっており、それに代わって陸上養殖をするために協同組合を設立し、積極的に事業を展開したいとの当方の考えを伝えると共に、現地視察を是非して欲しいとの要望を行いました。夜は、全国自治体病院協議会の前理事長の邊見公雄さんとの懇親会を友人を交えて行いました。この人とは30年近く前から交友関係があります。このほど痛快極まる本『令和の改新ー日本列島再輝論』を出版されました。私が読書録『忙中本あり』に取り上げたばかりです。近く京都大学医学部の同窓会報に私のこの書評が転載されるとかで、大いに盛り上がりました。

▲伊勢崎賢治東京外大教授からの要望を受ける

翌17日は、お昼時間に荻窪にある伊勢崎賢治東京外大教授の自宅を訪問しました。この人とも関係は古くに遡りますが、お家までお邪魔するのは初めて。同教授はいま、「国際人道法及び国際人権法の違反行為の処罰等に関する法制度」について、国会での立法化に取り組んでおり、各政党に働きかけています。公明党の協力を待望しており、尽力を私に頼みたいということから、話を聴くのが目的でした。私はその場で信頼する後輩の遠山清彦代議士に連携をとった上で、伊勢崎先生への協力を約束しました。先日、テレビで伊勢崎さんと、舞踏家の菅原小春さんの対談(ダンサーとトランペッター)を見て感動したことを始め、世事万般に話題は飛びまくり、時間の経つのも忘れるほどでした。久々の上京で、懐かしい人たちと有意義なひと時を持つことができ、同日3時過ぎに空席が未だ目立つ新幹線車中の人となりました。(2020-6-20  形式修正)

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「競争信仰」はもう終わりにしようー長谷川眞里子と佐伯啓思の場合❹

●まったく新たな価値観への期待

ポストコロナ禍を描く様々な日本人の論考で私が注目したのは、長谷川眞里子さん(総合研究大学院大学長)と佐伯啓思氏(京都大名誉教授)のお二人のものである。前者は、毎日新聞『時代の風』(5月17日付)。後者は産経新聞『コロナ 知は語る』(5月31日付)に基く。

長谷川さんは二つのことを論じているが、ここで強調したいのは、「競争に基づく発展」という価値観についてである。彼女は競争に基づく人間活動が、多大な環境負荷を生み出し、そこに住む人々に精神的ストレスと不幸と矛盾をもたらしてきたが、永遠に富の増加を求めて競い合うことはもうやめて、転換したらどうかとの問題提起をしている。「まったく新たな価値観が出現することを期待したい」と結んではいるが、その中身には触れていない。

佐伯さんは、「グローバリズムの立て直しによる経済成長主義というような価値観はもはや破綻している」と断じ、一方で「このショックをしのいで、V字回復で再びグローバル競争に戻すべき」だとの考え方と「大きな社会転換の契機にすべきだ」との考え方があり、今人類はこの二つの岐路にたっているとの認識を示す。その上で、自分は後者の側に与し、ポスト・コロナの社会像があるとすれば、「医療、福祉、介護、教育、地域、防災、人の繋がりなどの『公共的な社会基盤』の強靭化を高めるものでなければならない」との方向性を明示している。しかも、それは「効率至上主義のグローバルな競争的資本主義というよりも、安定重視のナショナル(国民的)な公共的資本主義というべきものであろう」と、一歩踏み込んでいて、分かりやすい。

ポスト・コロナ禍を巡っては、表面的な変化を追うものが殆どであるなかにあって、価値観の転換を求めるこのご両人のもの、特に佐伯氏のものが出色だと私には思える。

●旧来的価値観の根強さを排そう

我々の社会がコロナ禍に襲われる前から、私などは価値観の転換の必要性を訴えてきた。ただ、訴えはしても、その実現可能性については悲観的にならざるを得なかった。というのは、近過去の様々な安倍首相周辺の不始末があっても、根強い「安倍神話」とでもいうべきものが存在しており、崩れそうになかったからである。つまり、どこまでいっても「経済成長至上主義」であり、株価依存の体質に凝り固まった旧来的価値観の信奉者が多いという現実がある。

しかし、今回のコロナ禍は、その辺りを一気に吹き飛ばしかねない様相を呈し始めている。日本はアメリカや中国ほど貧富の差、格差は酷くはないものの、放っておくと、益々その差は広がりかねない。一歩間違うと、つまり旧来的価値観に身を委ね続けていると、中米二国の後塵を拝するだけになりかねない。ここは、新たな価値観に向けての大論争を始めるべきなのだ。その一歩となるのが佐伯さんの提案だと思う。(2020-6-11)

 

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「互助」の取り組みが必然になるとの期待ージャレド・ダイアモンドの場合❸

◉国際的・国内的な互助の取り組みの強化

今回のコロナ禍を巡って世界の識者がこれからの世界について色々な発言をしています。ここで私は、国際経済や国際政治の動向よりも、もっと大きな枠組みの変化について語ってくれる人のものを取り上げてきましたが、第三のケースは、ジャレド・ダイアモンド氏です。『銃・病原菌・鉄』で有名なアメリカに住む生物・地理学者。つい先ほど私は彼の書いた『人類と危機』上下を読んだばかりです。残念ながらそこには直接的には感染症は危機の対象に挙げられてはいません。ここでは毎日新聞のシリーズ「疫病と人間」第4弾(5-15付け)を基にしてみます。

ダイアモンド氏の指摘で最も胸を打つのは、疫病は世界史の転換点になり得るとしたうえで、「グローバル化が進んだ現代は、自国で感染を抑え込んだとしても、他国で終息しない限り、再び自国に飛び火する恐れがある。自国を優先するだけでは長期的には自国のためにならないのであって、必然的に国際的な協力体制が不可欠なのだ」としているところでしょう。「国際的・国内的に『互助』の取り組みを強化せざるを得なくなる」との結論は極めて重要だと思われます。

ただし、この結論は本人も認めているように、自国優先主義が広がることへの懸念もあるのを承知の上で、あえて、ポジティブな影響に目を向けているに過ぎないとも言えます。「新型コロナへの対応を通じ、人類が『脅威』を見つめ直すことにつながってほしい。それが国や人種、社会階層を超えた連帯を選択する契機となることを期待したい」と述べているように、期待を表明しただけに終わる可能性もあります。

というのも、超大国アメリカが今回のコロナ禍の前に、自国優先主義の旗を高く掲げるに至っていたし、今回の感染拡大に対応するにあたっても、ただひたすら自国を守るのに精一杯だからです。しかも、科学を軽んじる姿勢さえ大統領周辺に顕在化していることには呆れてしまいます。一方、もう一つの超大国中国は、他国への救済姿勢を披歴しようとしているかに見えますが、その本意はどこにあるのか。判別するのは心許ないと言わざるを得ません。ダイアモンド氏は、中国が今なすべきことは、「野生動物の取引の全面禁止」だと強調しています。それがなければ、再び中国初の感染症が起きる可能性が高い、というのです。ここでも科学に背を向けた姿勢の危険性が憂慮されています。つまり、中国にも変形した自国優先主義の存在が窺えるのです。

◉パンデミック第二波への対応が試金石

こうした現状を打開できるかどうかの試金石は、恐らくパンデミックの第二波にどう対応するかで、問われてきます。二つの超大国始め、第一波を経験した欧米先進各国や日本、韓国などアジアの国々が、次に第二波が襲ってきた時に、どう対応するかという側面が極めて重要です。つまり、今は未だ被害状況が大きく報じられていない、アフリカや中南米がこれからパンデミックの危機に陥った時に、どう支援の手が差し伸べられるかで、たちどころに試されてきます。一波で経験したことを、遅れてきたる国々にどう提供できるかという問題です。

やはり、今回と同じように自分のところの問題解決に翻弄されてしまうのでしょうか。それとも、救済の手を差し伸べられるのかどうかです。一波とニ波の境目は判然とせず、マダラ模様になるかもしれません。未だ一波が十分に終わり切っていない状況下に、対応が迫られる可能性もあるのです。そんな時に、このダイアモンド氏の見立てが正しいか、それとも単なる期待だけだったのかがわかるといえましょう。正しかったとなると、地球は大きく明るい方向へと舵取りが進むことになるのですが。

前回みたハラリ氏と、今回のダイアモンド氏の結論は、共に連帯と互助が求められているとしており、ほぼ同じです。前者は全体主義的傾向の台頭を恐れていたことが特徴的でした。ダイアモンド氏は、フィンランドという小国の知恵と頑張りを評価しています。コロナ禍への対応という問題に限らず、北欧各国が様々な課題に果敢な取り組みを見せていることが注目されます。これまで、私たちは、超大国の動向に目を奪われ過ぎる傾向がありました。アジアではベトナムの奮闘ぶりが目を引きます。これからは、小国にもっと目を向ける必要が出てくるのではないか、との予感がしてきます。(2020-6-2)

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「自国優先」排したグローバルな連帯は叶うかーユバル・ノア・ハラリの場合❷

◉瞑想にふけることの大事さ

イスラエルの歴史思想家のユヴァル・ノア・ハラリ氏の発言については、1時間にわたるNHKテレビのインタビュー放映(4月7日)分のものを基にします。この番組の最後に、インタビュアーの道傳愛子さんから、目下の厳しいコロナ禍の中で、どう過ごしていますかと訊かれて、同氏は、ほんの一瞬考えたあと、「瞑想にふけっています」と答えていました。アメリカの政治学者のイアン・ブレマー氏が同種の番組において、同じく道傳氏から今の危機にどう過ごせばいいかと訊かれて「犬を飼うことをお勧めします」と答えたのと、似て非なる意外感を多くの視聴者は感じたのではないかと思います。

ハラリ氏の仏教理解がどの程度のものかは存じませんが、恐らくはそう深いものではないだろうと私は勝手に推測しています。これはこちらのハラリ理解が浅いためであって、深い意味はありません。現存する世界の思想家の中で、仏教の中にあって、法華経が最も高い位置を占めるということを理解し、南無妙法蓮華経の題目と南無阿弥陀仏の念仏との違いなどを説明できる人にはあまりお目にかかったことはありません。その上で、瞑想にふけるということに、東洋的なものを感じてしまうというのは、我ながら思想的軽さを感じてしまいますが、これは率直な印象だから仕方ありません。

今回のパンデミックの持つ歴史的意義はなんだと思うか、と最後に訊かれてハラリ氏は、こう答えていました。「自国優先の孤立主義や独裁者を選び、科学者を信じず、陰謀論を信じたら、その結果は歴史的な惨事でしょう。多数の人が亡くなり、経済は危機に瀕し、政治は大混乱に陥ります。一方で、グローバルな連帯や民主的で責任ある態度や科学を信じる道を選択するなら、後になって決して悪くない道だったと思うでしょう」と。

実はハラリ氏は、自国優先の孤立主義や独裁者が出現する危険性について、ハンガリー、イスラエル、そしてアメリカのケースを挙げて説明していました。大半の時間をそれに当てていました。それとは真逆の道を行くのはどういう場合か。彼はそれを「グローバルな連帯や民主的で責任ある態度や科学を信じる道」だとしました。周知のように、民主主義の超大国・アメリカ自身が、トランプ大統領の登場以来「アメリカ・ファースト」という「自国優先」の旗印を掲げて、「分断」の迷走に陥っています。著名なアメリカの地理学者・ジャレド・ダイアモンドが近著作『危機と人類』の中で、アメリカにおける合意形成の道が現実的でなくなったと不信感を募らせ、嘆いたばかりです。

そういう状況を狙いすましたかのように、新型コロナウイルスは人類に襲いかかってきました。そして、当のアメリカが犠牲者を最も数多く出してしまうという皮肉な結果になってしまっています。しかもアメリカの指導者トランプ大統領は、かつての同国のリーダーたちが率先して世界に救済の手を出すスタンスを、全くと言っていいほど放棄してしまい、ひたすらに自国に構うのに精一杯です。それどころか、中国敵視を強め、かの国がグローバルな観点で、救済の手を差し伸べようとすることを口汚く罵っています。

◉注目される中国の浸透とその狙い

この度のコロナ禍が発生したきっかけが中国・武漢にあったと見られることから、その後の推移において、中国が欧州各国をはじめ世界にマスクの供給やら医療機材提供などに手を染めようとしていることを、マッチポンプではないかと勘繰る向きがあります。そのように見られがちなのは、これまでの同国の振る舞いに起因するところが大きく、〝身から出た錆〟と見る向きが一般です。つまり、純粋な利他行為ではなく、この際、恩を売ることで、他日の見返りを期待しようとの魂胆が見え見えだということでしょう。

もちろん、国際政治の現実は、甘いものではなく、どの国も自国の利益優先、国益重視に赴くことは避けられません。しかし、中国の場合は二つの意味で、歴史的に大きな脅威に映ります。一つは、〝一帯一路〟の旗印の元に、意図的に世界の覇権を目指す露骨なまでの世界戦略が窺えます。もう一つは、かつて、アヘン戦争以来、中国が欧米列強および後発の日本にまでいいように植民地戦略の餌食にされたことへの復讐の念に燃えているとの見立てが窺えるからです。

日本を含む資本主義列強諸国が巡り巡って、過去に自らがしでかしたことへの償いを中国から求められていると見ることも、あながち荒唐無稽なこととは言えないのです。さて、中国がどう出るか。世界は固唾を呑んで見守っています。尤も、コロナ禍以前と違って、経済力における中国の相対的下降は否めません。時あたかも、延期されていた中国全人代において、「一帯一路」の強調が少し減り、全体的に慎重で低姿勢に転じたと見られるものの、勿論その方向の修正を明確に表すには至っていません。自国優先を掲げて、世界のリーダーの地位からあたかも後退するかの如くに見えるアメリカに代わって、中国がその地位を窺うのかどうか。中国の世界への浸透の今後とその真意が試されようとしていると思われます。

ハラリ氏は、もちろん、名指しにはしていませんが、非民主国家の台頭を認めてはいず、むしろ警戒する必要性を強調していることに、留意する必要があります。(2020-5-26)

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ポスト「コロナ禍」考、読み比べージャック・アタリの場合❶

コロナ禍の後にどんな世界が私たちの前に待ち受けているか。様々な論者の競演で喧しい。ここでは目にするままに取り上げ、思うつくままに感想を書いてみたい。1回目は、フランスの経済学者、ジャック・アタリさんから。あちこちの新聞やテレビで取り上げられているが、ここでは、産経新聞5月10日付けの『コロナ 知は語る』をまずはベースに。

★利他的な『生命を守る産業』への方向

ここでの彼の主張は、「過去1世紀で最悪の事態になるかもしれない」とした上で、「人々の間で『社会を別の形に変えねばならない』という意識が芽生えて」きており、そのためには『生命を守る産業』に経済の方向を変える必要がある」としている。ここでいう『生命を守る産業』とは、「衛生や食糧、エネルギー、教育、医療研究、水資源、デジタルや安全保障、民主主義にかかわる生産部門のこと」だとする。なんだか多すぎて、焦点が定まらぬ感なきにしもあらずだが、要するに、「誰かを守り、他者への共感を重んじる利他的な産業へとシフトせねばならない」という。

ここでは、「民主主義にかかわる生産部門」という条件が重要だ。デジタルや安全保障というと、今話題になっている大型データの使われ方は、他者への共感よりも、他者を抑圧し、管理する方向を向いているし、安全保障についても生命を守るというより、自己を守り、他者を傷つけるものに偏りがちだ。すなわち、アタリ氏の掲げる『生命を守る産業』といっても、産業それ自体は中立であっても、用いる人間の哲学、理念、思想次第で、全く逆の結果を生み出すことに注意が必要である。要するに共産主義・中国などは念頭にない。

このところの世界ーつまりコロナ禍以前での動向は、平和構築に向かっての協調、融和よりも、自国優先志向が強かった。その結果、分断の横行がほしいままとなり、経済格差の拡大である。一番端的に現れているのがアメリカ社会である。オバマ民主党政権の目指したものへの反対姿勢を貫き、移民社会の現状に真っ向から反旗を掲げるトランプ共和党政権は、アメリカ社会から「合意形成」を遠ざける一方だとされる。トランプ政権のコロナ禍対応を見ていると、その方向に一段と加速度をつけて進むかに見えている。

アメリカファーストの自国優先、つまりは自己中心主義から、他者との共存、利他主義への転換が求められているということだろう。「情けは人のためならず」という最もポピュラーな格言が今ほど重要視されねばならぬ時はないのではないか。アタリ氏はここでの発言の最後を「他者を守るために動く社会こそ、我々が目指すべき方向」であり、「生命を守る分野で、自立できる産業力を築かねばならない。道のりは長い。その途中、経済競争を乗り越えねばならないだろう。それでも考え方を新たにして、希望を持って進んでいこう」と結んでいる。具体的に、「生命を守る分野での自立できる産業力」に向けての大競争が始まることになるとの予感がするが、日本はどう動くか、大事な局面である。ついこれまで、AI分野を中心に日本は圧倒的に米欧中に立ち遅れているだけに、気分を入れ替えて、新規参入の息吹で挑みたい。

★池田思想によるSGI提言の価値

実は、これこそ、私たち日蓮仏法の目指す方向であり、池田大作先生が「21世紀は生命の世紀である」との旗印のもと、毎年のSGI提言で国連にあらゆる提言をされてきたものと一致する方向だ。改めて池田思想の正しさに強い共感を覚えるものである。

文明にもたらす疫病の影響という観点からすると、14世紀のペストの流行によって、キリスト教カトリック教会が権威を失った。アタリ氏は「宗教的権威は救いを求める人たちの生命を救えなかったばかりか」、「死の意味すら示すこともできなかった」し、「教会の権威は衰え、聖職者に代わって警察が力を持つようになった」という。そして、18世紀末には、死の恐怖から人々を守る存在として医師が警察にとって代わった」とする。つまり、疫病が「近代国家を生んだ」のであり、「迷信や宗教的権威に対し、科学の精神が優位に立つようになった」という。

ここまでの分析は正確だと思う。ただ、今起きているコロナ禍による欧米社会で「医療崩壊」すら招く惨状は、「科学万能」にも警鐘を鳴らしているかに見える。キリスト教の権威崩壊から、科学万能主義の挫折を経て、今回のコロナ禍以後の世界の精神、理念、思想はどこへ行くか。アタリ氏のいう「利他主義で『生命を守る産業』が確実に勝者となるであろう」との方向付けは正しいと思われるが、完全な表現ではない。私に言わせると、利他主義の寄ってきたる思想的根源こそ仏教にあり、なかんずくその最高峰である法華経、その実践の主体である創価学会SGIの力強さが証明される時だと思う。つまり、利他主義のくだりをより正確に言えば、日蓮仏法のもたらす利他主義と置き換えることが望ましいと思われる。

このことは何も我田引水ではない。イスラエルのユヴァル・ノア・ハラリ氏が著名な著作『ホモサピエンス全史』の結論で、これからの人類にとって、「特に興味深いのが仏教だ」と結論付け、「己が心を自身で操れる方途を説く」ものであることをその理由に挙げている。もちろん、仏教の先、その中身には触れていないが、キリスト教に代わりうる思想としての位置付けを評価したい。次回はこのハラリ氏の主張を追ってみる。(2020-5-15)

 

 

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コロナ禍のステイ・ホームでの「放送大学」の魅力

新型コロナウイルスの猛威を前に、これまで全く知らないままできた「放送大学」の存在に気づきました。テレビを見る機会がこれまで以上に増えたといっても、くだらないものが圧倒的に多い民放は見る気がしないという人は少なくないでしょう。NHKには見応えのあるものが時々ありますが、四六時中家にいて見るとなると、とてもその欲求に応えてはくれません。そんな時に私は「放送大学」の講義に、連日はまっています▲当初は20講座ほどに触手を動かしましたが、一講座45分間なので、いささか多すぎ。試行錯誤の結果、半分ほどを淘汰して今は10講座ほどを録画して見ています。率直な感想は、イケルの一言に尽きます。なぜ今までこの存在に気づかなかったのか▲具体的に魅力的だと私が思う講座を挙げますと、国際政治学者の高橋和夫さんのものです。この人は中東問題の専門家とは知っていましたが、実際に講義を聞いてみて、本当に面白く魅力的です。『世界の中の日本』『現代の国際政治』『中東の政治』の3講座を一人で担当していますがいずれも抜群に引きつけられます。北欧、米国、中東など世界各地に足を運び、テーマごとに現地のキーパーソンにインタビューをしたり、縦横無尽に新鮮な画像を提起してくれます。また、『徒然草と方丈記』を担当する国文学者の島内裕子さんの講義も実にためになります。仏像のようなお顔から発せられる落ち着いた語り口はなかなかです。英文学者の宮本陽一郎さんの『英語で読む大統領演説』も単なる英語学習だけでなく、米国政治を中心に幅広い知識習得に役立ちます。そのほか一つひとつ挙げるときりがありません▲今、通常の大学では講義が行われず、このままいくと、大学教員の失業が一気に増えるのではないかということが懸念されているとのこと。確かに、オンライン化による講義の効用がこのまま「ポスト・コロナ禍」も続くと、そういうことも起きかねません。今の大学の講義がどのように勧められているかは詳しく存じませんが、放送大学のような工夫をしている講義はあまりないのではないかと危惧します。ともあれ、70歳台半ばの爺さんが久方ぶりに美味しい食事に出会った時のようにワクワクする思いで、毎日テレビの前に座っています。(2020-5-12  一部再修正)

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オンライン飲み会で気付いた新たな効用と人間関係

私は「異業種交流ワインを飲む会」を、友人の素敵なサロン風事務所(三宮・北野坂)を借りて、毎月その友人(以下〝相棒〟と呼ぶ)との共催で行っています。もともと、7年前に議員勇退後の私が無聊をかこっているように見えたのが可哀想だと思って〝相棒〟が企画してくれたのが発端です。毎月一回欠かさずやってきたので、今月で75回目となりました。会費は2000円。ワインなどの飲み物はそのお金をあて、食べ物は各自の持ち寄ったものをシェアします▲この会には我々2人それぞれの友人が多い時で14-5人、少ない時で5-6人ほど集まってきます。老若男女、ありとあらゆる職種の人たちが集まってワイワイがやがやと、基本的には6時から10時くらいまでの楽しい時間を過ごします。私は自分でルールを作り、極力一度誘った人はこちらからは声をかけないようにしてきました。でないと、同じ顔ぶれになりがちだからです。新たに名刺交換をしたり、色んな場面で知り合った人を誘うように心がけてきました。〝相棒〟が、この会専用のサイトを立ち上げてくれているので、私の一度来た友人もそれを見て二度、三度と来てくれても勿論いいということにしています▲一回に平均2-3人の新たな友人を誘ってきたため、お蔭様でこの7年で200人ほどの友人とここでワインを酌み交わしてきたことになります。〝相棒〟の知り合いとの出会いも含めると、やがて500人の友達の輪になろうかとの勢いです。当初は私が会を仕切って、自己紹介をしてもらった後、テーマをあれこれ振って会話を楽しんできました。しかし、当節ワンテーマで会議を取り仕切るのは難しく、どうしても数人ずつのグループに分かれての雑談が主になってきています(勿論それはそれで楽しいのです)▲そんな会ですが、今の「コロナ禍」で一堂に集まっての会食は〝三密〟に該当するため、避けようということになり、その代わりパソコンやアイパッド、スマホをつかっての自宅や事務所発のオンラインでの飲み会をすることにしました。6時開始の時点では6人でしたが、やがて時間差で2人ほどが加わりました。こういう会は勿論初の試みなのですが、要するに勝手な会話を気に入ったもの同士がすることは出来ません。自ずと中心者なりの発するテーマを中軸にして話題が集中します。つまり、勝手なワイワイガヤガヤでなく、話題を絞っての〝ワインワインがやがや〟が展開されました。このため、かえって今まで見過ごされてきた友人の生の姿が見えたり、新たな友人の特徴が浮き彫りになったりしました。これは大きな収穫だと思われます。スキンシップは希薄になるものの、その分、バーチャルシップの良さが見えるのです。「コロナ後の世界」が気になる中、私はテレビでの放送大学の受講(10講座)を始めましたが、もっともっと新しい挑戦を増やしていきたいものだと期しています。(2020-5-3)

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「コロナ以後」の社会像や人間像の変化について

新型コロナウイルスの感染が終息を迎えたら、それ以前と以後とではどう社会が違っているのか、というテーマは考えるに値する重要な問題だと思います。前回私は、大まかな予測として、アメリカの時代の終わりと自民党政権の時代の根源的変化を挙げました。誤解を恐れずにいうと、国の内外における常識的な見方がひっくり返るようでなければ、感染症パンデミックに襲われがいがないと思うからです。つまり、多くの人々が突然に人生を中断される悲劇に会うのですから、騒ぎの後で元のままに戻るというのは、何かおかしいとの受け止め方です。

それは、企業倒産、雇用喪失、失業などの経済、生活における壊滅的打撃を受けている人たちにとって、聞き辛いことかもしれませんが、単にV字型の回復を願うという次元ではなく、質的な変化、これまで幾たびか繰り返されて提起されながら、放置されてきた問題をこういうときにこそ、実現を願うということがあっていいのではないかと思うのです。

具体的に言いましょう。全体と個という二つの観点から挙げます。一つは、経済成長一本槍の思考からの転換です。これは政治経済分野での環境、エネルギー政策と関連してきます。例えば、原発は、安全性に気をつけてやはり推進することが経済にとって重要だという考え方が一般ですが、そうではなく、全面的に廃止して、持続可能な新エネルギーに全面的に切り替える必要があると思われます。また、リニアモーターカーのようなものも、果たして必要なのかどうか。立ち止まって考え直す必要があるのではないでしょうか。これらは共に極端だとの意見があるかもしれませんが、まさに一考を要します。経済成長万能の考え方からの脱却という意味で、この二つは反成長のシンボル的意味合いがあるので、挙げてみました。

もう一つは、人生の価値をどこにおくかという観点と絡む問題です。共に、自己中心的な生き方ではなく、他者救済的な志向を意味します。例えば、これまで、弱者救済を口にし、障がい者に手を差し伸べることを訴えてきた私たちですが、人との接触を極限まで避けよと言われて、自宅に居続けることが常態になって、改めてその不自由さに気づくということがあります。あの『五体満足』の著者である乙武洋匡さんに、健常者の落し穴的思考を示唆(毎日新聞)されて、恐らく初めて気づく人が多いのです。また、沖縄と本土との格差というテーマも、私自身、「沖縄独立論」を主張してきましたが、本土のエゴと指摘(毎日新聞)され、改めて自分勝手な押し付け的側面が強かったことを認めざるを得ません。たとえ、それが「対中国揺さぶり戦略」だとの持論であるにせよ、です。

以上に挙げた角度の問題はいずれも従来、正論であっても無理筋だとして、脇に追いやられて来ていたものばかりです。これ以外にも勿論山ほど、私たちが向き合わなばならないのに、日常の忙しさや、いわゆる常識に左右されて、棚上げしてきているものがあります。私の想像力の貧弱さもあって直ちに列挙できませんが、「コロナ以後」に予測される新たな自画像、社会像といったものに思いを致す必要性は極めて高いと思われます。

その点で、フランスという国は一味違うなあと思います。というのは、「コロナ以後」にあるべき社会をめぐり、市民的議論のプラットホームを超党派の国会議員が立ち上げたというのです。日本も見倣う必要はあると思うのですが。(2020-4-26)

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今の「政治」はコロナ禍後に抜本的に変わるとの予感

☆世界の知識人3人の提言

新型コロナウイルスの猛威が人類史の上でどういう意味を持つかとの問題は、緊急の医療、政治、経済政策的対応とは別に、極めて重要です。様々な知識人による発言がありますが、先日NHKで放映された、三人の世界的な著名人へのパンデミック・インタビューは聞き応えがありました。三人とは、イアン・ブレマー(米国在住 国際政治学者)、エヴァル・ノア・ハラリ(イスラエル在住 思想家)、ジャック・アタリ(フランス在住 歴史家 経済学者)で、聞き手は道傳愛子さんでした。

それぞれの主張を簡潔に要約すると、ブレマー氏は、中国の国際政治における影響力拡大が注目されるとの見立てをしていました。ハラリ氏は、全体主義的機運の台頭に今後は気をつけていく必要があり、いかなる事態にも民主主義的価値を守らねばならないというスタンスを表明しました。アタリ氏は、自国第一主義を退ける一方、利他主義こそが今最も求められている価値観であることを訴えていました。

私は彼らの主張を聞いていて、直感的にアメリカの時代はこれで終わるとの予感を持ちました。勿論それへの道筋は紆余曲折を伴うでしょうが、その流れが加速化するに違いない、と。合わせて、ポスト・コロナ禍の時代には全ての分野で、新しい価値観が古臭いものに代わって登場するに違いない、との確信をも持つに至りました。

☆与野党のあり方の視座の転換を

そんな思いを抱いたあと、19日のNHK の国会討論会での与野党の中心者の議論を聞き、日本の政治の世界でのこれからのあるべき姿に思いをいたさざるを得なかったのです。それは一言で言えば、与党・自民党の時代の終わりです。この30年の日本は、二つの巨大災害の直撃を受けました。阪神淡路の大震災と東日本大震災による福島第1原発の原発事故です。前者は社会党を中心とする自社さ政権、後者は民主党政権でした。今回ある意味で初めての自民党中心の政権のもとでの緊急事態です。安倍首相は当時の政権の震災対応を悪しざまに言ってきましたが、自らの感染症パンデミック対応もあまり褒められたものでないことがハッキリしてきています。「安倍さんはやはりダメ」「自民党よお前もか」との気分が広がってきています。

未だ始まったばかりで、断定的なことをいうことは憚らねばなりませんが、これだけの未曾有の事態を前にして、この事態が終わった後も同じ統治形態であってはならないのではないかとしきりに思うのです。それは、勿論、民主主義から全体主義への復古を意味するのではありません。未だ見たことのない先鋭的な統治の姿であって欲しいとの願望です。政府与党の酩酊的蛇行ぶりを見ていると、野党の代表が異口同音に「もっと我々の主張を聞け」という言いぶりに同意したくなります。野党も〝昔の野党ならず〟ということに期待したい気分が大きく、無い物ねだりに終わる公算は否定できないのですが。

周知のように、二転三転の挙句、国民全てに10万円を支給することが決まりました。この過程で、予算組み換えをせよとの公明党の要求を自民党はしぶしぶ受け入れましたが、この辺はもっと平時から柔軟に対応すべきです。今回のことで、私的には山口代表がここ一番で立ち上がった印象が強いことに深い感銘を抱くと共に、ここから先は、もっと大胆に頻繁に自民党にもの申す姿勢を見せて欲しいということがあります。かねて、私は公明党がいま野党なりせば、ということを言ってきました。改めて、公明党が与党であり続けることについては、検討を要するのではないか、と思います。少なくとも、安定と改革の優先度は逆転させるべきだと思うのです。(2020-4-21 一部修正版)

 

 

 

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