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小手先の手直しでは追いつかないー公明党の二枚看板を検証する❺

選挙時に掲げる政策公約と暮らしの向上

任期4年を待たずに、ほぼ平均3年で解散されて行われる衆議院総選挙。そして着実に3年ごとにやってくる参議院選挙。その合間に行われる地方議員選挙。その結果、地域の最前線では、ほぼ毎年のように選挙に追われる。公明党の場合、その都度、議員たちが当選後に働いて挙げた実績が語られ、次に向けての政策、公約が掲げられる。とりわけ大衆福祉の党・公明党は、庶民の暮らしをどう守ったかが、大きく問われる。昨年夏(2019年)の参議院選挙では、「小さな声を聞く力」のキャッチコピーのもと、「経済の好循環」を着実に推進し、景気に力強さを与え、軽減税率の実施などで、景気を下支えしつつ、その実感を「家計」へ届けることだと、訴えた。また2017年の衆議院選挙では、公明党は「教育費負担の軽減へ」を掲げて闘った。政治改革の嵐が吹き荒れた平成の始め頃や、政権交代の突風が渦巻いた10年前頃とは大きく違う。より細かな政治・経済課題を掲げて公明党は闘ってきている。その結果、教育費負担軽減や軽減税率の実施による恩恵は明確に生活を潤し、痛みを和らげている。

しかし、それで、庶民の暮らしは大きく好転したといえるのだろうか。政治腐敗で荒れ狂った30年前。自民党と社会党という世界観を異にする政党同士が窮余の一策で組んだ25年ほど前。更に、毎年のごとく首相の首がすげ替えられたすえ、およそ杜撰な政権へと交代した10年前。こうした過去の時代よりも、政治は安定してきたかに見える。確かに、政治課題としての福祉に対する各政党の取り組み姿勢は一段と強まってきた。だが、いつまで経っても楽にならない暮らし。明らかに質的に落ち込んだ生活実態を前に、多くの人はなにか根本的なところで歯車が狂ってしまってると考えざるを得ないのではないか。そういう時に、改革よりも安定を叫ぶ選挙は明らかに目的を取り間違えていると私には思われてならない。

全世代型社会保障の構築に寄せる期待

安倍第二次政権も、私が議員を引退したあと直ぐに誕生したから、はや7年が経つ。この間国際経済のグローバル化はグイグイ進み、米国でのIT、デジタル産業は超スピードでの巨大化を成し遂げ、僅か1%の企業が残り99%を支配する。また、中国における経済成長も著しく、ビッグデータを駆使する産業展開は米国さえ脅かしつつある。後に〝失われた20年〟と呼称される経済の停滞で始まった、日本の平成時代後半は、GDP世界第2位の座から滑り落ちたことに象徴される。今や低開発国並みの経済状況下にあり、近い将来、日本人が中国に出稼ぎに行く日が来るとの噂話がまことしやかに伝えられるほどである。
日本の社会、経済の構造が深く静かに変化してきているにもかかわらず、旧態依然とした対応で米中の狭間に呻吟している。加えて庶民の生活実態は、巨大企業の内部留保の陰で、厳しさは募る一方。所得格差の拡大化の中で、将来生活の不安は日増しに激化している。そんな中で、政府は全世代型社会保障の構築を掲げている。人口減少と少子高齢化が進む中での新たな社会保障のグランドデザインを作ろうとの試みである。公明党はこれにいち早く、中間提言という形で、昨年末に安倍首相に注文をつけた。
このうち、年金では、高齢者や女性の就業率上昇を踏まえた上での対策を強調し、パート労働者への被用者保険適用拡大を提唱している。また、在職老齢年金制度をめぐる諸課題の検証も呼びかけている。医療分野では後期高齢者の窓口負担割合について、負担能力に応じた対応という観点で慎重な検討を求めている。介護では、介護予防に取り組む市町村への支援拡充と、介護支援専門員(ケアマネジャー)の処遇改善を要望している。その一方で、認知症基本法案の成立にも全力を尽くすとしている。子育て支援にあっては、幼児教育・保育無償化の着実な実施や待機児童の解消に向けての多様な保育の受け皿整備を要請している。こうした提言が福祉向上に向けて有力なものでないと言うつもりはないが、今一歩迫力に欠けると言わざるを得ない。台風が押し寄せているのに、雨戸につっかい棒や補助板を打ち付け、植木鉢を移動させているようなものではないか。

中間提言への懸念

加えて、連立政権なのに、当事者ではないかのような記述が見受けられることは訝しい。例えば、中間提言の冒頭に、「年金・医療・介護等、将来の社会保障のあるべき姿を示す中で、開かれた議論により、安心の全世代型社会保障を構築すべきであり、財政論のみから給付と負担の議論を進めても、将来に対する国民の不安は募るばかりである」とあるが、いささか他人行儀の言いぶりに聞こえる。国民不安が募るばかりだから、何とかして欲しいと言うのが庶民大衆の偽らざるところなのに、これでは政府を構成している自覚を疑ってしまう。開かれた議論、財政論を云々する言い回しは、公明党がスポイルされているのか、と疑念を抱く。揚げ足取りをするな、ケチをつけるな、お前も厚労副大臣経験者だろうとの声が聞こえてきそうだ。杞憂ですめば結構なことだ。しかし、公明党は連立20年の歴史を誇っている。厚生労働省には坂口力大臣いらい、副大臣を12人も送り込んできている。うち、私のように引退したものが3人で、あと9人は衆参両院の現役議員である。塊としてぶつかっていって欲しいものだ。もはや、中心は自民党で、公明党との間で合意が得られなかったとの10年前の反省のような言い草は通らない。

全世代型社会保障という名称を聞くにつけ、これまでの社会保障は、高齢者向けに偏っていて、青年世代、子育て世代、子どもたちには目が向けられていなかったのかと、改めて思いが及ぶ。言葉の響きに、国民総活躍社会と似たようなものを感じる。全人間型社会保障とか全生活型社会保障とでもすべきなどと言葉遊びをするつもりはない。包装紙を変えたことで気分が変わるほど事態は甘くないからである。今の自公政権の取り組みでは小手先の福祉政策に思えて仕方がない。(つづく)

 

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政権から脱落した10年前の反省ー公明党の二枚看板を検証する❹

前号(Vol  26)で、公明党の二枚看板のうち、「平和」の擁護についての検証を行いました。今回は、もう一枚の看板「大衆福祉」の実現について検証します。この原稿を書き終えたのちに、新型コロナウイルスが世界に蔓延して大きな被害をもたらしました。コロナ禍のもたらす影響は各国経済に計り知れないものがあると予測されます。そうした状況の変化はあるものの、検証の視座は変わらないと判断して、ここに(下)をお届けします。

時代を覆う暗雲へのまなざし

「気掛かりなのは、IR問題とイラン情勢です」ー2020年のお正月が明けたばかりの7日に神戸のホテルで開かれた恒例の公明党兵庫県本部の新年賀詞交換会で、山口那津男代表は挨拶の締めくくりで、こう語り、通常国会での厳しい論戦と対イラン外交への真摯な取り組みを約束した。この二つが現下の内外の政治課題であることは衆目の一致するところではあるものの、もっと根本的なところで時代を覆う暗雲は、経済格差がもたらす分断社会の現出であろう。気掛かりは、「庶民大衆を覆う生活不安です」と、言って欲しかった。今、わたしの周りでも普通の人々が生活の苦しさを訴える呻き声が聞こえてくる。公明党は立党いらい長きにわたって、大衆福祉の党として、面目躍如たる闘いを展開してきた。政治が取り組むべき課題として、政策のど真ん中に「福祉」を掲げて、存分にその成果を挙げてきた実例は枚挙にいとまがない。しかし、昨今の社会状況にあっては、必ずしも庶民大衆のニーズに応えていないのではないのか、との指摘も無視できない基底音をなしているものと思われる。

この連載下では、「福祉」編として、第一に、この55年間の公明党が培ってきた福祉の党としての実績が初めて揺らいだ10年前の民主党との政権交代時における総括を振り返る一方、次には、時代の変化の中で、変わっていかなければならぬのに、旧態依然としたままの対応がもたらす弊害もみていきたい。また、最後に、どうすればこの事態を打開できるかについて考察をこころみたい。

10年前の敗北時の検証結果

公明党の歴史は当然ながら、20年前の連立政権入りの前とあとで大きく異なる。与党に入ってその主張が形を伴うケースが一気に増えた。ただ、忘れられないのは10年前のことである。その年の夏に行われた衆議院選挙で、民主党が大勝し、自民党と公明党は大敗した。自公両党は、政権の座から転がり落ちたのである。公明党は選挙直後から直ちに、社会保障と安全保障の両分野(私は後者を担当)で、何故に負けたのか、全党挙げて検証を試みた。そのうち、社会保障制度調査会(坂口力会長)がまとめた検証報告は、極めて印象深い。「家計が悪化する中で社会保障の自己負担増を強いられることになった生活者の声を政治に反映するという公明党に期待された力を十分に発揮することができなかったことは反省しなければならない」としている。その上で、長きにわたる自民党政治の課題・問題点に対して公明党の立場から改善を求めてきたが、「大枠の改革を実現するまでは至らなかったことも確かである」と総括しているのだ。今から見ると、ちょうど折り返し点における貴重な検証になる。

具体的には、年金、医療、介護、障がい者の四つのテーマを巡って、その改革への取り組みの検証が試みられているのだが、「失敗である」「反省する」との文言がいくつも目立つ。年金の制度改革(2004年)では、負担増に歯止めをかけ、持続可能な制度にしたことに一定の評価はなされるものの、 根本的課題については問題先送りとの批判もあることを認めざるを得なかった。とくに国民年金加入の高齢者の不安解消に向けて、「自民党との合意に至らなかったのは残念である」としている。

後期高齢者医療制度では、保険料負担を巡って「個々の自治体や所得の相違から大幅に保険料が上昇する事態について十分把握されておらず事後的な対応に追われたことは失敗である」とすると共に、「新たな保険料負担が生じたという批判を受けることになったことは事前の国民に対する説明が明らかに不足しており政府・与党の失敗である」と結論づけた。

介護保険制度についても「『予防重視』の名のもとに、要介護認定が厳しくなるなど、給付を抑えることのみに目が向き、国民の意向に応えられない結果となったことは失敗である」と率直な捉え方をした。障がい者対応については、「わが党に恒常的に障がい者問題に取り組み、反映させる機関が不在であった(05年まで)」こともあり、「現場の声がキャッチできなかったため、大きな制度改正の論議に耐えきれず、役所に主導権をとられた」と極めてリアルな表現で反省している。

その後の目覚ましい実績

敗北の惨めさを噛みしめながらの総括。政党が自らに下した鉄槌はあまり類例を見ない。あれから10年。年金に関しては、無年金者救済法の成立に尽力した。受給資格期間(公的年金受給に必要な保険料納付期間)が25年と極めて長く、それに満たない人は無年金になっていた。それを一気に10年と縮小したのである。これによって困窮する無年金者は大幅に減ったことは間違いない。医療については、高額療養費の改善が挙げられる。限度額を引き下げ、中低所得者約4000万人の負担減を図ったことは大きい。病院の窓口支払いの高額負担の恐怖から解放したのである。介護にあっては、家族の介護を理由に離職せざるをえない人が後を絶たない状況の中で、企業に行動を促す「介護離職防止支援助成金制度」の創設を始め、介護報酬上げ、介護休業取得の円滑化などに力点を置いた。障がい者問題では、自立支援法成立および改正に伴う過程での懸命の努力が特筆される。

政権脱落時の背景にあった福祉政策の綻びを償うために、もう一度原点に立ち返っての公明党の闘いぶりはめざましく、挙げた実績はまことに数多い。(つづく)

 

 

 

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この10年ー見て見ぬふりをしない生き方を(下)

「余命5年」ー私が最近個人的に強く意識している言い回しです。75歳を今年の誕生日で迎える私にとって、これから5年経つとほぼ平均的日本人の寿命になります。かつて私は「後期高齢者」という言葉を使い出す(2008年・平成20年に後期高齢者医療制度がスタート)ことに承認を与えた関係政治家(厚生労働副大臣)の一人です。当の本人がその歳を迎えるにあたり感慨深い思いを持ちます。いよいよ自分もあちらの世界への順番待ちに入った、と。前回見たように、地球・人類はひょっとすると、「余命10年」を宣告された「死に至る病持ち」なのかもしれません。そう覚悟を決めておかないと、「10年後が分岐点」との表現だけでは、結局、大した対応もせぬまま「座して死を待つ」無力な患者のように、終末を無為に迎えてしまうのです▼そんなことで、個人・赤松正雄も終わりたくない、かつ地球・人類も終わらせたくないーたまたま個人の死と世界の終わりとが重なる可能性なしとしない世代の一人として、強い想いが胸中に渦巻いてきました。そこで私は今、一つの運動を起こす主体者たろうと準備を始めています。それは、心臓(脳も含むケースも)の障害を突発的に起こし倒れた人を救う行動です。もっと具体的に言いますと、AED を使用するまでの緊急の時間に、必要な胸部圧迫を適切に行おうとするものです。すでに心肺蘇生法の名の下に、両手を使って呼吸を蘇らせ、AED に繋ぐ行為として確立し、各地の現場で実績を残していることは周知の通りです。その方途をさらに拡充し誰もがどこでも倒れた人を蘇らせることに貢献しようという狙いを持つものです▼これはドイツで考案された器具を、倒れた人の胸に当て、上から圧力を一定回数加えることで、両手で心肺蘇生法を講じるのと同様あるいはそれ以上の効果を発揮します。いざという場合に、胸をはだけさせ、素手でやることに躊躇する人でも、上衣の上から器具を押し、その都度器具から上がる音を確かめながらやることには、抵抗がぐっと少なくて済むものと思われます。全ての人々がすぐ目の前で、自分の真横で倒れている人に、手を差し伸べることからまずは取り組もうという運動は極めて重要だと私には思われます。そういうみじかなことが出来てこそ、地球・人類が抱える課題解決の道に立ち向かうことも出来るというものではないでしょうか▼この運動の大事さを世に訴えることを手始めにし、今世界中を覆う格差拡大による社会の分断に対抗することに、日本人も立ち上がるべきだと考えます。僅かな富める層が益々栄え、貧しい大多数の人々が辛酸を舐める社会を終わらせて、公正で希望あふれる社会にするにはどうすればいいか。資本主義と社会主義のイデオロギー対決による対応や、民族、宗教間論争で争う時代は過去のものとせねばなりません。皆が共通の価値観に立ち、狭い人間中心主義ではなく、大自然を包み慈しむ生命の尊さを強調する思想のもとに協力しあうことが大切です。これは、一見無関係のように見えて、その実深い関わりがあります。日本の分断を防ぐ一歩を踏み出す運動です。皆が一つの生命を救う実感に手応えを感じることが、ひいては社会全体に活力をもたらし、分断の分岐点を迎えるまでの雄々しい生き方を培います。2030年までのこの10年間に、皆が出来ることから取り組もう、との運動の一環と位置付けていきたい。皆さまのご関心を頂きたいと心から思っています。(2020-1-22)

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分岐点としての2030年と、そこに至る10年間(上)

2020年は、カルロス・ゴーン被告(元日産自動車社長)のレバノン逃亡という事件で幕を開けました。何が起こるかわからない、という時代の空気をそのまま反映させた衝撃が日本中に走り、今なお余韻が燻っています。国際社会では、昨年来の「米中衝突」や「北朝鮮の暴発」に加え、「イランと米国との一触即発」など相次ぐ不安要因が顔を覗かせています。内外共に先行き不安だらけというのが実態です。こんな年の初めに、あらためて聴こえて来るのが、2030年は地球と人類がこのまま存続出来るのか、それとも滅亡の一途を辿るのかの分岐点だということです。つまり、あと10年が生き残りへの対応策を講じる最後の10年間だとの認識です▼「持続可能な社会」(SDGs)に向けての国連の試みは、本格的には2016年から(問題提起的には20世紀最終盤から)始まり、2030年までの15年間に人類が取り組むべき課題解決に向けての17の目標を掲げてきました。しかし、この問題設定(代表的なものは❶気候変動❷貧困❸人口爆発❹テクノロジー❺食料、水不足など)は人々の胸にうまく届いているでしょうか。これまでのところ、ノーとしかいえないような状況が続いてきています。その原因の一つは「持続可能」という言葉にあるように私には思われます。ここは「滅亡する地球・人類」とストレートにいった方が分かりやすいといえるに違いありません。その意味で、新年早々のNHK総合テレビのNHKスペシャルが放映した『未来への分岐点』は、観た人々の心に確実に届く衝撃的な響きを発信していました▼「今地球が不安定化する瀬戸際にあることは科学的に明らかです。これからの10年間が地球と人類の未来を決めるのです」(科学者 ヨハン・ロックストローム)「世界は限界に近づいています。今すぐ行動に移さなければ手遅れになってしまいます」(ジャーナリスト トーマス・フリードマン)ーこの番組の冒頭を飾った二人の言葉は極めて印象深いものがありました。とりわけ地球温暖化による気候変動は、北極と南極の氷の融解による気温上昇と海面上昇によって、地球が〝灼熱地獄〟への待った無しの危機的状況に追い込まれることを見事なまでに物語っていました▼スタジオのコメンテイターたちのうち、私が耳をそばだてたのは、シニア世代を代表した宇宙飛行士・毛利衛さんの「高度成長時代を牽引してきたシニア世代を攻撃しようとしているのでは」との冗談めかした本音発言でした。今のシニア世代すなわち団塊の世代の老人たちは確かに高度経済成長時代に苦労はしたものの、美味しい果実をそれなりに享受して後衛に退こうとしています。一方、その子どもや孫たちであるジュニア世代は、とんでもない希望なき不安を押し付けられつつ前面に立たされようとしているのです。若者を代表した20歳の青年がこれからの10年をどう生きるかと問われて応えた言葉がとても印象に残りました。あらゆる事態に「見て見ぬ振りをしない」といったのです。これこそ、これからの10年のキーワードだと同感します。この言葉は、今私が行動に起こそうとしていることと、文字通り共振したのです。(続く=2020-1-16)

 

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仏教への誤解がもたらす「平和」像ー公明党の二枚看板の検証❸

「平和安全法制」成立に見る到達点

前回に見た変遷を経て、平成27年(2015年)9月に「平和安全法制整備法」が成立した。これは私が議員を辞して約2年後のことであった。憲法第9条が禁ずる集団的自衛権を「容認」するに至ったとして、内外各方面から批判が巻き起こった。しかし、この「容認」は、「発動新3要件」として❶日本または他国に対する武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある❷ほかに適当な手段がない❸必要最小限度の武力行使にとどまるーこの三つの条件を満たす場合ににのみ集団的自衛権の行使は容認される、との厳しい条件付きのものであった。安倍首相自身からすれば必ずしも満足出来ないものであったと云えるものの、花より実を取ったと云えなくもなかった。公明党からすると、個別的自衛権の延長線上ものであり、憲法が許容する限度ギリギリの範囲内と見ることも出来た。自公の直接交渉役としての高村正彦副総裁、北側一雄副代表両氏の弁護士コンビの知恵が功を奏したとの見方が玄人筋の通り相場だと思われる。

例えば、ジャーナリストの田原総一朗氏は、「公明党は現実とギリギリ妥協しながら『戦争をしない国』としての日本の姿を守ろうとした。これは僕は〝ブレーキ役〟として実に見事な態度だったと思います」(『宗教問題』vol28 季刊2019年秋季号)との高い評価を与えている。また、御厨貴東京大客員教授は、「自民党の当初案に相当厳しい制限を加えた形で平和安全法制が成立しました。自民党とケンカすることなく、冷静に法案の問題を指摘し、ギリギリのところで妥協点を見出す。与党化の歩みを進める歴史のなかで、公明党は初めて『統治する政党』としての自覚を強く持ったのです」(『潮』2020年1月号)と、これまた鋭い認識を示して注目される。

私が厚生労働副大臣の拝命を受けた平成17年(2005年)のこと。実は舞台裏を明かすと、私は当時の冬柴幹事長とのやりとりを通じて、防衛副大臣を希望したのだが、国家の中枢のポジションを公明党には渡せないとして、自民党中枢からは受け入れられなかった経緯がある。御厨氏の発言の背後を読み解くに際して、ここでもまさに隔世の感がしてならない。「統治する政党」としての公明党を、初めて自民党が認めたと云う意味で。

私は仲間たちの選択と決断に際して、当時も今も高い評価を下すのにやぶさかではないのだが、一点だけ云わせて貰っているのは、自公両党の間での交渉経緯を公表すべきだという点である。国家の安全保障の基本をなす法制定に当たって、与党内の議論であるにせよ、いやそうであるからこそ、議論の中身を知りたいと思う。かつての安保論議が不毛の与野党対立の温床であっただけに、新たな時代にあっては、合意を得た交渉の全貌が明らかにされるべきではないのか。立憲民主党に〝先祖帰り〟の気配が漂うだけに、世界観を同じくするもの同士の健全な安全保障論議を天下に示して欲しい。

仏教・維摩経に見る菩薩像の意味するもの

こうした「平和安全法制」に対して、一般的には、つまり素人筋的には、「『平和主義』の公明党の名が廃る」とか、「看板が泣く、もうそれを降ろせ」と云った様々な批判が寄せられた。先に見た高い評価との落差はどこから来るのか。

既に見たように、現実的安保観と理想的安保観の違いとの説明が出来ようが、より根本的には世の中に定着している仏教の平和主義に対する誤解が影響しているものとも見られる。すなわち、「十字軍戦争」の例に見るように戦争と深い関わりを持つキリスト教や「聖戦」と常に裏表にあるイスラム教などに比べて、戦いにまつわることを一切否定する宗教としての仏教観がある。しかし、それは本当に正しいと云えるのだろうか。

実はNHKのEテレの人気番組『100分de名著』に登場(昨年再放送)し、法華経を解説した仏教思想家の植木雅俊さんの近著『今を生きるための仏教百話』を読むと興味深い仏教の「戦争と平和の行動論」に出くわす。『法華経』のサンスクリット語全訳に続いて、『維摩経』の現代語訳をも成し遂げた植木さんは、同経では、菩薩の積極的で具体的な利他の行動が列挙されていると指摘しており興味深い。疫病、飢饉、戦争などの現実問題に対して、座して瞑想に耽るのではなく、行動に立ち上がる菩薩像が綴られていると云うのである。特に「戦争の際の行動は目を見張るばかりだ」とまでも。

サンスクリット語の鳩摩羅什訳では、「当事者のところを行き来して」「和平の締結を目指す」として、「積極的な平和行動に取り組むことを述べていることが注目される」と。結論的には「原始仏典から帰結されることは、仏教は本来、平和主義的性格であり、国王に対しては戦争の放棄を勧めるものであった」と、仏教学者・中村元氏の言を引いてまとめている。

こうした記述から、日本のかの「戦国時代」にあって、対立する両陣営相互間を行き来する僧侶を想起するのにさほど時間はかからない。本来的には「行動する平和主義」「積極的平和主義」とでも呼べるものは仏教に固有のものであった。しかし、現代日本では、戦争と平和の相克の中で、戦争にまつわることはいかなることにも手出ししないのが仏教だとの見方が定着しているかに見える。明らかに誤解だといえよう。

「憲法改正」にどう挑むか

令和2年(2020年)の幕開けを飾る新聞各紙を見ると、国内政治的には「憲法改正」に向けて安倍首相がどう動くかが関心を集めている。昨年産経新聞のインタビューに答えて、私は今の国会議員による憲法論議の停滞に幻滅を感じるとした上で、❶憲法改正に向けての事前の国民投票の実施❷有識者による憲法改正草案のまとめ❸国会における2年間の限定付き特別憲法議論チームの結成ーなどを提案した。こうしたことでもしなければ、結局は安倍首相の強行突破を招きかねないと思うからである。公明党の山口代表は、憲法改正への機熟さずとして、さらなる議論を求めている。私があのインタビューで云いたかったのは、公明党が自民党と野党の間に立って、合意形成に向けての汗をかくべきではないのかとの一点だった。安倍首相が9条3項に自衛隊の存在を明記する加憲を提起してきたことを受けて、更なる議論をと云った風に結論をただ先延ばしにするのではなく、積極的に妥協点を探るために動くべきではないのか、と。

憲法については従来から、全面的な改憲論に立つ自民党と、一切触らせないとの旧社会、共産党などの対立があった。今は、野党第一党の立憲民主党は安倍自民党の元では改憲はしないとの含みを持ったスタンスである。そうした立ち位置を放置しているのではいたずらに時が経つだけである。今こそ憲法のどこをどう変えるか、あるいはどこについては変えずとも済ませられるかの詰めの作業を、公明党こそ党内議論の中で推し進める使命がある。その一方で、改憲に前向きな自民党や日本維新の会と、後ろ向きな野党との間に立って、本来の役割を果たすべきだろう。

「平和安全法制」で見せた合意へのギリギリの知恵を、憲法についても公明党が発揮して貰いたい。護憲に戻るのではなく、加憲にこそ、膠着状況を切り開くチャンスがあるのではないか。そこにこそ中道主義の本領発揮を見たいと云うのが私の本意である。(続く=2020-1-4)

 

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「理想」と「現実」の立ち位置でわかれる「平和」観ー公明党の二枚看板の検証❷

安全保障にまつわる議論の変遷

伊藤元海将の云う「一歩ずつの前進」は、立場の違いによって「一歩ずつの後退」であったり、時に「大幅な後退」と写る。以下に、安全保障にまつわる法整備の変遷を追ってみたい。

思い返せば、平成元年(1989年)11月のベルリンの壁の崩壊による冷戦の終結が、まさに時代を画する出来事だった。束の間の和平感は漂ったものの、翌2年(1990年)8月のイラクのクウェート侵攻で敢え無く崩れさった。冷戦期を通じてずっと動かなかった国連による「集団安全保障措置」がここから.動かざるをえなくなり、半年かかった末に、米国を中心とする多国籍軍の「武力制裁容認」が決議され、湾岸戦争が始まる。平成3年(1991年)1月のことだ。

当然ながら日本も激動の時代を迎える。米国から多国籍軍への「ひと」の支援協力としての自衛隊派遣を求められ、当時の政府自民党は、「国連平和協力法案」の成立を目指す。しかし、公明党を含む野党がこぞって反対、廃案に追い込んだ。代わって「かね」による協力をせめてもせねばということを自民党が決断する。当初の40億ドル支援から90億ドルを追加、合計130億ドル支援をすることになった。公明党は党内大議論の末に、賛成に回る判断をした。私は当時落選中で議論には直接参加していないが、当時の市川書記長が内外の舞台回しの役割をこなし、与野党を通じての実質的牽引者となった。このスタイルはPKO (国連平和維持活動)法が成立に至る平成4年(1992年)6月まで続く。

公明党的にはこの間、「平和5原則」を法の中に組み込むことを提案するなど、終始一貫して国民的合意を掴む努力を展開した。戦争に加担するのかとの内外の批判に対し、紛争が終わったあとに再発を防ぐために派遣することは国際貢献に他ならず、傍観者的態度こそ「平和」に反するものだとの論陣を張った。反面、「牛歩戦術」と称して審議妨害をした旧社会党、大反対のキャンペーンを展開した朝日新聞などは、これ以後凋落の道をたどって行く。大きな分かれ道だった。

pKO法以後の「安保」風景

PKO法成立以後の日本の安全保障政策の展開は、あたかも同法がお手本となったかのように、その手法がなぞられることで、乗り切ることになっていった。節目となったのは以下の三つの法律の成立である。

一つ目は、平成11年(1999年)5月の「周辺事態安全確保法」である。これは遡ること3年前の平成8年4月の橋本龍太郎首相とクリントン米国大統領の首脳会談での「日米安保共同宣言」が発端となった。そこでは「日米同盟の再定義」がなされ、「日米防衛協力の指針」(日米ガイドライン)が見直された。その焦点は、「日本の平和と安全に重要な影響を及ぼす事態」としての「周辺事態」であった。立法化作業は3年かかったが、その経緯の中で徐々に頑なな世論が変化をしていった。

それには、平成10年(1998年)8月に日本上空をテポドンが通過した事案や、翌11年(1999年)3月の能登半島沖での不審船事案に対して、海上自衛隊に初の「海上警備行動」が発令されるなどといった北朝鮮の脅威が現実のものとなってきたことが影響したといえよう。

「対テロ戦争」の時代の到来

二つ目は「テロ対策特別措置法」である。21世紀に入った途端に(平成13年=2001年9月)起きた、米国同時多発テロは、それまでの「平和」がかりそめのものであったことを世界的規模で一気に暴露した。NATOや豪州は直ちに集団的自衛権を発動、米国を中心とする有志連合軍の編成のもとに「対テロ戦争」が始まった。日本もそれらの国々とは一線を画するものの、24人の犠牲者をだした国として、独自の支援に立ち上がった。これが、インド洋上などで動く多国籍軍に給油などの後方支援をする「テロ対策特別措置法」の成立(平成13年)を求めるものとなっていった。これにも「戦争に加担する」「戦争に巻き込まれるのではないか」との懸念に基づく批判が巻き起こった。しかし、人道上の観点から後方支援をすることには問題があろうはずはない。公明党は、紛争の当事者とならぬよう、いざという時には撤退するとの条件をつけることなど成立に向け尽力した。明らかに「PKO平和 5原則」の応用であった。

三つ目は、15年(2003年)に成立した、有事法制の基本的な枠組みとしての「武力攻撃事態法」である。これには野党第一党の民主党も賛成に回った。かつての防衛論議とは様変わりの様相を呈したのである。自・民・公の三党の防衛関係議員の間でしばしば協議がもたれ、最終的に合意を見たことは、隔世の感を抱くものであった。

以上に見たように、平成に入って約15年の間の安全保障政策は、憲法9条の制約のもとに、いかに国を守るために現実的な対応をするかの選択と決断の連続であった。ことが起きるたびに、いわゆる「理想」を追う反米の左勢力と「現実」対応ありきの米国追従の右勢力がぶつかり合った。その狭間で、中道主義の公明党は懸命に合意を形成する努力を積み重ねていったのである。(2019-12-31 =次回に続く)

 

 

 

 

 

 

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見損なわれがちな「平和主義」ー公明党の二枚看板の検証❶

「平和」の擁護と「大衆福祉」の実現

公明党は「平和」の擁護と「大衆福祉」の実現を二枚看板として、この55年の間、前半は野党として、自民党政治を変えるべく闘ってきた。後半の20年は民主党政権下の3年ほどを除いて、自民党と政権を組む与党として、同党の政治の足らざるを補いながら、その軌道を修正しつつ基本的には支えてきた。ある意味で〝離れ業〟としかいいようがなく、その評価は立場によって分かれよう。その歴史のウオッチャーとし、またある時はプレイヤーとして生きてきた私は、当然ながら肯定的に評価したい。この劇的な公明党的手法はあくまで「中道主義」の本義から滲み出るものであって、決してその根本的スタンスを捨て去り、自民党政治に迎合するものではなかったと確信する。

21世紀も5分の1の時が流れ、中盤に差し掛かろうとする今、改めて日本の政治・経済の置かれた状況を吟味する必要があると考える。時あたかも、国際政治にあっては、米国のトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」なる言動に代表されるごとく自国本位主義が世界を覆いつつある。そして、経済におけるグローバリズムは国境の垣根を超え、奔放な動きを一段と強めている。他方、国内政治・経済は、富めるものは益々富み、貧しきものは一段と貧しい、「分断社会」の様相を明瞭にさせている。私のような先の大戦直後生まれが見てきた、米ソ対決から米国一極といった国際社会の見慣れた風景はもはや遠影に退いた。世界第2位を誇った日本の経済力も遠い昔の語り草になり、そのあとを建国70年余の中国が襲っているのだ。

こうした内外の激しい変化にも関わらず、私たちが旧態依然とした視座しか持たず、古い固定観念に捉えられていたとしたら、どうなるのだろうか。ここでは、連立与党のパートナー公明党の「平和」主義と「大衆福祉」主義の立ち位置を検証する中で、その方向に過ちがないのかどうか、思わぬ陥穽にはまっていないかどうかを見ていきたい。

幾重にも歯止めかけた「中東への海自派遣」

2019年末に安全保障分野で久方ぶりに話題になったのは、中東地域への海上自衛隊の派遣問題である。与党の中でも賛否両論がぶつかった。有志連合には参加せず、日本独自の取り組みとして、防衛省設置法に基づく調査・研究を目的に護衛艦1隻とp3c哨戒機1機、約270人規模の隊員をとりあえず1年派遣する。延長は1年ごとに更新するが、公明党との折衝の末に、最終的に「閣議決定」とし、国会に報告することで合意をみた。報道によると公明党の主張に配慮して、自民党が当初の方向性から譲歩したとされる。こうした経緯を知るにつけて、かつての歩んだ道を思い起こす。防衛費のなし崩し的膨張に歯止めをかけ、自衛隊の海外派遣には幾重にも条件をつけ、兵器に直結するものは輸出の対象としないーカネ、ヒト、モノにわたる軍事との距離の設定ーいずれも公明党の取り組みだったのである。

それでいて、いわゆる左翼的な軍事拒否姿勢とは一線を画してきた。「55年体制下」では、左右勢力による合意形成は殆ど見られず、ただただ「不毛の対決」のみが繰り返され、国際社会での異端児とされてきた。それではならじと、「憲法9条の枠の中」との自制を課しつつ、現実的対応に苦慮して匍匐前進してきたのが公明党の防衛政策だった。市川雄一、冬柴鐵三の両先輩の後を継いで安保部会長の任につき、神崎武法、太田昭宏、山口那津男と続く党代表の下で、仕事をしてきた者として、誇らしく思う。

その辺りのことについては、この20年余りの歳月における防衛政策をめぐる推移、変遷を論評した元海将の伊藤俊幸・金沢工業大虎ノ門大学院教授の発言(2019年5月14日付け産経新聞『正論』)が本質を突いている。彼は、「安全保障法制に見る政策の変遷」と題する論考の結末部分で、「鳥瞰するならば、平成とは冷戦が終わり、脅威が顕在化しているにもかかわらず根強い反対勢力が存在する中、安全保障政策を一歩ずつ前進させてきた時代だった」と規定しているのだ。「一歩ずつ前進」との表現に、公明党と自民党の防衛関係者による辛抱強い交渉の現れを見ることが出来よう。(一部修正=次回に続く)

 

 

 

 

 

 

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高校生パワーが炸裂ー第7回全国高等学校観高サミットに参加して

高校生ってなんて眩しい存在かを思いっきり感じさせられた二日間でしたー全国から7つの高校の生徒たちが集まって徳島市の四国大学で第7回全国高等学校観高サミットが開かれ(13-14日)、これに私も初めて参加してきました。テーマは「地域観光の未来を拓く高校生の取り組み」。北海道ニセコ高校、石川県立金沢商業高校、宮城県松島高校など7高校の生徒たちがそれぞれ数人で、15分以内のプレゼンテーションを競い合うもので日頃の研鑽を発揮する見事な内容でした。最優秀賞を獲得した金沢商業高校のものは、「訪日外国人観光客向け企画旅行の作成」。同校は株式会社王座金商を運営、株式会社日本ツアーシステムと旅行代理業契約を結んで、毎年生徒が考案した金沢周遊バスツアーを代理販売しているといいます。今年度は、ツアーのターゲットを外国人に設定して企画を作成。シンガポールの専門学校・テマセクポリテクニック校を訪問して、外国人が好む観光の嗜好についての調査も行ったとのことでした▼私は一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の専務理事として、内外の観光客の淡路島、瀬戸内海各島への誘致や、観光人材育成の仕組み作りに取り組んでいます。そういう中で、徳島商業高校の鈴鹿剛教諭と知り合いました。この人は現在48歳ですが、これまで約8年ほどの期間、同高生徒に対する観光教育を手がける一方、学内会社「COMCOM」を作って、高校生に実際に観光に動く場を提供してきました。今ではNPO法人雪花菜(おから)工房を設立、教え子を理事長に据え、地域起こしに貢献するなど多彩な活動を展開しています。現在はカンボジアとの交流を高校生と共に勤しんでいるというから驚きです。特に私が関心を持ってきたのは、全国の実業高校の教師たちとネットワークを組んで、今回のような高校生の観光のための集いを開いたり、教師たちの学びの場を設けていることなどについてです▼明年の東京オリンピックを前に、観光庁も観光人材の育成に力を注いでいますが、なかなか即戦力の育成に結びついていないのが現状です。そこで、この鈴鹿先生たちの既存のネットワークを活用することがその目的に大いに役立つものと着眼しました。これまで観光庁当局に幾たびか直接的に要請の場を設けたり、公明党を通じて政策提案も試みたりしてきました。未だそうした努力が実を結び、仕組み作りが実現するには至っていませんが、今回ようやく観光庁が加藤審議官を派遣してくれました。大いなる前進が期待されています▼二日間にわたる大会をつぶさに見た結果を同審議官も講評の中で、高校生たちが実地に学んだ「観光」を通じて、それぞれの郷土に誇りを持つとともに、世界に発信する力が培われることに、大きな期待を寄せていました。学校教育の現場で、観光を学ぶ機会など古い世代では皆無でした。だが、この大会に参加した高校生たちはその成果を着実に生かし、それぞれの全人的成長に役立てるに違いないことを確信します。北は北海道、南は大分県の高校生たちが「観光」の発信をした後、相互の交流をする姿(入り乱れてそれぞれ7人の話し相手を探し、対話を試みるゲーム)を見ながら、若いパワーの秘められた力を実感しました。こうした草の根的な観光教育の現状をさらに拡充させ、現実に役立てるために私のような者も闘う必要があります。観光日本の前進にもっともっと貢献していきたいと、新たな決意が漲ってきました。(2019-12-16)

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もし今公明党が野党だったらー臨時国会の閉会に思う

12月9日に臨時国会が幕を閉じました。その直前の6日に一般社団法人「安保政策研究会」の定例会が開かれ、久方ぶりに参加しました。そこでは、日韓関係を巡って寺田輝介元韓国大使からの基本的な問題提起がなされた後、座長役の浅野勝人元官房副長官や登誠一郎元OECD大使、星野元男元時事通信台北・北京特派員らを中心に種々意見交換がなされました。私としては大いに触発されましたが、気になったのはその前段での議論です。国会における野党の「桜を見る会」に対する追及の杜撰さが指摘されました。その中で、こんな野党の体たらくでは、好悪を別にして安倍4選もありうるとの杉浦正章元時事通信編集局長の発言が耳に残ったものです。今は与党ですが、かつては野党だった公明党出身の私としては大いに胸騒ぐ場面でした▼世に「大山鳴動鼠一匹」と云いますが、終わってみれば色々と問題が出てきたものの、結果的には安倍自民党はビクともしなかったとの印象があります。野党の存在とは一体何なのかと、虚しさのみが残ります。第一に、菅原一秀、河井克行二人の大臣の辞任。問題が発覚するやいなやさっさと辞めてしまいました。こういう大臣には以後元経産相とか元法相といった呼称を取り去ることが求められます。人の噂も何とやらで、残るのは大臣の肩書き。例え数日とは云え、任命されたという事実は重いのです。それ故に職に固執して恥の上塗りをせず、元大臣の呼称を後生大事に持つために直ちに辞めたのでは、と勘ぐりたくなるのです。「桜を見る会」問題では、首相のやりたい放題を支える与野党の議員たちの屈折した心理が伺えます。大勢の議員たちが参加したとの事実があるゆえ、どんなに首相を攻撃したところで、以後気をつけますで済んでしまうのが関の山なのです。これをターゲットにした立憲民主党以下の野党の戦略の拙さのみが残ります。議論を聞いていて、もし公明党が野党だったら、との詮無き思いがふと浮かんできました▼外側からの自民党政治の改革は困難を伴うから、内側から変えていくのだとの論理を、「自公連立」に当たって、私などは使ったものです。たしかにその後、常に弱者の側に立った公明党の視点を取り入れての自民党政治の展開は、枚挙にいとまがありません。加えて、民主党政権誕生前後5年ほどに日本が経験した政治の不安定さを、公明党が自民党側に加担することで安定化をもたらしてきた、と云えるでしょう。しかし、問題はその「政治の安定」で失われたものはないか、という点です。御厨貴東大客員教授が「平成から令和へーさらに増す公明党の存在感」という論考(『潮』1月号)の中で、「『統治の党』としての性格が強まるにつれて、今後どこかで平和主義や生活主義と矛盾する局面が訪れるかもしれません」と述べる一方、「自民党と決して馴れ合いにならない自覚と緊張感を、公明党はこれからさらに大事にして欲しい」と強調しています。わたし的にはこの御厨氏の言葉が大いに気になります。「統治の党」としての「政治の安定」が謳われるそばで、既に随所で「生活主義」が脅かされている現実があると思うからです。経済格差に喘ぐ庶民大衆に一体どういう手を今の政府・自公両党は差し伸べていると云えるのでしょうか▼今の事態を見ていると、もう与党として自民党を支えるよりも、野党に戻って、新たな政治改革の道を再び模索した方がいいのではないかとの思いすら抱いてしまいます。絵空事と自覚しつつそんな風に思ってしまうのは誠に嘆かわしいことです。時に与党として、またある時は野党として、公明党がひとり二役ならぬ〝一党二役〟ができぬものか。白熱した外交論議の最中に、そんなよしなし事の発言をすることは憚られると、思わず言葉を飲み込んでしまいました。いつにない後味の悪さを引きずって会場のプレスセンターを後にした次第です。(2019-12-9 一部修正)

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新たな社会保障の仕組み作りに一石投じる動き

結党記念日の直前に、11月15日、16日の両日にわたって、公明新聞に掲載された『2040年問題  新たな社会保障への一考察』と題する、公明新聞・ビジョン検討チームによる「安心の制度構築への提言」は、なかなかの力作だった。党そのものには改革に向けての姿勢が薄れてきてるのではないか、などと苦言を呈した私だが、この提言には諸手を挙げて賛同しておかねば、後輩たちに申し訳ない思いがする。公明党が誕生して55年。経済格差の波にさらわれ、最低限の生活の保障すら覚束ない人々に、今こそ目を向け、手を差し伸べねば、何のための公明党かという他ない。自民党と与党を組むということは、まさにこうした状況に陥っている人が多いとの現状を打開するためのものでもあるはずだからだ▼実はこの論文を目にする直前に、地元兵庫の最北部に位置する但馬地域の村岡町(合併後は香美町)に住む後輩から一本の電話があった。阪神淡路の大震災のあった平成7年に村岡町議に当選して二期8年の間、その職責を務めた西井秀一氏(62歳)である。畜産関係の仕事をしながら、獅子奮迅の議会活動を展開した勇姿は目に焼きつき心に長く留まっている。諸般の事情から議員を辞して、はや15年余りが経つ。その間、気にはなりつつも会う機会は絶えてなかった。その彼からの突然の声の便りは嬉しかった。「疲弊する中山間地域、停滞する日本に喝を入れ、多くの大衆を蘇らせるための唯一の手立てを考え抜きました」ー久闊を叙するのももどかしげに、懐かしい電話の声は弾んでいた。現在はトマト栽培など農業を幅広く手掛けているとは聞いていたが、日本の蘇生のためにどうすればいいかの政策を考え続け、戦略を練っていたとはつゆほども知らなかった▼「ベーシックインカムの導入です」ー山ほど障害はあれども、長年に渡っての試行錯誤の思索の結果は、これしかないというのが彼の結論だという。つい先日姫路で会い、懇談をした際に彼が考える導入への戦略の一端を聞いた。ベーシックインカムとは、政府が全ての人に必要最小限の所得保障を定期的に給付するというもの。膨大な財源を必要とすることやら、労働への意欲を削ぐのではないかとの観点から批判的な向きが一般的だが、ここ数年改めて注目を浴びてきている。政党では、旧民主党の一部に根強い支持の動きがあったり、小池都知事の肝いりで話題となった「希望の党」がその政策に入れ込んだことがある。西井氏はそうした点を全て分かった上で、いかに困難であれ、この施策を導入することで日本社会の窮状に悩む大衆一般を救うことが可能になるはず、と意気込む。そう簡単にことが運ぶと思うほど私も甘くはないが、嬉しかったのは彼の真っ正直な姿勢が持続していることであった。議員を辞めてからもひたすら大衆救済のために考え続けてきていることは凄い▼実は、公明新聞に掲載された「一考察・提言」の中にも、最後の結論部分に、最低生活保障が触れられ、「ベーシック・インカム」にまつわる考えが披瀝されている。ここでは、慶應義塾大の井手英策教授の「ベーシック・サービス」構想が取り上げられていて興味深い。現金給付が持つ難点、とりわけ社会的弱者の線引きが結果として社会的亀裂としての分断を生み出すことへの対策が述べられている。つまり、現金ではなく、医療、介護、育児、教育、障害者福祉といった「サービス」を、必要とするすべての個人に無償で提供しようというものだ。公明新聞チームは、弱者の明確化を掲げた自らの提言と方向性は異なるものの、敢えて井手構想は検討に値するとして評価する姿勢を取っていることは好ましい。井手氏は旧民主党のブレーンとして名を馳せた人だけに、今後の去就が注目されているが、幅広い国民的合意を培うために公明党政調、公明新聞チームとも議論の場を持って欲しいものだ。このあたりについて、西井氏も共鳴し、お互いにこれからの情報キャッチ、支援グループの構築などで協力し合うことを約束して別れた。何はともあれ、公明新聞記者や元地方議員という後輩たちに、格差社会打開に向けて懸命に頑張る姿が見えることに大いに勇気づけられている。(2019-11-26)

 

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