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科学者と政治家。後継の人材育成という共通の課題

今年のノーベル医学生理学賞を受賞された本庶佑京大高等研究院特別教授のニュースを見ていて、久方ぶりに感動した。特に、受賞に伴う賞金を後輩たちのための基金設立に使うということについてである。今の若い研究者たちが研究費に事欠く現実は指摘されて久しい。こうした行為は、なかなか出来ることではない。私など、一般的な寄付でさえ大事さはわかっていても、お金がないためにままならぬ。母校の高校創立100年記念の寄付金も、大学卒業50周年の記念のそれにもおいそれと出せない。身の歯がゆさを感じるばかりだ。私の場合と本庶さんのケースではもちろん月とスッポンのごとく違うが、遅れて来る人々へ先行くものの心配りでは大差はない。お金によるものだけでなく、残された人生で人を育成することに貢献出来ることこそ、何よりも尊いと思う■一方、先の自民党総裁選およびその後の組閣を見ていて、今の日本の政治における「人材の払底」という課題に不安を抱く。かつて〝三角大福中〟と言われていたように、自民党には後継を争う人材が跋扈していた。今は殆ど特筆すべき人材群が見当たらない。小選挙区制を軸にする選挙制度がなせるわざか、いわゆる二世、三世など世襲議員横行の行きつく果てなのか。世に事業承継の困難さが喧伝されているが、こと政治の分野ではこの事業承継がうまく行き過ぎているかに見える。通常の事業の世界では、事業環境の激変などで困難を極めるのが普通だ。政治の世界では比較的容易にバトンタッチが可能であるのは、その難しさを乗り越えるだけの器量があるというより、環境が変わらなさすぎるからかもしれない■新しい人材が、つまり親が政治とは無縁の人が抜きん出ることはきわめて難しい。せいぜい官僚の転身が目を引くぐらいだ。そうした現実を見ていると、選挙を通じて政治家になるルートの多様化は決して意味のないことではない。比例代表制の導入がこれまでとは違った血の受け入れに繋がっているはずなのだが、今のところいい結果に恵まれていない。むしろ、自民党や旧民主党など見ていると、安易な形で当選できるため問題を孕む人物の登場に門戸を開いている感がしないわけでもない。もっと幅広い人材登用の仕組みを設けていくべきでないのか。他党のことながら気になる■そこへいくと公明党の場合、次々と有為な人材が登場してくる。これは決して身びいきの礼賛ではなく、世評の赴くところである。今回幹事長になった斎藤鉄夫氏は、東工大大学院を出て、清水建設へ。米国に留学。プリンストン大学で客員研究員を3年。博士号も取得している。私より少し若いが一緒に議論を戦わせた仲である。他にも政調会長の石田祝稔氏は、電気通信大を中退し、創価大創立に馳せ参じ転校、再入学し、文学部大学院を出たという変り種。都庁の役人から政治家になった。彼とも昵懇だ。また新たに国会対策委員長になった高木陽介氏は創価大から毎日新聞記者を経て政治家になった。その他、弁護士、公認会計士、三井物産やIBMなどのエリートサラリーマンからの参入組もいる。二世は北側一雄副代表のみ。但し、彼は弁護士出身で、親の地盤は引き継いでいない。来夏の参議院選挙の候補者も皆若い優秀な人が続々と出てきており、まさに壮観そのものである。こうしたきら星のごとき人材群を擁する公明党を見る時、比例代表制のプラス面を遺憾なく取り入れてるとも言えそうである。制度はどう活用するかにかかっている典型といえよう。(2018-10-8)

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行き詰まった「ヨーロッパ近代思想」に代わるものはー「原発考」❹

今年6月2日にNHKのETV特集で放映された『〝核のゴミ〟に揺れる村〜苦悩の選択  半世紀の記録〜』は衝撃的な内容であった。青森県の六ヶ所村における核燃料の最終処分処理場をめぐる顛末について、直接の任に当たった政治家が極めて正直にありのままを語る場面が収録されていたからである。その政治家とは、田中真紀子元科学技術庁長官。後に外相として様々な物議を醸す行動を起こした人物だが、最初に閣僚になった頃にも、六ヶ所村に対する〝空約束〟をしていたことがご本人の口から赤裸々に語られた。24年ほど前に、青森県知事の了承無くして最終処分場にはしないとの発言を、当時の自分のそばにいた官僚から言わされたこと。また、六ヶ所村が最もおとなしいところだから、ゴミ処理場の役割をしょわされたということなどを、である。この人らしい正直な発言といえようが、この番組を見た人は誰しもあまりにも非力で無責任な政治家の実態に唖然とするばかりだったに違いない■〝核のゴミ〟の取り扱いをめぐる議論、つまり核の最終処分場をどこに持っていくかの選択は、沖縄における米軍基地問題と相似形をなす。両者共に日本にとって必要だが、自分のところに持って来られるのは御免被るとの論法が大勢だ。勿論、北東アジアにおける沖縄の地政学的価値と核廃棄物場としての青森の価値とは比較の対象にはならない。ただ、他の各県から押し付けられるだけの、宿命的な弱さが両地に共通していることはあながち否定できない。尤も、そこにつけ込むことを非とし、「最低でも県外」などと安易に口にすると、寄ってたかって叩かれるのがオチである。ただ、では根本的にこうした課題を解決できる知恵を持っている指導者が現代日本にいるのかと問えば、皆首を横に振らざるを得ない。そうなると、誰しも「田中真紀子」を、そして「鳩山由紀夫」を、「戦後日本の元凶としての団塊世代の双璧だ」などとバカにしたり、笑ったりすることはできないのである■確たる核の最終処分処理場を持たないまま、原発を稼働させ続けてきた日本の実態は、「トイレのないマンション」だとの論評がなされてきた。確かにそうではあるが、その表現では何か物足りない。むしろ「漏電寸前のボロ長屋」といった趣きの方が強い。今にして思えば「原発」は破綻は免れ難いにも関わらず、高度経済成長を下支えしてきたし、あの事故にも関わらず「依存体質」はいささかも揺らいでいない。それもこれも往時に比べ様変わりしたとはいえ、資本主義のもとでの、経済至上主義的思考のなせる業ではある。経済成長を優先させ原発推進を取るか、それとも経済よりも身の安全を守るべく脱原発の道に進むかとの、二者択一に陥ると身動きが取れなくなってしまう。ここは、単純な二分法ではいけないということに気づく必要がある。つまり、短期的には、安全性の確認が出来る最低限のものは再稼働させ、電力確保に努める。しかし、中長期的には、将来の日本経済の状況や代替エネルギーの進展状況を見ながら、暫時原発を縮小し、やがてはゼロに近づけるという二段構えで対応することでなないのか■ そもそも二者択一を迫る考え方の基本には、ヨーロッパ近代の合理主義的思想がある。人間はその存在を全てに優先させて、自然をコントロールしうるものとして、自動車から新幹線、飛行機そして人工衛星やミサイルまで、ありとあらゆるものを生み出し、ついに原子力までも自在に弄ぶまでに至った。その結果として自縄自縛に陥ってしまった。安全性に留意すれば、「原発」は核の平和利用だとして済むものかどうか。大地震の発生、大津波の襲来、あるいはテロなどにより、瞬時に人間は破滅の底に追いやられてしまう。そうした事態を改めて認識するに至った今、問い直されるべき課題は「ヨーロッパ近代」そのものである。少なからざる人々がそうと気付きながらも、惰性に身を任せて、思考停止をしているだけの現実がある。これは、何よりもそれを乗り越える思想そのものを、今に生きる人々が見出し得ていないからに他ならない。(2018-9-27=この項終わり)

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旧態依然とした考え方の転換をー「原発考」❸

原発問題(「ゼロか依存か、「原発」にどう立ち向かうか」)を書きかけて、二回書いた(3-11と3-18に掲載)ところで中断してしまっていた。というのは、民主党政権時代に私が予算委員会や外務委員会で質問をしたものを取り上げてみようと思ったものの、はたと躊躇するものがあったからである。質問の相手が政権の座から降りただけでなく、政党の存在すら雲散霧消してしまってる。そんな相手にあれこれといったものを今更取り出して何の意味があるか、と虚しくなってしまい、つい放置してしまっていたのだ。中断から半年。改めて気を取直して出直すつもりで、「原発」の今を考えたい■あの東北・関東地方を襲い福島第一原発を窮地に陥れた大地震・大津波は7年前の3-11。当時は言うまでもなく、民主党政権下であった。その頃に、私が内外に向けて投げかけた主張は、もはやエネルギー源として原発に依存するのではなく、代替可能な新エネルギーに暫時切り替えていくしかない。原発ゼロに向けて、段階的に減少させていくべきだ。経済における成長至上主義の考え方を抜本的に転換しようと言うものであった。そんな折に、日本の原発技術を必要とする外国(ヨルダン、インドなど)に、技術移転することすら思いとどまるべきだとの主張も外務委員会で行った。世界史の上でも後世に残る画期的な事故を起こした国が、他国に範を垂れる資格はない、ここはひとまず原発の技術輸出など踏みとどまるのが国際社会におけるマナーであり、「原発大国」としての自制心ではないのか、と。しかし、聞き入れられることはなかった■その後政権に返り咲いた自民党(一部、公明党議員の中にも)も原発には今一歩、煮え切らぬ態度に終始しているかに見える。つまり、最終ゴールを原発ゼロに起き、段階的に減少させるというよりも、行き着く先は曖昧なままにしておき、状況次第で、あわよくば「原発推進の夢よもう一度」という昔ながらの推進姿勢が垣間見えるのだ。そのあたりが前回にも触れた、理論誌『公明』における、政治家と科学者の対談での、原発は日本経済の「浮沈にかかる」という表現に現れている。こうした捉え方は、経済の成長のために、原発推進はかかせないものとの牢固とした考え方に基づく。先の原発事故は、そうした考え方に根本的なノーを突きつけたのではなかったのか。ここを改めて振り返り、注目する必要がある■かつて核の平和利用という観点で、原子力発電は市民権を手にした。あれほど核の悲惨を目の当たりにした日本も安全の担保さえ十二分に得られれば、活用するのに何を躊躇することがあろうか、との論法で最初は処女ごとく、しかし、やがては夜叉のごとく遮二無二、「原発大国」の道を突き進んできた。それがいかになりふり構わぬものであるかは、使用済み核燃料の最終処分場すらままならない状況を放置し続けてきていることで十分裏付けられよう。これまでの覚束なき「安全神話」が崩壊したのが先の原発事故であった。この事故の前と後ではガラリと考え方が変わらないといけない。それほどの大きな根源的な問いかけをもたらしたのであったはずなのだ。(2018-9-23)

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敬老の日を前に、大学同期の友の死を悼む

大学時代の同期にして、読売新聞政治部記者で鳴らした友が亡くなった。神田俊甫である。肝臓癌だったという。一昨年ぐらいだったか、あるテレビを見ていて、田中角栄元首相を囲む番記者団と思しき一陣の中に、満面の笑顔の彼を発見した。元総理の回想番組だった。今をときめく時事通信社の田崎史郎(現・政治評論家)も隣に写っていた。直ちに電話をした。「うん、ウン。そうか、そうか、懐かしいなあ」と彼独特の口調が返ってきた。すでにきつい癌と闘ってるとは聞いていたが、いつもの明るさで、「うん、うん上京してきたら、教えろ。また飲もうや」という返事だった。かつて、後輩たちを従えて赤坂界隈を夜な夜なぶいぶい言わせて闊歩していた頃を思い起こす。豪放磊落でかつ細かな神経を持ついい男だった。晩年は福島の地に赴任し、福島民友新聞社社長として君臨したが、やはり彼は最前線での取材をしていた頃が華だったかもしれない。11日の通夜、12日の葬儀と東京青山葬儀場で多くの関係者の方々に見送られたと聞くが、行けない私はご子息の鉄平君(外務省勤務)に弔文を送るにとどめた。ただただ淋しい限りだ■70歳を出ると、時にこうした友の悲しい報に接する。生老病死という鉄則パターンは容赦なく襲いかかってくる。まだまだ若い、エンジンは快調だと思って来ていた私も、昨今はめっきり部品の痛みが気になってきた。我が父親が晩年に不具合をあれこれ訴えていた際に、聞き捨てにしていたことが、俄然気になりだした。親父の嘆いていたある症状に自分も瓜二つだからである。愕然とすることしばし。永遠の生命を覚知すべく若き日より鋭意邁進してきた身として、いよいよこれからが真骨頂が問われるときだ。日暮れて道遠し。少年老いやすく学なり難しーつい昨日には、未だ未だ先のこと、と思ってた格言がとなりに鎮座していて、不敵な面構えで睨む■そんな折、地元自治会の公民館で毎週水曜日に行う「100歳体操」に参加する機会を得た。これはもう3年になる試みだが、最初からきちっと参加したことはない。今回は初めて最初から文字通りフルコースで挑戦した。テレビに映るDVDの作法に則って、おばあさんたちとイッチィ二ー、サンシー、ニイ二イサンシーとやるのは、最初はいささか照れ臭かったが、だんだんバカにできぬと悟る。繰り返しは結構エネルギーがいるのだ。最後は口腔体操。くちびるや舌まで動員して行うのは、飲み込みや食べこぼしを防ぐためとか。。微に入り細にわたる運動は、終えてみるとなかなかの爽快感が漂う。自治会幹部が「敬老の日」を記念して、花束ならぬ植木鉢を参加者にプレゼント。思わぬこころ優しいサービスに皆感激を新たにしていたのも嬉しかった■この日の最後の企画に、姫路市の地域包括センターの女性職員による「認知症になっても安心出来る地域へ」というタイトルでのミニ講演会があった。パワーポイントを駆使しての内容は実にためになった。85歳を過ぎると、50%の人が、95歳になると80%の人が認知症になるという。普段から十分意識して生活していないと、明日は我が身だ、と思い知った。団塊の世代が前期高齢者から、後期のそれへと移行することで、日本の高齢化は世界で先陣を切る。少子高齢社会、人口減社会へまっしぐらに進む中で、公私ともに準備を急がねば、と覚悟を固めるに至った。(2018-9-16=文中、敬称略)

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二泊三日の上京で、「10番勝負」の充実の語らい

台風21号の直撃で、西日本各地を中心に大きな被害が出ました。とりわけ関西国際空港が水浸しになる被害でおおわらわのなかで、今度は北海道胆振方面でマグニチュード7にも及ぼうかという大地震が起こりました。全く、「大災害の時代」なる言葉が今ほどリアルに聞こえてくるときはないと言っても過言ではありません。そうした現状が起こる前の8月末に私は、二泊三日で上京してきました。主たる目的は、先週に報告した非常用電源設備点検のための一般社団法人設立を総務省消防庁に伝達することでした。ことのついでにあれこれと動いてきたことをここでは書いてみます■第一日目(8-30)。到着後直ちに横浜に行き、高校同級生の友人S君と実に54年ぶりに再会。高島屋での語らいは中々弾みました。地方銀行マンとしての彼の人生を聞くなかで、自ずと私は我が親父を思い出さざるを得ませんでした。16歳から定年後まで銀行一筋だった父。その時代は銀行マンにとって〝古き良き時代〟でした。メガバンク崩壊の流れ止まらぬ今日的状況をめぐり、しばし〝銀の花〟を咲かせました。ついで、根岸の「脳卒中・神経脊椎センター」へ。大学同期の親しい友人O君が不慮の事故で頭蓋骨に損傷をきたした、との連絡があったのが8月初旬。この五月に50年前に旅した同じ地を再訪しようと、彼を含む仲間4人で懐かしくも楽しい時を過ごしたばかり。とても心配しました。彼は脊柱管狭窄症の持病を持っていることも影響したと思えますが、事故当時の詳細を覚えてないというのも困ったものです。ただし回復は順調で大いに胸をなでおろしました。夜は東京・紀尾井町にとって返し、防衛省の新事務次官の高橋憲一氏と懇談しました。彼は私の現役時代に親しい防衛官僚でしばしば話し相手になってくれ、啓発してくれたのです。雑誌『選択』八月号によると、彼は「博覧強記の人」とのこと、この日も話題は宙を飛び交い、知的興奮をもたらしつつ、大いに盛り上がりました■第二日目(8-31)。朝早く鎌倉へ。映像制作者にして教育家の榎田竜路さん(アースプロジェクト代表社員・北京電影学院客員教授)に会うために。彼とはここ数年密な付き合いを深めています。高校生を始め地域の若者に対して、彼らの住む地の名士へのインタビューを通じて得たものを3分間の映像にする技術、思想を教えている人物です。この日は、私の取り組む「瀬戸内海島めぐり」観光へのアドバイスを貰いました。午後は国会へ。公明党の高木陽介代議士立ち会いのもと、消防庁鈴木予防課長らと種々懇談(先週に既報)しました。4時には、かつて自転車の駐輪場のIT化を巡って豊富なアイデアを駆使して同業界に一陣の風を起こしたO氏と会いました。今度は一転、崖崩れの未然防止のための予報機器の開発に取り組むといいます。防災・減災に効力を発揮することを期待して、大いに激励をしました。夜は、虎の門で、私が厚生労働副大臣時代に秘書官として支えてくれた宮崎淳文氏が課長に就任したことを祝うべく、当時の秘書チームの面々が集まりました。わずか一年だったものの〝貴重な時間〟を共有してくれた得難い連中です。この夜は昔話と共に、それぞれが今取り組む課題について抱負を聞き、激励しました。無性に楽しい夜でした■第三日目(9-1)。朝は阿佐ヶ谷で、観光人材育成のプロ・勝瀬典雄さん(県立広島大学客員教授)と会って、インバウンドをめぐる喫緊の課題について意見交換をしました。この人は日本中を自在に駆け巡り、地域おこしに懸命に取り組んでいる人です。この日も観光への深い造詣の一端を汲み取ることができました。昼は、中野区の後輩S君と久方ぶりに懇談。かつて大手建設会社に勤務していた彼は、公明党員としてまさに八面六臂の活躍を社内でしたといいます。その後脱サラ、起業に失敗してタクシー運転手をするなど、ひとかたならぬ苦労をしました。若き日に私はあれこれと彼を激励し、結婚式にも参列しただけに思い入れは深いものがあります。「生きてる限りは青春だ」との心意気で行こうと、励ましました。同時に、70歳を目前にしながら、少しも変わらぬその前向き姿勢に大いに教えられました。帰りの新幹線は新神戸で途中下車。友人と共催する「異業種交流会」に参加しました。今回私が誘った新しい友人は二人。一人は予備校経営から始まり、今各地で幅広く教育講座に取り組む人。もう一人は神戸市内の高校の副校長。二人は新たに独自の視点で独自の学校法人を設立しようという意欲的な起業家です。この日の会にはほかにも、シンガポールの金融機関に勤める若者(関西の支社)や、国交省から姫路市に出向してきている女性官僚、女性経営者、女性議員秘書など達者な面々が集い、ワイン片手に談論風発のひとときを過ごしました。結局帰宅は深夜に及びましたが、この二泊三日は、10もの意図した出会いがあり、充実した語らいができました。私は出発前に「正雄10番勝負」と勝手に銘打ち、自身を鼓舞しましたが、その甲斐あって手応えある成果を得ることが出来ました。
(2018-9-8)

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自家発電設備の点検を促す啓蒙活動に取り組む一般社団法人の代表に

9月1日の防災の日を前に、友人たちと共に、「全国防災・減災設備点検協議会」なる一般社団法人を立ち上げました。英語でAll Japan Disaster Facility Inspection
Councilというわけで、頭文字を並べて、略称ADIC(防減協)です。私が代表理事、会長を務めることになりました。大地震など大災害が起きると、発電設備が発動することが基本中の基本なのに、これまで、日頃のメンテナンスが出来ていないために、ややもするといざという時に動かないことがありました。このため法的に義務付けられている自家発電設備の点検を日頃からしっかり実施するように幅広く呼びかけ、現実にその方法をも伝授しようということを狙いとする団体です■さる31日に消防庁の鈴木予防課長らと会い、協議会の発足を報告する一方、意見交換をしてまいりました。その際に、改めて6月1日に改正された自家発電設備の点検方法についての4つのポイントが強調され、確認しあいました。それは❶負荷運転に代えて行うことが出来る点検方法として、内部観察等を追加したことです。これは以前は総合点検における運転性能の確認方法は、負荷運転のみだったのを新たに改正して付け加えたわけです❷負荷運転及び内部観察等の点検周期を、これまでの一年に一回を、六年に一回に延長したことです。これは予防的な保全策が講じられておれば、毎年やらずとも運転性能に支障は起こらないことが確認出来たためです❸原動機にガスタービンを用いる自家発電設備の負荷運転は不要となりました。今まで全てのものを対象としていましたが、ディーゼルエンジンを用いるものと殆ど差がないことが分かったためです❹換気性能点検は負荷運転時ではなく、無負荷運転時等に実施するように変更されました。これは負荷運転時における温度による点検は不必要と分かったことが原因です■これらはいずれも従来からの点検方法をのあり方を科学的に検証、そのデータを基に改正することになったものです。公明党の私の後輩である秋野公造参議院議員が5月末の参議院総務委員会でこの問題を取り上げてくれた際に、かねて進めてきていた改正の中身を総務省消防庁が明らかに示してくれました。「これで大きく非常用発電設備の点検の質的充実を図ることが出来ました」と言ってわざわざ私の元に連絡をくれたものです。私の友人達はかねてこの問題に関心を持っており、防災・減災の観点から、あってなきがごとき点検状況の実態を改善すべきだと問題提起してくれていました■私は現役時に総務委員長をしていました。姫路の後輩である飯島義雄元副市長(現在、関学客員教授)が同省の防災課長当時です。そんな関係からも、一般社団法人を作って、啓蒙活動をすることは必ず世のためになると確信しました。ここまで事が運ぶには、長年の友人である河田正興ビジネスファーム研究所所長の並々ならぬ熱意と尽力がありました。彼の直感ではビジネスチャンスにも活かせるとの確信があり、西濃運輸やコスモスベリーズなどの大手企業も同社団への理事に参画するよう働きかけてくれました。その結果、そうした企業関係者も新たに防災・減災の観点から、新規事業に参入を決断してくれたものです。ともあれ、新しい試みに誠心誠意取り組む所存です。(2018-9-2)

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縦横無尽に走り回った、この夏の終わりに

6月の大阪北部地震に始まり、7月の長豪雨、そして8月にかけての異常な暑さと、度重なる変な台風の襲来ーこの夏は異常気象の連続でした。8月の最終週を残して、総括するのはいささか早いかもしれません。ただし、暦の上ではとっくに秋ですし、子どもの頃からこの辺りの気分は、〝新学期〟に飛んでいますので、わたしのこの夏を振り返ります。まず、異常気象についてコメントしますと、わたしはかねてより、温暖化の原因はCO2などを主因とするものではなく、太陽の黒点がもたらすものとの「通説」にてるー立ってきましたが、益々その意を強めています。いずれまた科学的裏付けを用意して立論を強める所存ですが、今回は指摘するだけに留めます■さて、この夏に私が動いたなかで特筆出来るものは二つ。一つは家庭訪問です。地域の同志、仲間を一軒一軒尋ねました。残念なことに車を運転することは、不安を伴うとの家人の強い主張で叶いません。このため、親しい友人のご厚意に甘えて、車ごと運転と案内をお願いしました。父母の出身地である夢前町を中心に10日間ほど周り、多くの懐かしい出会いを重ねることが出来ました。私が訪問しますと、「赤松さんが来るって、選挙ですね?」と言われるのには、申し訳ないやら、嬉しいやら、感慨深いものがありました。議員を辞職してすでに5年が経つのですが、やはり政治家の印象が強いようです。もう一つは、友人との出会いの場を積極的に求めて出向きました。月一回定例の友人との共催の「異業種交流の会」に加えて、高校同期の懇親会、大学同窓の家族を交えての懇親会、そして船上での花火観賞会にも顔を出しました。また、初めて参加した新たな友人の主催する食事会では、色んな人たちと知り合うことが出来ました■例えば、ライオンズクラブのメンバーや、スピーチの仕方を研究する会の皆さん、そしてモデルを束ねる仕事をしながら、ご自身は某宗派の尼僧でもあるという変わり種とも知り合いました。主催する人が変われば、その人に応じた友も集まるー類は類を呼ぶと言うのでしょうか。改めて人間関係の妙とでもいうべきものを実感しました。また、徳島県の高校における商業教育関係者の会に、講師として呼ばれて、観光人材の育成について持論を述べました(その内容の概略は、前回上下で掲載済み)。ここではまた終了後に、参加された商業高校の校長や教頭、教諭の皆さんとあれこれと懇談し、刺激を受けることができました。翌朝、そのうちの一つの高校(徳島商)にお邪魔して、校長先生と懇談。ついでに三木武夫元首相の顕彰碑を見たり、その碑のそばでクラブ活動に励んでいた弓道部の高校生たちと懇談、写真撮影もしました■顧問業の仕事や、こういう会に顔を出す合間に、お葬式やお通夜、あるいは病気見舞いなどもする機会があったことにも触れざるを得ません。深刻な思いになったのは癌患者の多いことです。老化と共に癌が進むということは仕方ないとはいえ、本当に多いなあというのが実感です。たとえいかに強盛な信仰を身に帯していても、容赦無く病魔は襲ってきます。そのときにどう迎え撃つかという姿勢に重要な鍵があると思います。先日、その昔に中野区のわたしの家の近所に住んでいた後輩(50歳代半ば)に徳島に行った際に久方ぶりにお会いしました。医師から肺腺癌を宣告されたとのことでしたが、多くの友人、知人、仲間たちから激励され、絶対に治す、負けられないとの強い姿勢には圧倒されるばかりでした。生きてる限りは、生老病死は免れません。使命あるうちは絶対に死にはしない、君は大丈夫、頑張ろうって激励しました。必ず克服して来年の参議院選挙で兵庫に応援に行きますからとの嬉しい言葉を後に、別れました。ともあれ、暑い暑い夏でしたが、厚い厚い友情をいたるところで培い、深めることができた満足できる夏でした。(2018-8-25)

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観光人材の発掘、育成は高校生からー徳島県での私の講演要旨(下)

観光とは、自分たちの住む地域を改めて見直し、誇りに思うものを抽出して、それを内外の知らない人に知ってもらうことが基本だと思います。「おもてなし」ばかり先行していますが、まずはその前に、他の地域、他の国の人々に、自分たちの何を伝えるかをしっかりと把握することが大事だと思うに至りました。瀬戸内海を巡っては、いにしえの人々が、そこの何に感動したかを追体験し、それをどう表現するかだ、と。そんな折に、私は、3人の強烈な個性を持つ教育関係者に出会いました。3年ほど前のことです。ひとりは、榎田竜路さん。音楽家にして映像製作者。北京電影学院の客員教授でもあります。彼は各地の高校生に地元の様々な著名人へのインタビュー形式での取材を通じて、地域に生きるその人物の実像を3分ほどの映画にするべくその制作、指導に当たっています。その作業から高校生ひとり一人が自分の住む地域に誇りを抱くようになり、ひいては自分とは何者か、何をこれからすればいいかに気づくということを強調しています■二人目は、鈴鹿剛さん。ご当地の徳島商業の先生です。彼とは淡路市で出会いました。徳島商業の男女生徒数人を連れてきておられました。いかにして淡路島を観光地として宣揚するか、そのために何をお土産ものとして売りに出すかを真剣に皆で討議する場に出くわしました。その時に女子高生から貰った名刺には驚きました。「校内模擬会社コムコム社長」とあったのです。高校生世代が自分たちの故郷、阿波・徳島地域の前に横たわる淡路島を動かすことで、徳島にも観光客を呼び込みたいとする積極姿勢には感動しました。我が兵庫・淡路島の高校生がそれに呼応して立ち上がって欲しいものと心底から思ったものです■3人目は、ここにおられる勝瀬典雄先生です。県立広島大学の客員教授をされています。この人は地域おこしの達人とも言える人で、私が以前に関わった企業で顧問をされており、富士吉田市で初めてお会いしました。そこには織物産業の低迷を打開するために、関東各地から高校生、大学生から始まって、デザイナーや企業人たちが集結していました。その後彼らの何人かと一緒にフランス・パリに飛んだり、また八幡平や塩谷、島根、広島と全国各地の地域おこしに携わっておられます。彼が徳島商業と神戸山手大学を教育連携で結びつけ、我々「瀬戸内海島めぐり協会」を観光人材を育てる実践の受け皿にすることに着眼して、焚きつけられました。私はこの人のマジックにかかって今ここに立っているというわけです■高校生世代の若者が地域を売り出すために、その地に住む人々を知り、その地域の遺産に目を配る、そこから全てが始まることをこうした人たちとの出会いから私は知りました。観光に従事することは、自分探しに繋がる。その人材を育み、育てることの重要さを発見しました。茫漠たる知識を何となくわかったように思ってるというだけでは、テレビで今話題のチコちゃんから「ぼーっとしてるんじゃあないよ」言われるのが関の山です。イギリスのリンダ・グラットンという女性の学者が『LIFE SHIFT  100年時代の人生戦略   』という著作の中で、面白いことを言っています。これからの時代は、生まれたのちに、教育を受けて、仕事をして、定年退職後の老後を趣味で過ごす3ステージという固定的な生き方ではいけない、と。5-6年ぐらいでひとつの仕事をする期間が続いたら、一旦大学や別の教育機関に入って数年間、新たな知見をそこで培って、また別の仕事をすることだと言っています。あたかも探検家のように、様々な仕事を次々と取り組む一方で、色々と教育を受けて自己を磨くというのです。そんな生き方から、大きい組織に一生しがみついて生きていくのではなく、自分自身で事業を起こす起業家となったり、いくつかの仕事を同時にこなす顧問業のようなものに従事するようになるというのです■人生100年時代の生き方はそのように自在に教育と労働を繰り返すようになるのかもしれません。知識と知恵の充電期間を持ちながら、その間に自分の新たな労働・仕事を展開するというのは、誠に面白い時代の到来とも言えます。ただ、漫然と3ステージを生きる時代は終わりました。高校生の時から、具体的な職業に関心を持ち、在学中から、考え動いているからこそ、次にくる仕事、行動も自ずから見えてきます。そういう意欲旺盛な高校生世代に刺激を与え、そしてこちらも刺激を受けながら、一緒に切磋琢磨することで、私はこれからの20年を生きたいものと考えています。体験談を交えた私の決意の披瀝になり、皆さんのご興味に役立ったかどうか。徳島の高校生を羽ばたかせる先生方の発奮に、何よりも期待しています。(2018-8-21  一部修正)

 

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地域おこし、自分起こしは「観光」からー徳島県での私の講演要旨(上)

明後日21日に徳島市内で高校の先生たちを前に(昭和30年度「商業教育研究大会)」)、講演することになりました。ここではその内容について、予め考えていることを公表します。

私は衆議院議員を20年ほどしていましたが、5年前に引退。今は「一般社団法人 瀬戸内海島めぐり協会」の役員をしています。この会は万葉集学者の中西進先生を代表に、冒険家の堀江謙一さんらを副代表にした、船で日本の原風景である瀬戸内海をぐるっと回る観光を推進することを狙いにしています。当面は、瀬戸内海の東の玄関に位置する淡路島へのインバウンドを目標に、その仕事を推進する観光人材の育成に取り組もうとしています。先ほど締結された徳島商業と神戸山手大学との教育連携の延長線上に、観光現場としての瀬戸内海、淡路島があり、その実践フィールドの受け皿に当協会がお役に立ちたいと考えているわけです。私は、現役時代には主に外交や防衛の分野にばかり熱心で、あまり内政、ましてや観光に関心を持ちませんでした。国政をやるなら「外交、防衛」しかない、それ以外は地方議会でも出来るとの勝手な思い込みからでした。しかし、その私が在籍した1995年から2014年は、ちょうど「失われた20年」と言われる時期とダブります。その間に長期デフレで経済は低迷。東京一極集中のおかげで、全国の地方都市は消滅の危機に瀕するようになってしまいました。人口減、少子高齢化の流れは津波のように押し寄せています。その事態を打開するには、どうすればいいか。悩んだ挙句に「観光」と向き合うしかないとの結論に行き当たりました。これからその辺りに至った経緯を語らせていただきます■さて、明治維新から150年の今の日本の立ち位置はどういうものでしょうか。改めて過去を振り返り、これから迎える新たな時代への展望を考えてみたいと思います。世に「日本社会40年転換説」なるものがあります。この150年を捉え直すにはとても便利な枠組みなので、当てはめて見ましょう。まず1865年前後から1905年前後までの40年間は、富国強兵の名の下に懸命の軍事国家作りでした。日清、日露戦争の勝利に酔いしれたその後の40年は一気に下降線を辿った結果、1945年には一国滅亡の危機に瀕してしまいました。そこから今度は、経済至上主義に基本姿勢を改めて40年。1985年頃にはバブル経済の頂点を極めてしまいました。富国強兵ならぬ富国強経の結果です。そして、今はやはりそれから40年後の2025年頃の高齢化のどん底目指して真っしぐら。あと7年ほどです。先ほど述べた「失われた20年」が30年から40年へと伸びる勢いで、社会の奥深いところで漂う不安は隠せません■そんな大状況の下で、最近こんな話を聞きました。ある大学の名誉教授がこういうのです。自分の周りにいる文科系の大学卒業者やその親たちの嘆きや愚痴は只ならざるものがある。大学を出ても自分にマッチした仕事に出くわさないし、大学で学んだことは何も役に立たない、と。皆が深い悩みにある、とも。その大学教授はそういった状況を述べた上で、自分の息子さんを5年も浪人させて歯科大に入れたというのです。これでなんとか食っていける、と。先日来、文科省の高級官僚が自分の息子を医科大に不正入学させたことが話題になりましたが、ことほど左様にただ大学を出ても世の中で役立たないとの不安感が社会全体を覆っていると言えましょう。極端な例を挙げましたが、世のエスタブリッシュメントと言われる人たちのこの異常な感性こそ時代の空気の象徴と言えましょう。人口減社会という世界で未曾有の厳しい事態を目前にして、社会全体をどういう方向に舵取りすればいいのか。また個人個人はどう生きていけばいいのかが今ほど問われているときはないといえます■私は人口減の時代にあっては、富国強兵、富国強経の次には、富国強芸というように、文化・芸術にみんなが価値を認め、ひとり一人が自分の人間性、活力を磨くことに熱心な時代が来ると、いや来させないといけないと思っています。国全体の取り組みとしては、世界中の観光客を日本各地に呼びあつめる「観光の産業化」ということになります。デイビッド・アトキンソンという英国人でありながら日本の各種国宝や重要文化財の修復を仕事にしている小西美術工藝の社長がいます。『新・観光立国論』って本を書いた人です。この人がこの間淡路島のフォーラムで、観光こそこれから人口減社会に向かう日本を浮上させる鍵だとのインパクト強い講演をしていました。観光とは、自分たちの住む地域を再発見し、その町の価値に誇りを持つことから始まります。自分たちの国を知ってるようで知らない、わかってるようでわかっていない日本人。この自覚から全てが始まるのではないかと思うに至りました。(2018-8-19)

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続・米朝外交の新展開と日本

世界中を賑わせた金正恩北朝鮮労働党委員長とトランプ米大統領のシンガポールでの会談から二ヶ月余りが経った。米国の中間選挙を意識したパフォーマンス対応が色濃かったトランプ氏の振る舞いに比べて、金正恩氏の国際政治の表舞台への初デビューぶりは、なかなか鮮やかなものであった。米朝共同声明の粗雑さが喧伝され、結局は元の木阿弥ではないかとする見方が錯綜する中で、いま米朝関係は奇妙な静けさが支配している。中間選挙への影響を最大限気にするトランプ氏とそれへの最小限の配慮を示す北朝鮮側の睨み合いが、例年を激しく超えた暑さのせいもあって、大いに弛んでいるようにも見える。改めて米朝関係の展開と日本の立ち位置を見つめてみたい■まずは、会談後の経緯を追う。共同声明にもうたわれた朝鮮戦争の米兵の遺骨55人分が、首脳会談の後にハワイの米軍墓地に改めて埋葬されたことは周知の通りである。一方、日米韓の共同軍事演習は会談直後に中止説が出回った通り、ひとまずは見送られた。こういった展開は型通りのもので、非核化に向けての両者の基本的な姿勢は一歩も変化を見せていない。つまり、どちらが先に手をつけるかを巡って譲り合う呼吸は微塵も伺われないのである■ここで改めて確認すべきは、先の首脳会談以前と以後で北朝鮮への世界の見る目が変わったことについてである。北朝鮮のこれまでのいわゆる「瀬戸際外交」と軍事力の相関関係について、一般的には国内政治上の問題を解決するためや国際環境が悪化した場合に軍事行動をとり、それを外交に繋げてきたと見られがちであった。だが、道下徳成氏(政策研究大学大学院准教授)によると、彼らが政策目的を達成するための合理的手段として軍事力を用いてきたことが明瞭であり、興味深い。北朝鮮の瀬戸際外交を巡っては、政策目的として、時代とともに、野心的かつ攻撃的なものから限定的かつ防衛的なものに変化してきたと捉えられる。その目的に合致する軍事行動は、局地的な軍事バランスなど構造的要因によって促進され、あるいは制約されてきた。北朝鮮の指導者たちは、過去の経験から教訓を学び、時とともに軍事行動と外交活動を巧妙に結びつけるようになってきているとの分析が、真実味を帯びて見えてくるというのが、偽らざるところではないか■彼らの外交姿勢において、抑止力が不可欠の役割果たしてきており、法的な要素も用いながら、時に奇襲的行動によって対象国に心理的ショックを与える手法をしばしば用いてきている事実を冷静に見抜く必要があるとの道下氏の分析は鋭い。日本の世論には、長きにわたり、北朝鮮の指導部の政策形成能力を疑問視し、暴発的行動への不審感を募らせてきた趣きがある。今回の米朝首脳会談に至る流れを見ると、それ相応の冷静な判断力や分析力が背景にあるものと見ざるを得ないのではないか■こうした北朝鮮の対応について、背後に中国の存在が欠かせぬとして、今回も対米折衝の合間に金氏の数度の中国訪問をあげる向きがある。勿論、中朝関係は過去の歴史に鑑みて、時々の変貌はあるものの、基本的には唇歯の関係にあることは論を待たない。これまでの、あたかも「北朝鮮無能論」とでも言えるような対北認識が、シンガポール会談以後「中国の操り人形」であるかのごとき論調にジワリ変わったとみられなくもない。こうした世界の対北認識には表現の違いはあれど、北朝鮮は真っ当な力を持っていないと見る点で共通している気がする。だが、そんな認識で事足れりとしていいのだろうか■日本は長い歴史の中での中国や朝鮮半島との関わりを通じて、とくにこの150年の近代史において、北東アジアの盟主として自認してきたことは否めない。つい先ごろまで、日本のみが近代化に成功し、ポスト近代の立ち位置にあり、中国(韓国も)はまさに近代化の只中で悪戦苦闘を続けているとの捉え方があった。北朝鮮に至っては、プレ近代にあるとの認識が専らだったのである。確かに、時代状況全般については大筋間違ってはいない。国民一人あたりのGDP比較を持ち出すまでもないだろう。しかし、巨大な人口と面積を誇る中国は既に大都市部中心に「ポスト近代」を走っている。その事実を真正面から認めたくない日本は、対中認識のズレを対北認識にもそのまま持ち込む傾向なしとしない。つまり、中国については思考停止させ、北朝鮮には、遅れた国に何が出来るかとの蔑む見方があるのではないか■「米中貿易戦争」とも言われる状況下で、日朝が差配できる選択肢は限られてこよう。だが、見方を変えれば、そういう状況だからこそ、より両者の独立度が推し量られるともいえる。「宗主国」「同盟国」をどこまで気にするかは、ある意味で国家としての近代化の目安である。日本は戦後73年という「維新後」の時間軸の半分にほぼ立ちながら、アメリカの呪縛から逃れられないでいる。少し立ち至ってこの我が身の現状を考えれば、中国を気にする北朝鮮をとても笑うことは出来ないのである。(2018-8-13)

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