被害者ジャーナリズムを嘆くより、琉球ナショナリズムに思いをー「沖縄の今」を考える➀

きょう6月23日は沖縄にとって忘れがたい「慰霊の日」。先の大戦で20万人(米軍兵も含む)もの人が命を落としたことを悼む日である。ただ、日本の各県・地域にとっては、忘れがたいのは、8月15日であって、その日ではないとの印象は強い。日本史において外国から攻め込まれて戦禍に巻き込まれたとの記憶が残るのは、鎌倉時代の蒙古襲来と先の大戦での沖縄戦である。しかし、鎌倉期のそれは海上戦であって、陸上でのものではない。地上戦は沖縄が初めてなのだ。沖縄は歴史を遡れば、琉球王朝が支配をしてきた地域で、日本に組み込まれたのは明治期からである。民族も琉球民族であって大和民族ではない。あらゆる意味で日本における異質の存在が沖縄なのだ。このように述べるのは、沖縄を考えるうえで、一貫してつきまとう「差別」という意識の寄って来る由縁に思いを致さざるをえないからだ■私は公明新聞の記者時代(昭和44年/1969年~昭和62年/1987年)から幾たびか沖縄に足を運んだ。数えきれない思い出があるが、中でも印象深いのは「7・30」(ななさんまる=昭和53年/ 1978年)のとき。それまでの交通ルールが一変し、ひとの左側通行が右側に変わり、車が反対通行になったことを取材するために行ったのである。戦後30年余。本土では壊滅的な戦禍も癒えて復興の雄姿を見せている時に、沖縄はようやく今復帰したのだ、との思いを抱いた。形の上ではようやくアメリカから日本に返ってきたのだ、と。しかし、それはあくまで表面上のことだけで、米国占領下の実態はそれ以降40年近くが経とうとする今もなお全く変わっていない。これを考えるうえで、私たち日本本土で生活する人間の、「対沖縄差別意識」に正面から向き合わなければならないと思う■それを考えるうえで格好の題材は、沖縄県におけるメディアの動向である。同県には琉球新報、沖縄タイムスの二紙しか実質的には存在しないとされている。日経新聞が数年前に鳴り物入りで参入したものの殆どといっていいほど根付くに至っていない。こうした二紙の牙城が揺るがぬことを、長きにわたって私はイデオロギーのもたらす悪弊の結果と思い続けてきた。しかし、10年ほど前に沖縄の地で後輩の遠山清彦代議士(沖縄県を含む九州地域を地盤とする比例区選出)と語り合った時に、自分の間違いを心底から思い知らされた。沖縄が左翼イデオロギーに毒されていると見る限り、真に沖縄を理解することはできない、と。一言でいえば、「琉球ナショナリズム」がその基盤に横たわっているのだ、と知った。琉球の歴史を理解し、思いを寄せずに、結果としての政治の動向を見て、「被害者ジャーナリズム」だとしているだけでは、「沖縄問題」は到底分からないのである■情報誌『選択』6月号が、沖縄の二紙の「本性」を攻撃するとの記事を掲載していた。「偏向報道」合戦の重い罪とのタイトルで。「『反米軍基地』一色の偏向報道を連日垂れ流す。しかも占有率は100%近く、沖縄県民は、その論調に染まっていく」ー「米軍憎し」が生む誤報によって「不都合な真実」は封印されたまま、だというのだ。そうだろうか。確かにここで明らかにされている現実はなにがしかの真実を含んでいよう。否定はしない。しかし、それを補って余りあるくらいに、沖縄のこころから、「米軍」と「日本政府」の現実は遠く離れている。私は、「沖縄が先の大戦で『捨て石』にされ、戦後、過重な米軍基地負担を担わされてきたのは紛れもない事実であり、本土の人間はその過去に思いをはせるべきだ」との数行に注目した。過去形で書かれ、「沖縄の今」に思いをはせていないとの欠点を持つのだが、それでも全編でこの部分だけが「偏向」していない眼差しに見えたからだ。ところが、その直ぐ後に、「しかし、だからといって、沖縄の立場が一方的な報道を許す免罪符にはならない」と続く。これでは二紙の「本性」やその「重い罪」を暴いたことにはならない。沖縄のメディアの現状を嘆く前に、それを許している本土ジャーナリズムの怠慢に目を向けるべきではないか。そして、自民党や公明党の支持率が左翼のそれと拮抗している現状を見れば、沖縄の人々の見方が二紙の論調によって捻じ曲げられているとは思えない。ことの本質はこの二紙が沖縄のこころをうつ「琉球ナショナリズム」を代弁しているところにあるのではないか。「被害者ジャーナリズム」だと切って捨てる前に、むしろ被害者の実態に目を向けるべきではないのか。(2017・6・23)

「遥かなるルネサンス」展でキリスト教の布教を思う

「遥かなるルネサンス 天正遣欧使節がたどったイタリア」展を神戸市立博物館に観に行きました。これは東京富士美術館の特別企画によるもので、イタリア・ウフィツイ美術館の特別協力のもとに実現しました。勿論、日伊両政府の肝いりによる賜物(日伊国交開始150周年記念事業)ですが、忙中閑あり、なかなか得るところは多かったです。ご存知のように、「天正遣欧少年使節」というのは1582年に長崎からイタリアに向けて旅立った伊東マンショら4人の使節のことで、ローマでは時の教皇グレゴリウス13世に謁見しました。訪問した各地で手厚いもてなしを受けたといいますが、この展覧会では、彼らが訪れた各地を順に追いつつ、それぞれの都市の芸術作品を紹介しようというものです。ブロンズィーノ(ビア・デ・メディチの肖像)やティントレット(伊東マンショの肖像)の絵画作品やら、タピストリー、陶器、ガラスなどの工芸品、書簡資料が展示されていました▼出発から3年経った1585年にヴェネツィアに到着(そこには10日間いました)、その後難行苦行の末に帰国したのは1590年といいますから約8年間程の文字通りの長旅でした。出発した頃の伊東マンショは12歳くらい、イタリアで歓迎を受けた頃は15歳。帰ってきたときは20歳になっていたはず。この展覧会はルネサンス期のイタリアの芸術を鑑賞することが主たる狙いですが、どうしても彼らが派遣された頃の日本の宗教事情に思いが飛びます。時あたかもキリスト教の世界布教盛んなる頃。とりわけ九州の地では大名で洗礼を受け、信者になるものも多くいました。イエズス会士ヴァリニャーノが日本における布教をさらに進めるために、この4人(伊東のほか、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲル)ーいずれもキリシタン大名有縁の若者だったわけですがーが選ばれました。彼らが行った頃と違い、帰ってきた頃にはキリスト教をめぐる事情は違っており、まさに”行きはよいよい帰りは怖い”でした。その後の彼らの人生は迫害の連続で、殉教の道をたどります▼私は西洋の絵画を観るときは、どうしても寓意を探る癖があります。だからといってなにもかもその角度から観てるわけではありません。ですが、単なる肖像画や風景画では物足りず、絵画の中に何気なくはめ込まれた動物や人間の表情を通して作者が何を意図しようとしたのかを考えさせる絵に興味を持ってしまうのです。この日の作品でも、例えば、「息子アンテロスをユピテルに示すヴィーナスとメルクリウス」という作品の中に描かれたワシに注目しました。これは私が気づいたのではなく、そんなことをあれこれと話しながら会場を歩いてるときに、一緒に行った私の友人が指摘してくれて気づいたものです。尤も、これとて正直どういう意味合いがあるのかはにわかには判じることは出来ぬまま通り過ごしましたが▼その友人は、成川愼吉君といい、ハリマ化成を定年後に学芸員になったり、気象予報士の資格をとってあれこれと研究するという豊かな才能に恵まれた変わり種です。研究対象は神戸の生んだ画家「金山平三」について。彼は気象予報士としての知見をもとに画家が描いた当時の天候と絵との関係を追うというのです。彼は今まで3回もフランスに渡り、観光の傍らパリ時代の金山平三の足跡を追っています。つい先日も4回目の訪問をして、彼の描いたある絵の制作当日の気象状況を調べに行きました。実はそれに関する資料があるのではないかと、パリの日本大使館に聴いてほしいというので、旧知の木寺昌人大使を紹介したものです。同大使も彼の熱心な研究姿勢や博学ぶりに驚いていたようです。こういうマニアックな趣味を持つ友人の解説付きの鑑賞は、何時にもまして贅沢で充実したものになりました。(2917・6・18)

「がん難民はどうするか」との坂口力先輩の講演を聴いて

「がん難民はどうするか」-最初、「がん難民をどうするか」の間違いではないかと思いました。坂口力元厚生労働大臣が元議員の会合で講演された際のタイトルです。冒頭、ご本人から、がん難民の取り扱いをどうするかよりも、がん難民自身としての対応をどうするかとの観点からの話をしたいとの講演趣旨が披露され、納得しました。さすが、坂口先輩らしい視点で、体験を織り交ぜての聴きごたえある中身でした。同氏は今から8年前に大腸がんを患われ、小腸と大腸をあわせて30センチ切られたとのこと。余命3年と言われたそうです。昭和9年のお生まれだから、御年83歳。年齢相応の雰囲気を漂わせられてはいるものの、演壇での講演ぶりは現役時代と全く変わりません。ご自分で作成されたと思われる映像を縦横無尽に駆使ししての展開は、お見事という他ありませんでした▼お話では直接的には触れられませんでしたが、現在は東京医大特任教授をされており、「統合医療研究」に従事されているご様子。ご自身の闘病にあっても抗がん剤を使わずに免疫療法を受けたとのこと。この日の講演でも随所に、代替医療をめぐる話題が顔をのぞかせていました。とりわけ興味深かったのは、アメリカでの代替医療の実態。年間1億ドルかけての研究が進められており、がん患者の45%が代替医療を取り入れているといいます。一人平均57000円もの出費との統計報告もあり、健康食品が主で主治医には相談しないというケースが専らのようです。しかし、日本では、➀三大標準医療(外科手術、抗がん剤、放射線)に取り組んでいる医師の多くは、代替医療を頭ごなしに否定することが多い➁三大標準医療でがんが完治しないから、代替医療へ患者は走る。しかしながら反対する医師がなぜか多い⓷代替医療について、知識のない医師も多く存在するーという状態が続いています。坂口氏は「アメリカは効果があって副作用がないものには柔軟だ」と指摘したうえで、日本も治療の幅を広げ、代替医療も含めて併用療法を認めるべきで、社会全体で相談する仕組みを作る必要を強調されたのが印象に残りました▼また、「がん難民はなくなるか」という課題については、ポイントとして「医師と患者は治療法を話し合うことになっても、医師は最後の決定権を手放せるか」と力説。坂口氏の場合、主治医が「抗がん剤をつかうかどうかは自分で決めよ」と言われた結果が、免疫療法を選んだことに結びついたことを明らかにしていました。さらに、優れた治療法を確立したひとが社会から法の名において排除されたケースが多数あるとのエピソードには、全く初耳だっただけに驚かされました。主題である「がん難民はどうするか」については➀医師はあなたの人生まで考えて治療をしてくれるわけではない➁自身や家族、社会における立場を考えて治療方法を決める必要があり、医師にいうべきことは明確に伝えるべきである⓷がん治療の選択肢は大幅に広がり、完治の希望が生まれてきたーとしたうえで、「人生は残された時間が重要である。それは諦めることではなく。残された人生に希望を見出すことである」と強調されていたのは胸にあつく響きました▼「がん難民をどうするか」をめぐっては、「患者の意見を充分に聞き、家庭環境、社会環境を考慮して、医師を含めた各分野の専門家が集まり、どのような治療が望ましいかについて協議し、決定する体制を作る」ことを提案されました。その理由として、「医療としての最善の方法が、患者の残された人生にとって、最善とは言い難い場合があるから」だ、と。なかなか現状では困難ではないかと思うものの重要な指摘だと言わざるを得ません。最後に、「がんは人間に考える時間を与えてくれる疾病である。自分の人生を生きがいのあるものにするための期間をがん患者は要求している」とする一方、「研究者に告ぐ」とことわったうえで「根治が難しくても、がんと共存の時間を延長する研究も、するべきではないか」と強調されました。まさに遺言であるかのごとく重く聴いたのは私だけだったでしょうか。政治家への信頼が薄れいくことが強調されがちな今日、まことに素晴らしい先輩を持ったと誇らしい思いに駆られたしだいです。                                      (2017・6・8)

「核兵器廃絶」への遠すぎる道➄ー注目されるSGIの地道な闘い

先日、アメリカの首都ワシントンで、米SGI(創価学会インターナショナル)が「核兵器政策の根本的な変革を目指して」と題する会合を開いたとの報道に接した。その会議では、国連で核兵器禁止条約制定に向けた交渉が進んでいることを受け、学者や専門家、市民団体の代表らが活発な意見を交換したという。四つのセッションでは、1)深まる核戦争の危機について2)核兵器の人道上の影響について3)宗教間の協力や青年の役割をめぐって4)核兵器政策の根本的変革に向けてーなどがテーマとなった。プリンストン大学・科学と地球安全保障プログラム共同ディレクター、グローバルゼロ共同創設者、軍備管理協会事務局長らの基調報告や広島の被爆者の体験談などを聴いたうえで、参加者相互の活発な議論が展開された。こうした地道な実践が持つ意味を考えるにつけても、この団体の「核廃絶」に向けての歴史的な経緯に思いを致さざるをえない▼創価学会の戸田城聖第二代会長が1957年に行った「原水爆禁止宣言」がその活動の原点をなす。「(生存の)権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」との発言を受けて、その弟子として第三代の池田大作会長(現SGI 会長)が60年後の今日に至るまで、営々と「核廃絶」に向けての闘いを展開してきた。これは生命の尊厳を説く仏法を基調とした、草の根の平和運動として遍く知られている。核廃絶のための展示の開催から始まって、被爆者の証言を収録した反戦出版物の刊行、各種の講演会、セミナーの開催や意識調査や署名活動など、日本から世界に向けての民衆に根差した運動としてうねりを高めている。一方で、毎年1月に発表される池田会長によるSGI提言は、微に入り細にわたって、ありとあらゆる角度からの「核廃絶」に向けての具体的な提案をしてきている。一例を挙げると、2006年8月に同会長は核兵器廃絶に向けた民衆の力を結集する目的で、「核廃絶に向けての世界の民衆行動の10年」を国連で制定しようと提言をした。一般民衆や市民社会が主役になって政策責任者に核兵器廃絶を強く求める活発な世論のうねりを起こすことを狙いとしたものであった。この提言を受けて、SGIは2007年9月に「民衆行動の10年」のキャンペーンを開始。これは、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN) などの様々な国際的な運動と連携しながら、核兵器禁止条約の実現に向けて行動してきた。本年9月でちょうど10年、区切りを迎える▼先日、国連での交渉会議を前に英字紙「ジャパンタイムス」のオピニオン欄に池田SGI会長の寄稿文(本年3月1日付け)が掲載された。そこでは、唯一の核被爆国日本が国連での交渉会議で積極的なとりまとめに貢献すると共に、交渉会議を力強く支持する市民社会の声を届け、核兵器禁止条約を”民衆の主導による国際法”として確立する流れを作り出すべきだと呼びかけている。この主張に多くの点で賛同している黒澤満大阪大学名誉教授(元日本軍縮学会会長)が、核なき世界を築くための方途として、様々な国々やNGO(非政府組織)が提起している具体的な道筋を挙げており、興味深い。それは、1)核兵器国が中心になって核兵器禁止条約を締結し、段階的な廃絶と検証を目指す2)核兵器国の参加がなくても、まず核兵器の使用と保有を禁止する条約を締結する3)地球温暖化防止のための「気候変動枠組み条約」のような形で、まず条約の枠組みをつくり、詳細は議定書で規定する4)実際的な措置を積み上げていく漸進的なアプローチ5)可能なものから、一つずつ取り組みを進めるステップ・バイ・ステップ方式の五つだ▼当面は1)は到底無理で、2)がうまくいくかどうかが焦点だろう。そのためには、やはり日本の八面六臂の活躍が必要となってくる。小泉純一郎元総理や細川護煕元総理が「原発ゼロ」に向けた活動を展開し話題を呼んでいることは周知のとおりだが、核廃絶に向けても共同行動を起こしてほしい。この問題についてすべての団体が党派を超えて一致団結して立ち上がることが切に望まれる。「愚行の葬列」に切れ目を作り、大きく希望を持たせるのは唯一つ世界各地で広まる「賢者の陣列」だと思いたい。(この項終わり=2017・6・3)