自公連立20年とこれからー懸念される中道主義の存在感❸

改革へのリーダーシップの発揮を

それにつけても、私が不満なのは、連立20年の公明党の存在感が滅法薄いことである。この20年の政権の実態を公明党の側から分析した鋭い論文『連立20年の自公政権』(公明新聞党史編纂班=10月4日、5日付公明新聞)が先に発表された。これを読めば、中道主義の公明党が自民党との連立参加に当たって掲げたスローガン(政治の安定と改革のリーダーシップ発揮)が看板倒れではなく、いかにうまく展開されてきているかが手に取るように分かる。多くの党員、支持者が溜飲を下げたものと想像するに難くない。一般的には「政治の安定」ばかりが強調され過ぎ、「改革のリーダーシップ」が見えないではないかとの指摘が少なくないからである。

上述の論文では、まず第一に、自民党の安全保障政策に対する抑制を、改革の内実として挙げている。具体的には先の安保法制決定に至る過程で「法案に大きな修正をかけたこと」や、「憲法改正問題に関して公明党が重視する国民的合意形成の重要性を自民党側も受け入れている点」を挙げている。次いで、社会保障や教育の分野で、弱者救済の政策が積極的に実現されてきたことを指摘している。「消費増税に付随して食料品等に軽減税率を導入したり、幼児教育や私立高校の授業料を無償化することなど」が具体例である。そのほかにも、「高齢者や障がい者など弱い立場の人たちに対するきめ細かな施策」を始め、「命を守る防災・減災対策の拡充、自然・文化の力を観光立国化」などが羅列されている。いずれも独りよがりの論法ではなく、有識者たちの評価をきちっと掬いあげている。これを読めば、「保守・中道」の二つの政治的立場が相補う形で、「抑制と均衡」という関係を維持し、結果として自公連立の耐久性を高めてきたことが分かる。

論及されぬ連立での公明党の役割

しかし、平成の時代が終わって、その時代を振り返る各種論調の中で、残念ながら自公連立の”妙”を分析したものは目にすることは現時点で、ほとんど見当たらない。それどころか意図的に無視したとしか思えないような疑いすら抱くものが散見される。一例を挙げると、日経新聞社の芹川洋一シニアフェローによる『平成政権史』である。政権の流れを丹念に追っているものと見たので、腰を落として読んで見たが、連立政権における公明党の役割めいたものに触れられたくだりは全くない。「政権史」と銘打たれたからには、連立政権の実態や功罪について論及されるのが当然と思うのだが。かねて芹川氏の手になる著作『憲法改革』を高く評価してきた私だけに、ご本人に直接、苦情を申し上げた。「何も公明党を褒めよと言ってるのではありません。なぜ評価をせずに、無視するのですか」と。

とりわけ私が首を傾げざるをえないのは、この本の「まとめ」で、「30年たって政党の体制がもとにもどってしまった」としているところである。非自民連立政権から始まって、自自公、自社さ、自公連立などを経て、民主党政権を挟んで、再び自公連立政権へと目まぐるしく動いてきた経緯の末に、政党の体制が元に戻ったとはどういうことか。芹川氏に言わせると、55年体制の頃の、自民・社会・公明・民社・共産の5党による基本的枠組みが、「かりに立憲民主党を社会党、国民民主党を民社党と想定すれば、まったく同じである。30年たって一回りということだ」と述べて、今も変わっていないとされる。確かに、政党の分布を見ればその類似性の指摘は当たっている。しかし、政治の質という面では、明らかに変わってきている。いや、変わっているはずと見てしまうのは公明党の人間による僻みだろうか。その辺りの分析がなされずして、形だけの捉え方が先行してしまうと、「政治の真実」を見損なってしまいかねない。(続く)

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自公連立20年とこれからー懸念される中道主義の存在感❷

気になる存在感の低下

それよりも公明党の支持者における一般的な懸念は、存在感の低下という問題である。自公政権と言いながら、実際には自民党安倍政権の添え物でしかないように見られるのはなぜか。政権内部で激しく論争が行われたのは、安保法制をめぐる関連法の審議の際だった。あの時以降、両党間での鍔迫り合いがなりを潜めたかに見える。2013年2月に、安倍首相が集団的自衛権行使容認を目的に、私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設けたことが号砲一発だった。2014年7月の閣議決定から15年9月の安全保障関連法の成立に至る一年間の議論の推移は極めて特徴的だ。要するに、あれ以降自民党は、集団的自衛権は行使が容認されたといい、公明党ではその集団的自衛権は限定されたものであり、一部では個別的自衛権の延長線上にあるとの捉え方もなされた。つまり、典型的な玉虫色決着となったのである。私は、この議論がなされた当時の議事録の公開をすることこそが両党にとって緊要だと思った。しかし、残念ながら今に至るまで、それは伏せられたままである。お互いが自身に都合のいいように解釈している事態がいつまでも持てばいいが、それが崩れたら、深刻な局面を引き起こすに違いない。ただ、一点言えることは、首相が公明党に譲歩したことだけは間違いない。それが証拠に、自民党内最大の防衛論客である石破茂氏があの直後に首相からの防衛相就任要請を蹴ったことだ。公明党風の条件付き集団的自衛権では一国の防衛の衝に当たれないとの意味を有した彼のセリフが印象に残る。

憲法論議に合意形成の役割を

今、自公両党にあって最大の課題は、憲法9条をめぐる問題の取り扱いである。改憲政党自民党が、9条の3項に自衛隊の明記を加えるという加憲の決断をしたことは、安倍首相の投げた変化球だった。改憲の立場をとる公明党だから、9条においても同調せざるを得ぬはずと読んだものと思われる。1項と2項をそのままにして、3項に自衛隊の存在を付け加えることが、憲法解釈の常道を外れた奇策であることは誰しもが認めよう。そんなやり方をするよりも、2項を全面的に書き換える方が筋が通るとか、あるいはそのまま触らない方がマシだとの考え方が一般的である、しかし、双方共に世の賛同を得ることが難しいなら、妥協点としての3項加憲は意味を持つ。少なくとも、合意を目指して議論の場を設けるべきだというのが私の主張である。議論が足りないとする公明党のスタンスは、結果として護憲のスタンスに舞い戻ったかに見えるのは残念である。

私は憲法審査会におけるこのところの議論の低調ぶりは大いに嘆かわしいと思う。かつて中山太郎氏が衆議院憲法調査会長当時に、懸命に与野党の合意を得る努力を重ねた結果、国民投票法をまとめるに至ったことは大いに賞賛されよう。勿論、憲法そのものをどう取り扱うかはもっと高度なテーマであり、簡単にはいかないことは認める。しかし、この停滞状況を打破するために、私が世に問うている三つの提案の実現化は早急に検討がなされて欲しいものだ。一つは、予備的国民投票の実施である。国民が憲法改正をすべきだと思っているのか、それとも変えずともいいと思っているのか。これを予め問うという国民投票があっていいと私は考える。しかし、そんなことは今更迂遠過ぎるという声があろう。それなら、二つ目には憲法審査会が大枠の方向性を決めた上で、学者、文化人ら民間有識者のプロジェクトチームの手に委ね、原案をまとめ、それを再び審査会が受け止めて、最終的な形に仕上げるというやり方である。残念ながら国会議員に任せていては、十年一日のごとく議論は進まず、うまくいきそうにないからである。それもダメだというなら、三つ目は、国会議員の中で、各党選抜した議員を一定期間、憲法議論だけに集中させ、2年ほどで答えをまとめさせるというやり方である。そうでもしなければ、ほぼ3年ごとにくる選挙のために、腰を落ち着けて憲法の議論をする機会は永遠にきそうにない。その際の進め方は、はじめに改憲ありきでも、護憲ありきでもなく、何を変えて、何を変えずともいいのかという憲法の在り方をつぶさに論じる場面を設けるというやり方である。このようなこともせずに、ただのんべんだらりと審査会をやれ、やらないということを繰り返してはならない。ともあれ、いろはの〝い〟である議論の進め方、憲法の取り扱いをめぐる話合いに早急に国会は取り組む必要がある。(続く)

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自公連立20年とこれからー懸念される中道主義の存在感❶

私が理事を務めます、一般社団法人「安保政策研究会」の「安保研リポート」vol25に「自公連立20年とこれからー懸念される中道主義の存在感」とのタイトルで寄稿しました。以下に転載します。

自民党と公明党が連立を組んだのが1999年。早いもので、この10月5日でちょうど20年になった。平成の30年間の後半の3分の2に当たる期間を、両党は政権を共にしてきたことになる。具体的な政権運営のかたちは、ポスト面からいうと、国土交通相が既に五人も連続して公明党から誕生しており、副大臣、政務官も厚生労働省、農水省、経済産業省、財務省が定番となっている。たとえ、1年間ほどの短さとはいえ、政府の一角を担う人材が着々と増えることの持つ意味は小さくない。庶民大衆の声なき声を吸い上げることに一意専心してきた公明党が今や、権力中枢にしっかりと食い込んでいる。さまざまな政治的課題についての要望が容易に中央に届くことは、大きな実現力として有権者の最先端に跳ね返ってくる。大向こうを唸らせるような論戦における華々しさは、野党時代と違い、いささか遠のいた感がするが、それを補ってあまりあるほどの手応えが公明党の最前線にはあると思われる。

「公明党の自民党化」への懸念

一方、各級選挙においても両党の協力ぶりは年々歳々親密の度を増してきている。衆議院選挙において、公明党は9の小選挙区で自前の候補を立て、自民党の支援を受ける代わりに、それ以外のあらゆる選挙区で、自民党候補を押し上げる役割を果たしている。参議院選挙では、公明党は7つの選挙区で自民党候補と共同推薦の形を受けており、自公入り乱れての複雑な選挙戦を戦ってきている。この夏の参議院選挙では、私の地元・兵庫選挙区が全国一の激戦区ということで、激しく自民党支持者層に食い込む戦いを展開した。各種団体の推薦を始め、自民党衆議院議員をも巻き込んでの闘いぶりは「公明党の自民党化」(神戸新聞)現象を内外に印象付けたものである。

かつて、鴻池祥肇氏(故人)が参議院兵庫選挙区における、三宮駅前などの繁華街での自らの演説で、「おーい、こん中で公明党の人おるか?あんたらわしを応援せんでもええで。よその党の応援なんか貰わんでもわしは勝ったる」と、声高に叫んだ場面が忘れがたい。同氏独特のパフォーマンスで固有の支持者を沢山有していただけに、公明党の支援を求めるなど片腹痛いということだったに違いない。自公選挙協力の滑り出しの頃には、こうした鴻池氏のような候補者は散見されたもののようだが、今ではほとんど姿を消したかに見える。一方、公明党の方でも、自民党候補の名前を書くことへの抵抗感は少しずつ後退してきているものと思われる。

ただ、表面的にはおさまっているようでいて、その実、反発が強いのが衆議院の公明党の9選挙区における自民党支部である。自前の候補を出せぬことからする組織力の低下がもたらす不満が高まっている。参議院の選挙区選挙のように、一つの選挙区で自公が共に戦って、議席を争奪する形にして欲しいとの要望は出ては消え、消えては浮かんできていると聞く。公明党の方は、小選挙区の数が圧倒的に少なく、比例区オンリーで戦う選挙区が大半のため、表面的には不満は高まらないよう見える。(続く)

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遅すぎる国会再開に、攻めの議論を期待

公明党が政権与党になって早いもので、明日でちょうど20年になります。自民党・小渕恵三総理からの要請を受けて、自民党と自由党と公明党の間で自自公政権を組んだのが事の始まりでした。以来様々の組み合わせを経て、民主党政権下で野党に舞い戻ったりした末に、今の自公政権に落ち着いています。私のように野党時代の公明党を知っている身からしますと、与党に落ち着いてしまった党には、実現力の凄さと共に、何だか物足りなさをも感じてしまいます。国土交通相を連続して五人も出し続け、厚生労働副大臣や経産副大臣などにも次々と公明党の人間が入れ替わって座る事態は、自民党との一体化が目立ちます。自民党の公明党化をもっとアピールして欲しいと思うのはおかしいでしょうか▼公明党はそれでいいのか、それとも違うのか。簡単なようでいて、結構難しい問題です。元をただすと、公明党って自民党政治を変えるために誕生したはずです。イデオロギー偏重の、庶民大衆を忘れた自社対決の不毛な政治から、政治を取り戻すためというのが立党の精神の一大看板でした。保守と革新の狭間にあって、人間そのものの寄ってたつ基盤に立脚する中道主義の政治がその理念の中核です。言い換えると、自民党政治を改革していくことこそ公明党のお家芸だと言えます。私風にそれを要約すると、かつては外から自民党を変えようとしたがうまく行かぬため、一転今度は内側から自民党政治を変えることにしたというものでした▼したがって、公明党の目指す指標は、「政治の安定」にとどまるものではなく、「政治の改革」をどこまでも追求するというのが基本スタンスだと思われます。勿論、安定あってこその政治です。いたずらに不安定な事態を引き起こすことは本意ではありません。ただ、だからといって、事なかれ主義では良いわけがありません。時に自民党を揺さぶり、震旦を寒からしめる動きがあってこその中道主義・公明党の真骨頂のはずなのです。与党の座にあるからこそ、たとえ小さな声であってもすくい上げ、それを実現化出来ます。与野党合意のための努力をすることは貴重な行為です。とはいうものの、一緒に運命共同体になってる自民党にあからさまに非を唱えたり、ここを変えたぞなどと言えるでしょうか。言えないからこそ、難しい。もはや私の主張など無い物ねだりなのでしょう▼今日から、国会が開かれます。参議院選挙が終わってからでも二ヶ月半が経っています。あまりにも長い議論の不在だったと言わざるを得ません。なぜもっと早く国会を開かなかったのか。夏休みというには学生ではあるまいし、いささか長過ぎます。先の台風で、千葉県を中心に、長期停電をもたらす悲惨な被害実態があったことは生々しい記憶です。組閣は延期をとの声が公明党にはあったはず。それがメディアを通じて聞こえなかったのは、残念なことです。これから始まる国会論戦で、せめて公明党ここにあり、と言わせるような質問を期待したいものです。あくまで攻める質問、国民大衆の側に立った質問を。

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嫌韓と親韓の間に佇むだけの存在を超えて

韓国をめぐる様々な問題がまたしても浮上、連日メディアを賑わせています。どれをとってみても解決不可能と思わせるほど難題に見えます。これから数回にわけて、日韓対立の奥底に横たわる「歴史認識」について考え、ことの成り立ちを追っていきたいと思います。まず、普通の日本人にとって韓国という国はどういう国なのかという点から入っていきます。今、私は普通の日本人という言い方をしましたが、これは嫌韓、親韓に偏らない、通常の学校教育を受けてきた平均的日本人という意味です。</p>
戦後生まれの私がことし74歳になります。純粋に戦後民主主義教育を受けて育ってきた団塊世代(厳密に言うと私はほんの少し前の世代です)の韓国、北朝鮮両国への認識は、「極めて遅れた国であり、まともな近代化をしてきていない国」というものです。朝鮮民族は、古代の昔から大陸の漢民族をはじめとする近隣の異民族に常に侵略され、隷属状態に置かれてきた哀れな人びとだ、との捉え方です。こうした認識が我々の世代に芽生え育まれてきた原因は、ひとえに日清戦争を通じて培われてきたものと思われます。清国の隷属下にあった朝鮮半島に生息してきた民族は、独立した存在ではなかったのです。それからすると、清国を倒し、ロシアも曲がりなりにも倒すに至った明治日本は、朝鮮など数のうちに入っていず、眼中になかったと言っていいといえます。日本帝国主義のもとに35年間にわたって植民地状態に置かれていた朝鮮に対する日本人の認識は、結局そういうところからくる優越感以外なにものでもないのです。

そういう日本に対して、朝鮮民族の側は、近代以前における、自分たちの役割を強調します。朝鮮半島を通じて大陸からの文明の流れが伝来し、その恩恵に日本は浴したのではないのか、と。かつては彼我の関係が逆転していたというわけです。過去の恩義を顧みず、豊臣秀吉以来の傍若無人的振る舞いの連続は許せぬとの感情があるものと見られます。先の大戦での日本敗戦までの35年に及ぶ朝鮮支配についても、屈辱の歴史としての負の側面を見るだけで、近代化助長という正の側面を見ようとしない傾向があります。というわけで、海を隔てて存在する半島と列島の関係は、相互理解が進まぬ不幸な間柄になっています。

日本と韓国は、隣り合って位置しているものの、内実は全く似て非なるもので、韓国、朝鮮半島こそ極東の存在で、日本はむしろ極西に位置するとの古田博司氏(筑波大教授)の主張があるのをご存知でしょうか。地球儀をどちらから見るかで、正反対に捉えられ、間に横たわる海溝は想像を絶する深さだというのです。これは流石に極端な見方でしょうが、ことほど左様に日韓の関係は難しく、修復不可能だとする捉え方が昨今のメディアを通じて流れる情報では、専らだと思われます。私は三年ほど前に、大学同級の小此木政夫氏(慶應大名誉教授)と対談し、『隣の芝生はなぜ青く見えないか』と題して、電子出版しました。彼は親韓の中心的存在と言えるかもしれません。嫌韓のトップを行く古田氏と親韓の中心的存在・小此木氏の間に立って、迷うだけの存在に終わりたくないというのが私の長年にわたって続く偽らざる思いです。

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夏の京都に安土桃山文化の源流を求めて旧友と散策

学生時代の友人H氏と、時に応じて京都、奈良の古都を散策する機会を持つことがあります。これまで16-7回ほど試みてきました。彼は既にこの辺りを優に350回を超えて回ったといいます。京都については、『京都検定』を取ろうかというほど詳しいのです。その彼から過ぎ行く夏を楽しまないか、と声がかかって、この24-25の二日間、京都旅に出かけてきました。この旅、単なる気まぐれの名所旧跡を訪れる観光ではありません。安土桃山文化の原動力の源には法華経があったことを探りたい、との明確な意図を定めた研修旅の趣きすらある有益な旅でした。その旅の一端をご披露します。(写真はホームページ『写真録』に)▼今回の旅は、広い意味での日蓮大聖人の京都での影響を探るという狙いを持って、彼は行程を企画してくれました。勿論それだけではなく、関係地域を訪問する合間に、別のテーマも追うよう手配をしてくれました。その結果、法華経に関するものと、それ以外に、鴨長明の方丈庵跡地、 崇徳天皇ゆかりの白峯神宮、そして両腕を若くして失いながら見事な人生を生き抜いた順教尼の仏光院(勧修寺の塔頭)にも行きました。二日間の日程は車をフルに使ってのものでした。法華経に関しては、長谷川等伯に纏わるものや、江戸の大詩人と謳われる元政上人有縁の地にも足を運びました。宿泊先は琵琶湖湖畔の大津市内のホテル。〝持つべきは友〟を実感する心洗われるひとときを体験出来たのです▼京都における日蓮大聖人の足跡は、5老僧の一人である日朗の弟子・日像によって辿ることが出来るようです。これまで私も殆どその辺りについては不確かでしたが、あちらこちらに点在する日蓮宗系の寺院は日像の獅子奮迅の闘いによって切り開かれたと位置付けられます。また、作家・安部龍太郎氏の名作『等伯』でお馴染みの、国宝『楓図』が展示される智積院を訪れ、具に本物を鑑賞できたことは大きな収穫でした。また、元政上人の菩提寺である深草の瑞光寺には今回が二度目でしたが、茅葺の本堂の落ち着き具合は、まるで懐かしい故郷の母屋に帰ってきたようで心和む佇まいでした。今回は隣接する同上人のお墓にも行き、名高い親孝行ぶりにあやかれるよう心正した次第です▼鴨長明の『方丈記』を読んで以来私は、ぜひ一度は庵跡に行きたいと思っていました。そこは想像にも増して深い森の中にありました。親鸞ゆかりの日野の寺院から山あいを登ること500mほど。訪れる人もない寂しい場所です。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まるかの有名な文章。記念の碑の前で、その中ほどに出てくる、「ときどき来たりてあひとぶらふ」10歳の小童を想像してみました。一方、讃岐の地に流され、無念の死を遂げた崇徳天皇の霊を慰めるべく、明治の御代になって鎮魂の思いを込めて作られた白峯神宮。今は蹴鞠からの連想で、サッカーの聖地となっている場所です。ことの発端が忘れられてしまう危惧から、複雑な心境にならざるを得ませんでした。また、17歳の年(明治38年)に養父の狂刀の巻き添えを食って両腕を失った女性はのちに仏門に入り、順教尼となって、口で字を書くようになります。その足跡を飾ったお寺で、彼女の仏そのものと言っていい慈母のようなふくよかで優しい顔を拝見しました。感動しました。そうした一連の旅の中で、H氏が語った法華経礼賛の言葉は、私にとって何にも増して嬉しいことでした。学生時代から50年。当時折伏を受けて、いきなり信仰の門を叩いた私。一方、紆余曲折を経て大いなる研鑽の末に、遂に今信仰の門前に立ち来った友。案内してくれる姿を後ろから追いながら、変われば変わるものと驚くばかりの思いがしたものです。

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「産経」インタビューでの私の提言の虚しさ

産経新聞8月9日付けに掲載された私のインタビュー記事(『改憲再出発』)をめぐって、世の中の反応は残念なことに殆どない。私のことをよく知ってくれている友人、知人(各紙記者を含む)30人ほどには予め掲載を知らせ、読んでくださるように伝えた。ほぼ9割ほどの人は絶賛してくれた。反対とか文句を言ってきた人はゼロ。1割くらいは、音無しの構え。ようやく22日になって、同じ産経紙の「阿比留瑠比の極言御免」欄で、「改憲消極論  山口代表にうんざり」との見出しの論考の末尾に、私の発言が二箇所引用され、「山口氏にはこの言葉を拳々服膺してもらいたい」と結んであった。予想されたこととはいえ、いささかの筋違い感は否めず、敢えて蛇足を付け加えたい▼先のインタビューで、確かに私は山口代表の憲法論議への姿勢に疑問を投げかけた。しかし、それは阿比留氏のように「改憲消極論」との認識からではなく、「加憲消極論」に対するものであった。阿比留氏は、加憲も改憲の範囲内と言うのだろうが、それでは厳密さを欠き、公明党への誤解を招く。改憲は全部変えようというもの。加憲は足らざるを補おうというもの。家でいえば、新築と増改築の違いか。改憲の自民党が加憲に擦り寄ってきたかに見えるのだから、つれなくするのは連立のマナーに反するのではないかということだった。連れ添って20年ー9条3項に自衛隊を明記するとの加憲については、改憲に絡めとられるから危険だとか、公明党は環境権、プライバシー権の加憲ならいいので、それ以外は話が違うなどと言うのは、結局は身勝手な我儘に見える▼ただ、その前に私が指摘したかったのは国会での憲法論議のいい加減さであった。山口代表が議論が足りない、もっと議論をと言われるのは、ちょっと違うのではないかという思いがある。国会での憲法論議のあり方、仕組みをそのままにしていて、議論が足りないと言うのでは百年河清を待つに等しいのではないかとの危惧を持つからだ。そこで、私は三つの具体的な提案をしたのである。阿比留氏にはこの点についても触れて欲しかった。この提案に耳を傾けてくれる政治家、政党、メディアはいないのか、との思いが私には極めて強くある。なぜ、私があの提案をしたか。今のままでは強引に憲法改正への発議を迫る動きと、それを拒否する反動的動きがぶつかるだけで、不毛の再継続になるとの恐れを抱くからに他ならない▼憲法を全面的に改正するのか。全く変えずに今のままでいいとするのか。それとも部分的に変えるのか。こうした点を国民は果たしてどう思ってるのかを予め察知することこそ大事ではないか。そのために事前に予備的に国民投票をする必要があるのではないか。また、今の政治家に本当に任せきれるのか。助けを外の世界に求めずともいけるのか、どうか。こうした観点に立った私の提案への賛否の反応が未だどこからもないのである。公明党内の路線の違いなどといった小さい問題ではない。お盆も明けて、国会も動き出す。近く関係者とも会って意見を聞くつもりではある。みんなだんまりを決め込まれるのでは、憲法論議に一石を投じたのではなく、外野席から紙飛行機を飛ばしたみたいだ。結局は大勢になんの影響ももたらすことが叶わず、虚しさだけが募っていく。

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坑道ラドン浴で過ごした真夏の三日間

暑い、あついを連発するたびに、涼しい森の木立の中で、川のせせらぎを聴きながら過ごせたら、どんなにいいかと誰しも思われるでしょう。私は姫路市北部の安富町にある日本で唯一つの坑道(元金山)でラドン浴が出来る富栖の里に行くことを思い立ちました。あそこなら単に涼むだけでなく、健康にもいい。一石二鳥にも何鳥にもなる。同じ行くなら、泊りがけで、と意を決して、近くにある宿泊施設ヴィラ富栖を四泊ほど予約(一泊5000円)したのです。選挙後しばらくしてのことでした。本を読み、書きかけて中断している回顧録の平成編を書くにもいい機会だと一人だけの夏休みと洒落込んだのです。富栖の里については幾たびか紹介してきましたが、旧友・亀井義明氏が運営(一般社団法人 全日本地域振興事業機構)に携わっています。もう10年ほどになります。設立する段階から相談に乗ってきました。大量の放射線は人を死に追いやるが、少量の放射線はむしろ健康にいい影響をもたらすーホルミシス効果です。坑道から沸き立つラドンの中で横たわったり、椅子に座って本を読んで過ごすうちに体内に取り込まれるラドンがひとの免疫を高める。ということから、様々なガンや生活習慣病などに悩まされる多くの人々がここを訪れるようになっています。私がこの度数年ぶりに再訪した時も、50人ほどの老若男女で賑わっていました▼偶々着替えのロッカールームで声をかけた人は小野市からのリピーター。既にここには55回来ているという70歳前の大腸と肝臓にガンを持つという男性は、「当初はガンを治したいとの思いが強かったのですが、ここへ来てから亀井さんの云うように、ガンも身の内、折り合いをつけながら明るく生き抜けばそれでいいと思うようになったのです」と涼やかな表情で語っていました。また、市内南部からという85歳の女性は、「これまで数回にわたってガンの切除をしました。未だいくつか小さいながらもありますが、気にしてません。ガンと共存するのが大切です」と、20歳は若くみえる元気な言いぶりで語ってくれました。亀井氏はこの10年、数百人を超える人々の相談に乗ってきて、医師、病院は万能でない、むしろここに来て、生きる希望を持つことで明るく元気になってガンと一緒に生きることにした人が多いと言い切ります▼1日目、2日目と坑道で午前、午後と合わせて3時間ほどゆっくり本を読み、夕方ヴィラに返ってブログを書くという生活をしました。3日目は、石見前姫路市長が静養と視察を兼ねてやってきたので、しばし懇談する機会にも恵まれました。また旧知の姫路に住む奥さんが乳がんだというSさん夫婦とばったり会いました。医師から余命2ヶ月と言われながらもう2年が経つのに、元気だといいます。亀井氏から「医師ががんだ、余命数ヶ月だと云ってもその通りにならない例は数多溢れています。あなたたちも〝がんもどき〟なんですよね」との言葉に大笑いしました。私は今お互いこうやって生きてるってことそれ自体が奇跡なんですよと持論を述べたしだいです▼3日目の夜は富栖の里から少し南に下ったところにある栃原に住む高校、大学とほぼ同期だった山本 祐三君の家にお呼ばれしました。東京から帰省中の娘さん夫婦との家族団欒の席に入れてもらったのです。あっという間に3時間が過ぎ、帰る時間になったのですが、楽しい語らいでした。ヴィラに戻ると、今月初めにインタビュー取材を受けていた産経新聞政治部から出稿直前のメールが届いていて、ゲラ直しに大わらわとなりました。「改憲再出発」というタイトルでの連載で、各党のOB議員から今の憲法審査会での議論をめぐる考えを聴くとの中身です。慌ただしく一方、友人知人に明日の産経新聞を見てくれるようにとメールしました。そうしないと誰も新聞記事など読んでくれません。夏休みの避暑地が一気に仕事場となってしまいました。友人宅で家族団欒の席に連なって里心がついたわけじゃあないのですが、もう一泊の予定を切り上げて、翌日昼過ぎには帰路につくことにしました。新聞掲載対応のためです。結局三泊四日の夏休みで、大した成果はなし。うだる暑さの我が家にまた帰ってきました。(2019-8-10)

 

 

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中国に帰る少壮の学者(ジャーナリスト)との別れの茶会にて(下)

李海さんとの別れの茶会のひとときでの語らいと、そこから得たものを私風に再現してみよう。彼の日本への留学、滞在は19歳の年から18年に及ぶ。もともと四川省の地方都市・眉山で生まれ育った彼は、遠く離れた日本に憧れた。勉学を通じて自分の運命を変えたいとの志を持ち、日本留学に挑戦した。最初は日本の中国・広島県福山市で一年半の間、日本語を勉強し、その後香川大学で法律を学んだ。そして、名古屋大学で日中比較文学、ジャーナリズムを研究する。博士論文(『日本亡命期の梁啓超』=桜美林大学北東アジア総合研究所から出版)に挑む間に、香港衛星テレビで働くようにもなり、東京支局長となった。結婚もした。そんな彼にとって、日本における最大の思い出は、名古屋大学での恩師・楊曉文先生との出会いと別れだという。この人のもとで一緒に研究をしたいとの欲求が敢え無く先生の急逝(2014年7月 享年51歳)によって潰えた。彼が博士号を取得した僅か3ヶ月後のことだった▼実はこのほど駐日中国大使になった孔鉉佑氏は上海外国語大学で楊先生とは同級生だった。先般大使就任の際にお会いした李海さんはお祝いの言葉を述べた。話題は楊先生のことに及び「若くして彼は逝ってしまった。本当に残念だなあ」としんみり述べられたという。哀愁が漂う表情でのツーショットになってしまいました、と私にその時の写真を見せてくれた。写真の二人に見つめられた私は、瞬時に楊先生になり変わったかのような錯覚をしてしまった。彼はこれから中国の貴州民族大学に向かう。そこで何をするのか。日本文学と日本事情を学生たちに教え、語る。意欲満々の表情を漲らせた。彼の地での様々な民族の若者たちが日本について学ぶとは素晴らしい。日中相互理解に彼ほど見合う教官はいないと確信する▼私は実は中国に過去に二度ほどしか行っていない。創価学会青年部第一次訪中団と公明党第十三次訪中団の随行記者としてである。もう40年ほど前のことである。以来行っていない。なぜか。中国への贖罪意識が否定できないからとでも言えようか。江沢民氏の「反日教育」や習近平氏らの「中華民族の栄光」と云った言動を見聞きすると、大袈裟だが、どうしても「中国の報復」を意識してしまう。そう語った私に爽やかな笑顔で「そんなことはありませんよ。もう総て終わっています」ときっぱり。〝一知全解〟というわけにはいかないものの、彼の懐の深さと巨大な国家・中国の多面性を改めて知る思いであった▼日本についてどこがいいと思うかと訊いてみた。平和で比較的安全で、安心なところだと指摘すると共に、「製品やモノの出来具合い、サービスや人間の修行に至るまで、皆が極めているかのように見える」ととても嬉しい言葉が返ってきた。いささか褒めすぎのような気がする。もちろん、厳しい見立ても。「だけど、もはや日本人にはワクワクする思いが持てないように思われます。特に若者にエネルギーが感じられない。東北の大震災とりわけ福島第一原発の事故は、日本の国家イメージを決するような重大な関心事だけれど、どうこれを解決していくのか。再チャレンジ可能な社会作りに向けて若者のエネルギー溢れる社会になってほしい」との注文は私の耳に、中国の山あいからのこだまのように切れ切れに響く▼私は「日本社会40年変換説」を改めて彼に説いてみた。明治維新から日清・日露戦争の勝利を経て、敗戦からバブル経済へ。さらにそれの崩壊から少子高齢化の極みへと負の時代が続く、と。興隆を続ける中国を横目に、漂流する日本の現状を語ることは、同じ時期に政治家だった私には、多額の借財を突きつけられたかのようでとても辛い。平成の30年は結局日本にとって変革が望まれながら、ついに全て先送りした「失敗の時代」だったとの認識を示す他ない。では令和の時代はどうなるのか。これまでの価値観を改めて、軍事・経済力はほどほどに、文化、芸術、教育に一意専心する国作りが必要ではないかとの持論を語った。米国との同盟関係を堅持するのか、中国との新たな交流に身を委ねるのか。アジアにおける日本の選択について訊かれた。それには、どちらにつくか、つかぬかではなく、真の自立国家として、巨大な米中両国家の狭間で狡猾に生き抜く逞しさを持ちたい、と。こう語り合って、春秋に富むいい友人を中国に持った喜びをしみじみと実感する。近い将来彼の地に行ってみたい。だが、私には残された時間はもうあまりない。(2019-8-5)

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中国に帰る少壮のジャーナリスト(学者)との刺激的な語らい(上)

香港衛星テレビ東京支局長の李海さん(37歳)を私が知ったのは、現役を引退(2012年12月)して、大分経った頃だった。浅野勝人さん(元内閣官房副長官・外務副大臣=元NHK解説委員)からお誘いを頂き、同氏が理事長を務める「一般社団法人   安保政策研究会」に理事として加わった最初の会合で、初めてお会いしたと記憶する。その際に、故中嶋嶺雄先生の著作選集(全8巻)をまとめるお手伝いをしていると、打ち明けられた。私が慶大在学中に、東京外語大からの講師だった同先生の教えを戴いてより半世紀。急逝された先生とのご縁を持つ中国人ジャーナリストと知って、一も二もなく親しみを感じた▼それ以来、中嶋嶺雄先生の追悼の意も込められた著作選集出版会を始めとして、折に触れて会う機会を持った。私が尊敬してやまない荻巣樹徳氏(植物学者・ナチュラリスト)を東京で彼に取材して貰う機会も作ったことがある。今も中国の奥地(タイやヴェトナム、ミャンマーとの国境沿い)でフィールド調査をし続け、多くの中国人の知己を持つ同氏。その時の李海氏について「中国人の中ではかなり柔軟な思考の持ち主ですね」と印象を述べたものだ。また、李海氏は創価学会本部を初めて訪ねた時に「女性が凛としていることが印象的でしたね」と述べたことも忘れ難い。そんな彼と、創価学会の池田大作先生と作家・王蒙氏との対談集『未来に贈る人生哲学』の読後感を語り合ったことがある。この本には心底から感銘を受けたのだが、彼も両先生の学識の深さに感動したという。ただ私はひとつ気になったことがあり、それを彼に訊いてみた▼王蒙氏は、中国文化大革命で新疆にひとたびは飛ばされ、また復活して文化相になるといった毀誉褒貶があることについてである。こうした変遷が日常的に起こり得ることなのかどうか訊いてみた。彼は、「中国の政治は指導者が変わるとやり方も変わるから、それを予め察知して避難したりしていると思います。大臣にもなり、天安門事件の前に辞めるなど政治的に巧みです。今でも次々にヒット作を出していることを見ても、共産党と文学活動にうまくバランスをとる極めて聡明な人物です」との答えが返ってきた。さらに、私はこういう王蒙氏のような立ち居振る舞いが出来る人は珍しいのか、そうでないのかを訊いてみた。それには、「文学の社会性を保ちながら、中国共産党とうまく付き合う文人は少なくないです。中国で生き抜くには知恵が必要であり、巨大権力との戦いには様々な戦術が必要ですが、王蒙氏の例は決して特別ではありません」との反応だった。曇り空から太陽が一気に光を放った時のように、大いなる刺激を受けたものである▼こうした彼との対話は主にラインを通じて行ってきた。一度食事を共にしたが、東京、姫路と遠く離れているだけに、たまに「安保研」で会うぐらいだった。そんな彼から、つい先日、「8月25日に中国に帰ることになりました。貴州民族大学外国語学院で勤務します」という連絡があった。慌てて私は上京の機会を作って、久しぶりに会う段取りをつけることにした。というわけで、李海氏と私の二人だけの「送別の宴」ならぬ、〝送別の茶会〟は8月1日の朝、東京駅ステーションホテルの喫茶室で行われた。次回はその模様を伝えたい。(2019-8-4一部修正)

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