Monthly Archives: 1月 2019

「安保」騒ぎに胸躍らせた中学生時代 (6)

【昭和33年日米安保条約改定に向けて第一回の日米協議。警職法改正で混乱。昭和34年11月全学連と労組員ら国会乱入事件。昭和35年1月新日米安保条約調印。同年6月に成立。この間、反対運動が空前の規模で。東大生・樺美智子さんの死。一方、U2型機スパイ飛行機事件。米ソ対決の空気高まる。同年7月に岸内閣退陣、池田勇人内閣へ。】

昭和33年4月に神戸市立垂水中学校に入学。入学式の日に満開だった校庭周辺の桜は忘れられないほど見事なものでした。塩屋駅から電車に乗ること10分、垂水駅を降りてから高台にある学校まで歩いて30分ほど、家から小1時間の通学は初めての体験。帰校時に垂水銀座の商店街にあった小さな書店に立ち寄ることが楽しみでした。若い夫婦二人が初めて出店されたもので、その熱心な仕事ぶりが子供心に印象深いものでした。後年、歳とった店主と思い出を語り合ったものです。

学校生活では、昭和35年に生徒会長に選ばれました。最大の思い出は、隣接する朝鮮人学校生とのトラブルを解消するために両校生同士で協議会を持ったこと。新聞に報道されるなど、チョッピリ話題になりました。昭和34年の伊勢湾台風を巡って校内弁論大会で二位に(優勝は女性徒)なったことも。また校庭隅に土俵が併設されたことを記念して、大相撲の立浪部屋一行が来校、記念校内対抗相撲大会が開かれました。取り組み中にある友人のマワシが外れ、大事なものが露出したことが忘れられない出来事です。瞬時、初恋の女性に自分のを見られた気がしたのは、切なくも面白い思い出です。

初めての英語の勉強に胸ときめかせ、必死に取り組み、親に録音機を買ってもらい勉強したものです。三宮のYMCAに行って学んだことも。おかげで発音には自信がつきました。一年時の担任が音楽、二年時が英語、三年時が社会を専門とする教諭でしたが、音楽だけが三年間を通じて評価が5にならず、悔しい思いをしました。しかし、卒業寸前に遂にオール5になったことは忘れられません。これはもう音楽の隅田先生のお情けだったと確信しています。

英語と数学は垂水におられた他校の先生のお家に行き、「家庭教師」をしてもらいました。特に数学は苦手な科目でしたが、清土和夫先生の人間味溢れる抜群の教え方で、そこそこ力がつきました。私含め4人の生徒(うち2人はすでに他界。勿論先生も)が到着する前に、机の上に鉛筆が綺麗に削って並べてあったことが鮮やかに蘇ります。

この頃テレビが我が家にも。それまで隣家の竹中恒夫邸(後に参議院議員=2期=になった日本歯科医師会長)に大相撲など見せて貰いにいっていましたが、それが自宅で見られる喜びたるや大変なものでした。また、我が家に泥棒が入る騒ぎがあり、母が縛られ幾ばくかのお金が取られました。勿論、新聞沙汰でしたが、危害はなく無事で安堵しました。更に父が伝染病に罹り入院するなど多事多難の時代でした。

昭和35年ー15歳となる中学校三年の頃は、日本中が「安保改定」で大騒ぎでした。当時反権力の象徴だった『朝日ジャーナル』を買って、読む真似をしてみたり、旺文社の大学受験講座のラジオ講座に耳を傾けもしました。昨今、作家・佐藤優さんが書いて話題を集めている『十五の夏』には遥かに及ばない私のかわいい背伸びの季節です。私の夏は家で海水パンツに着替えて、ジェームス山の家から一目散に塩屋の海岸に駆けつけて飛び込んだことぐらいです。

※中学校時代のことについては、畏友・志村勝之君との対談電子本『この世はすべて心理戦』(キンドル版)の中に、ちょっぴり書いていますので。

 

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姫路から神戸・ジェームズ山へ移転 (5)

姫路から神戸へ。城西小学校2年の12月に、神戸市垂水区塩屋町に引っ越しました。父が神戸銀行本店勤務になり、通勤が大変になったからです。昭和28年のことでした。ジェームス山と呼ばれる小高い丘の上にある新しい家は、瀬戸内海が見下ろせる環境抜群の良い場所にありました。塩屋小学校に転入、新しい友たちとの交流が始まったのです。

当時のジェームズ山は、私の家より上には北欧風の家が立ち並ぶ異国情緒たっぷりの町並みでした。外資系企業の従事者たちのために開発された地域で、今は随分と様変わりしてしまっていますが、部分的には往時を偲ばせる建物が散在しています。私の家のすぐ北はフランス人の住居でしたが、南側とを隔つ外壁が随分と高いうえに、横に伸びており、あらゆる意味で区別されていました。

昭和28年暮から昭和30年代いっぱいをこの地で暮らしたのですが、この期間は日本の占領期から一転して、高度経済成長に向かう助走期に当たります。みなと・神戸の最西部といっても垂水区は厳密に言うと、播磨最東部です。五国地域で構成されている兵庫県にあって、どこまでも私は「播磨人」と言える環境に育ったといえましょう。

塩屋小学校の4年間で最も思い出深いのは、駅前にあった貸本屋さんです。畳屋に併設されたここには子供向けのものを中心に多くの本が置いてありました。ここで私の読書生活の口火が切られたのですが、シャーロック・ホームズの一連の推理小説を(といってももちろん子供版ですが)、借りまくって読みました。ハトロン紙で包まれた表紙の手触りが懐かしく思い出されます。併せて、『野球少年』や『冒険王』といった月刊の少年雑誌の発売日を首を長くしながら待って、読んだものです。

姫路の時と違って、近所にあまり同世代がいないこともあって、畳の上で自分で編み出した野球ゲームや外壁のデコボコを利用したボール投げをやりました。つまり、ひとりでなにかと工夫して遊んだものです。〝三つ子の魂〟の喩え通り、今に至るまで、自己考案のゲーム化でひとり楽しむ癖が私には身についているようです。このホームページもその流れと言えましょうか。

小学校卒業直前に、母の勧めで無謀にも天下の私立灘中を受験しました。これは教育ママのなせる技というより、西部君という友人が受験するから一緒にという、バカ丸出しのおついで受験でした。見事に不合格。のちのち大学、就職、選挙とことごとく最初は失敗し続ける私の人生の軌跡の先鞭をつけるものとなりました。

※この頃の詳細は塩屋小学校同期の親友・三野 哲治君(住友ゴム相談役)と語り合ったキンドル版電子本『運は天から招くもの』に譲ります。

【昭和29年12月に、5期続いた吉田内閣から、鳩山一郎内閣が誕生。昭和30年(1955年)は政治的には、保守合同の時代でいわゆる55年体制(自民党1に対して日本社会党が2分の1の勢力)がスタート。翌31年には日ソ共同宣言。国連加盟。12月には石橋湛山内閣。3ヶ月だけ。翌32年2月には岸信介内閣が誕生】

 

 

 

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傷痍軍人の叔父に戦争と朝鮮特需を実感 (4)

【1946年(昭和21年)1月には国連総会開かれるも、次第に世界は米ソ対決の色濃くなる。1950年(昭和25年)には朝鮮戦争が勃発。特需景気。緊縮生活とスト頻発続く】

昭和27年4月私は城西小学校に進みました。父は出征したものの直ぐに終戦となり事なきを得ましたが、叔父たちは戦争の影響をモロに受けたのです。中でも3番目の父の弟(叔父)がフィリピンの戦闘で片腕を失くして帰ってきました。陸軍少年航空兵を志願した叔父は剛毅な若者でした。傷痍軍人として帰ってきた、かわいい弟を父は大変に心配したようです。戦後の混乱期に彼は鉄鋼のクズを扱う商売に岩端町で着手しましたが、それが朝鮮戦争特需で大いに当たりました。小学校1-2年の頃に、叔父の店の庭先には鉄鋼クズが山のように積まれ、活気を呈していました。かぎ型の金属製の片手を縦横無尽につかう叔父の姿が強く印象に残っています。

銀行員だった父は、仕事についての叔父へのアドバイスが功を奏したことの喜びと、サラリーマンでは到底味わえない叔父の稼ぎへの驚きの双方があったようです。叔父の姿を通して、小さな私の心に戦争の怖さと戦争特需なるものの実態がほの見えました。

この頃、母は「お前がお腹にいた頃は、お母さんは大豆ばかり食べてたよ」、お前の元気なのは大豆のおかげ、とよくいっていました。大豆に加え当時最大の栄養源は鶏の卵。生卵に穴を空けてチューチューと吸ったものです。特に、運動会の日や遠足の日など、〝晴れの日〟には、元気の源だと言って食べるのに大喜びしました。今では毎朝、納豆に半熟卵を載せて食べるのが日課になっていますが、その都度これが自分の体を形成してきた根源だなあ、と思い起こしています。

祖母に連れられて夢前町の伯母の家に行った時に、祖母が急死しました。これは幼心に今も残っている一大事件でした。思えば、のちに母の死にも立ち会えず、父の臨終にも間に合わなかった私にとって、今までの人生で肉親の最期に居合わせたたった一回の経験です。大人たち3人ほどが祖母を布団に移動させる際に、お尻あたりから一本の糸のような水滴が流れ落ちました。つい先ほどまで元気そうにしていた肉親が、あっという間に、物言わぬ冷たい存在になってしまうという経験は、冷厳な事実として今に印象深く残っています。(2019-1-17)

 

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占領期に姫路で少年時代過ごす (3)

昭和27年頃までの姫路での私の少年時代で特に印象に残っているのは、社会的事象でいうと、デモとの遭遇です。「吉田を倒せ、よしだをたおせ、ヨシダをタオセ」という掛け声の繰り返しが、私の記憶の中に鮮明に残っています。お城のすぐ西に位置する岡町の県道線脇の自宅の前で、私はただならざる騒音を前に立ち尽くしていました。ジグザグ行進をする大勢の労働者たちの辻井方面に向かう背中姿が、西の方に沈む夕陽と共に、今も浮かんでくるのです。労働運動の高まりを背景に、吉田長期政権への反発としてのデモだったのでしょう。当時は勿論吉田なる人物について、何故に倒されるべき対象なのかなど、知る由もなかったのですが、ある意味、私の政治との初対面でした。

人間形成の勃興期とも言える幼年期。地域に住む仲間たちとあれこれと遊んだ記憶が蘇ります。缶蹴り、馬跳び、ぺったん、S字や島型宝取り、釘さしなどなど。具体的に遊びの様相を文字で表現出来ないのがもどかしいほど独創的なものばかり、と今の私には思えます。例えば、馬跳びというのは、ひとりの立った子の股座(またぐら)に首を突っ込み、次々と何人もの子どもたちが数珠つなぎに首を入れ、それを後方から跳んでいって背中に跨るというものです。今の子供達の遊びでは考えられないほどのユニークなものでした。

裏山のてっぺんから特製の板敷で滑り降りる遊びなどもワクワクするほどの興奮を覚えたものです。二本の割り箸で練り飴をグチャグチャ混ぜながら見た紙芝居。屋根の瓦の上に立てかけた日光写真。レンゲ草を繋げて首にかけるレイ。小川沿いの草原や近所の工場の中での隠れんぼも。お好み焼きや関東炊きなどを食べた店の雑多な佇まい。あらゆる思い出が、頭にスイッチを入れた途端に、走馬燈のごとく蘇ってきます。

【吉田茂の総理就任は、昭和21年5月に。68歳。第一次吉田内閣。同11月日本国憲法公布。昭和22年総選挙で社会党が第一党に。片山哲社会党委員長を首相とする民主、国民協同党との三党連立内閣成立。総辞職後、芦田均内閣成立。昭電疑獄総辞職。昭和23年10月第二次吉田内閣以後、昭和29年12月総辞職まで5次に渡る。昭和25年朝鮮戦争勃発、警察予備隊の創設など、激動の占領期が続く】

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敗戦受け入れから100日後に誕生 (2)

【昭和20年8月15日に日本は連合国に降伏しました。一国滅亡といってもいい敗戦です。その日を終戦記念日とする言い方は間違いです。実際に、その日から、9月2日のミズーリ号上の降伏文書の調印が行われるまでの2週間あまりもの間、戦闘は続いていたからです。しかも、その日から日本は米国の占領下に置かれ、昭和26年9月8日にサンフランシスコ講和条約が締結(翌27年4月28日発効)されるまで、実質的に戦争は終わっていなかったのです。】

ー私が兵庫県姫路市で生まれたのは、日本が敗戦を受け入れた8-15から百日ほどが経った11月26日です。後年になって私は人様に対して、自分の生命は父と母の命がけの共同作業の結果として誕生した、としばしばいったものです。母がお腹に私の生命を授かったのは敗戦の年の初めころ。灯火管制のもと、真っ暗な中でまさに命がけで父母が抱き合った結果です、と。いささか冗談めかしているものの、両親の頭には「産めよ殖やせよ」との当時の空気があったのやもしれません。
子どもの頃に母からよく聞かされたのは、大きなお腹を抱えて、防空壕に入ったり、竹槍の訓練をしたということです。空から焼夷弾のケースが落ちて来て、危うく直撃されそうだったとも聞きました。姫路城から歩いて1キロ足らずのところに家はありました。銀行員だった父は、当時36歳。明治43年に夢前町で生まれ育ちました。その父が召集令状を受けとった時には、きっともうこの戦争は負けると思ったといいます。屈強な若者が周りからいなくなったからでしょう。母は当時29歳。大正6年生まれでした。この二人の結婚は、見合いどころか、文字通り写真結婚(昭和11年)です。結婚式当日までお互い見たことがなかったといいます。見合い写真と周りからの勧めだけです。母は文金高島田の角隠し姿で夫を見て、初めてその背が低いことを知ったと、笑って言っていました。私の上に、昭和12年生まれと16年生まれの二人の姉がいました。もうひとり兄に当たる子がいましたが、生後わずかな日数で亡くなっています。昭和25年に弟が生まれていますので、4人姉弟で育ちました。
母は十代半ばより姫路市内五軒邸の資産家の家に女中奉公に出ており、その家から嫁がせて貰ったといいます。貧乏な百姓家の次女でしたから当時としてはごく当たり前のことでした。花嫁修行をその家でさせて頂き、20歳で結婚したわけですが、母は死ぬまでこの家への深いご恩を語っていました。(2019-1-5)

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日本の敗戦とともにー1945年に生まれて(1)

はじめに

これから数年かけて私は自分の生まれた年から、今に至るまでの歴史を辿って行きたいと思います。つまり、時代の変遷を追う中で、自分がどう生きてきたかを可能な限り時代状況に合わせながら、かつ忠実に追っていきたいと思っています。なぜそんなことをするのでしょうか。一つは、自分の生きてきた証を時代の中で刻印したいとの願望です。永遠の生命を覚知することを目標にして生きてきた私ですが、この姿形、この人となりで生きてきた自分は死ねばひとたびは終わりです。であるがゆえに、拙いものではあっても自分のこれまで生きてきた生命の在りようを残しておきたいとの切なる思いがあります。もう一つは、かけがえのない生命を授かって生きてきたこの歳月は、まさに奇跡といってよく、その軌跡を残したいとの思いです。昨年、写真家の安藤誠さんが現代人は自分の生が日常の奇跡の連続だということの自覚がないという意味のことを言っているのを直接聞きました。動物たちと対話をし、その一瞬を捉えて映像にしてきた人だけあって、借り物やまがい物を拒否する峻厳さがその佇まいには漂っていました。私も自分の「奇跡の軌跡」を残したいと思います。以上、どこまでうまく表現出来るか分かりませんが、これからゆっくりと書き記していきます。(2019-1-2)

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