輝く受験浪人時代の昭和39年 (8)

【昭和39年(1964年)は東京五輪開催の年であり、東海道新幹線が開通した年でもある。のちに日本社会変革はここから始まったとも言われる記念すべき年。約8年続く佐藤栄作内閣もこの年の11月にスタート。世界的にはソ連・フルシチョフが失脚し、ブレジネフ時代へ。中国が初の核実験に成功した】

昭和39年初頭は大学受験に悉く失敗し、一年間の受験浪人を余儀なくされました。当時の心境はこれを機会に、翌40年の受験では東京へ出ようとの思いが強まっていました。甲南予備校という名もない寂れた予備校に通いましたが、ここは学生運動に片足突っ込んでる者やら、バイト生活に余念のない奴とか、受験高校出身はごく僅かという、要するにあぶれ者の集まりといったところでした。ここで受験勉強一筋とは縁遠い妙な一年を過ごしたのですが、親の脛を齧ってるだけの自分が恥ずかしくなり、夏以降は早朝に新聞配達のバイトをしました。せめて受験料だけでも稼ごうという殊勝な心になったのは、この予備校での友人たちの姿を見たおかげです。

一方、中学時代の友人の志村勝之君が東京へ出て、一橋学院なる予備校に下宿して一橋大学を目指したというのは発奮材料でした。よし俺も、という気にはなったものの、前途遼遠です。焦る思いを抱きながら机に向かった時に、近所に住むのちの宝塚歌劇の大スター・鳳蘭の歌声が聞こえてきたというのも不思議なことでした。彼女の母親とわたしの母が親しかったようですが、当人同士は顔を合わせたことはなく、彼女の大きな鼻歌めいたものを一方的に聞くだけで、遂に無縁のままでした。

志村君が夏に帰郷してきた時に、東京の話を聞かせてくれと、垂水の喫茶店で会いました。その時に、彼から下宿先のおばさんに創価学会の話を聞かされた(折伏を受けた)と打ち明けられました。彼は大学に入るまでは、と言って断ったとのことでしたが、「お前は将来入るのではないかとの予感がする」と言ったのです。数ヶ月後にその通りの展開になるのですが、この時はそんなことあるもんかと聞き流しました。

印刷したてのインクの匂いを嗅ぐのが大好きだったわたしは、必ずや将来は新聞記者になって記事を書くようになろう、出来れば、海外特派員になるんだと、未来への夢を育みました。それでいて、地に足つけた勉強は手につかず、高校時代から引きずった倉田百三『出家とその弟子』やら阿部次郎『三太郎の日記』などの文学や、実存主義の哲学などに興味を持って、松浪信三郎の『実存主義』や『サルトル』に手をつけたりしていたのですから暢気なもんでした。

 

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