両親との葛藤超えて、晴れて就職 (16)

勇気を奮い起こして、二人の友の勧めてくれるままに、U大先輩を訪ねたのは43年の暮れ近くでした。恐る恐る肺結核が治りましたので、公明新聞社入社をお願いしたいとの希望を述べました。「そうだったね。治したら言ってきなさいって。分かった」との返事。しばらくして無事に念願の就職が叶ったのです。

明けて44年4月。一般採用の人とは約二週間ほど遅れて16日に晴れて入社することになりました。ですが、実はこの日を迎えるまでに、まだ一波乱あったのです。

入社に際して親の承諾書が必要ということで、父に印鑑を捺して貰うべく実家に帰った時のことです。承諾書を前に、父は「ホンマにええんか。宗教団体の作った政党。しかもその機関紙局なんかに入って。記者するんか。まともな給料貰えるんかい。男は金がないのは首がないのと同じやぞ」ー銀行員一筋の父にとって、政党機関紙の記者という職業なんか想像の外で、およそ極道みたいなものという認識だったのです。長い沈黙が続きました。判こをなかなかついてくれないのです。じっと頭を垂れたまま、数分間。暫くすると、ぽたっと涙が承諾書の上に落ちました。渋々の涙ながらの承諾でした。

一方、母といえば、私が病気が治って、公明新聞に入ると聞いて、喜んでくれると思いきや、「そんなとこ入ったかて、人に言われへんやん」と見栄を張るのです。「新聞記者いうても、朝日や毎日、いや神戸でもええんやけどなあ」「いや、公明新聞かてジャーナリストの端くれや」「そんなんいうんやったら、NHKのアナウンサーぐらいにならんと」ー就職先が決まらずに困ってたのに、この言いようはない。カチンときましたが、仕方ありません。「そんなに言いとうなかったら、『潮』って雑誌の記者になったって言うとき。当たらずといえども遠からずや」という始末でした。ただ、母はその後私の就職に観念したのか、創価学会に入会することを決意してくれました。これで、二人の姉、弟につづき、父を除く家族全員を折伏することができました。

このことを先生にご報告しましたところ、「良かった。偉いね」と言っていただき、入社祝いにと、なんとマルマンハーレーガスライターをいただいたのです。嬉しいとともに、少々驚きました。肺結核が治ったばかりの人間にライターとは、タバコ吸えってことだろうかと、しばし悩みました。ユーモア溢れる先生のご配慮だ、意味があるに違いない、と考えた結果、これは「いいライターになって、いい原稿をかくことに命を燃やせ」との理解をすることにしました。

【昭和44年1月  東大安田講堂に機動隊出動 3月東大 東京教育大4学部入試中止。4月沖縄デー各地で集会、デモ。7月アポロ11号人類初の月面着陸に成功。8月大学法案強行採決。11月  佐藤・ニクソン会談(沖縄返還・安保条約堅持)】

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