入社3年が経つまでは、結婚なんか… (20)

入社3年間は記者としての基本を身につけることに全力を集中せよー市川主幹の私たち新入社員への厳しい指導でした。そんな中で、とりわけ印象深かったのは、文章における「書き出しの研究」という話です。書き出しの特色として「最初から読者に興味をもたせること、全体がスラスラと効果的に書き出せる糸口であること、主題の方向を暗示していること」などを挙げて、文章の書き方の手ほどきをしてくれました。ご自身が28歳の時に『編集研究』なる小冊子に書かれた以下の文章が、見事な実例です。

ーロシアの文豪・トルストイも「アンナ・カレニナ」の書き出しには、まったく手を焼いていた。こんな逸話がある。彼が書き出しに苦しんでいたころ、彼の育ての親ともいうべき大おばが死の床についた。(中略)  かくて「アンナ・カレニナ」の書き出しの一句ーオブロンスキイの家庭は何もかもがめちゃくちゃであったーが決まった。

グイグイ惹きつけられる書き出しです。この文章の副題には、「会社の受け付けが〝企業の顔〟なら 書き出しは〝文章の顔〟といえる」とあります。早稲田大学を出た後、日経広告社を経て、聖教新聞社に転職。29歳で公明新聞の編集長に抜擢されるまでのわずかな期間に、文字通り刻苦勉励の限りを尽くしての到達域です。また、それから3年後には『週刊言論』誌上に[言論講座]なる連載を書いています。「やさしい文章教室」とのタイトルで5回にわたって。①書くことによって読書と思索が完成②借りものの文章と自分の文章③模倣から自分の文章へ④主題の決定から構想を練るまで⑤文章はしめくくりが大切ー激務のさなかに書き残された大いなる遺産です。

「入社3年」といえば、もう一つの忘れられない市川語録は、「入社3年は結婚するな」です。言われずとも、相手もいないし、当時、結婚は考えていませんでした。だいたいからして、給料が初任給26000円。帝人に就職した親友の志村 勝之など、ほぼ50000円とのことでしたから、倍です。これでは私の方は、したくても出来ません。遠い昔に初恋の人がいましたが、高校卒業の時点で夢は破れていました。その後は人並みに好きになった人は何人かいて、それなりに付き合ったのですが、何しろ肺結核を病みましたので、それどころではなくなり、付き合うのはやめました。女性と別れるのは、会わなければ自然消滅する、とのどこかから仕入れた鉄則を遵守したのです。

そこへ、社会人になって職場の最高責任者から事あるごとに、3年間はお預けと言われると、従わざるを得ません。何事もないまま、2年が経ち、やがて3年という頃になりました。ある時、聖教新聞外報部の先輩・外川進さんから声をかけられました。この人は東京外語大出身のクレバーな人で、国会の中で仕事で一緒になる機会が幾度かあったのです。「君、付き合ってる人はいる?」「いいえ、今は特に」「そうか、じゃあ、いい娘がいるから一度紹介するよ」となりました。胸騒ぎがしました。物事はタイミングです。大先輩の〝お達し〟を守った頃合いの時に、良き先輩からの声がかり。約束の日が待ち遠しかったのはいうまでもありません。

港区青山一丁目の交差点の角にあるビルの二階。指定された喫茶店で待っているところに、先輩に連れられて入ってきて、前の椅子に座った女性を一目見て、もう本当に驚きました。大袈裟に言えば驚天動地とはこのことです。

【昭和47年1月 ⚫︎日米繊維協定  ⚫︎グアム島で元日本兵 横井庄一さん発見  2月 ⚫︎米ニクソン大統領訪中 ⚫︎連合赤軍  浅間山荘事件 5月 沖縄の日本復帰  7月  佐藤栄作内閣から田中角栄内閣へ 9月 田中首相訪中 日中共同声明(国交正常化)】

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