降りしきる大雨の中での結婚式 (21)

肺結核を私が患ったことを理由に付き合うことを止めていた女性ー児島慧子が目の前に座っているのです。別れてから3年近くが過ぎていました。24歳のはず。しばし沈黙が続きました。一段とチャーミングになっていました。首のアクセサリー(ネックベルト風)が目に迫ってきました。神の啓示、天の配剤とでもいうのでしょうか。その巡り合わせの妙に、偶然性に、ただただ感激したのです。児島の家は、創価学会の中野区北西部方面での拠点の一つで、昭和40年夏頃(私が19歳、彼女が17歳)、会合で行った際にその存在を知るに至っていました。消息が分からなくなっていらい、ひたすら、病気快癒を祈っていた、と。もはや、いうべき言葉はありません。数日後、長文の手紙を書きました。

結婚をしたいと、両親に報告すると、父は相手が東京生まれの一人娘ということに不満を抱いたようです。これでもう自分の元には帰ってこないのではないかという〝未来予想図〟に危惧したのでしょう。長男じゃあないか、と。明治43年生まれの日本男児にしてみれば無理もないことです。母は喜んでくれた、と思ってましたが、どうでしょうか。私が東京に行ってしまったあと、いつもその頃流行っていた歌ー「星影のワルツ」(千昌夫)や「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)など、どちらも別れがテーマーをひとり口ずさんでたと打ち明けられたことがあります。寂しかった、と。したがって、私の結婚話は心中穏やかではなかったに違いありません。(この二曲の歌詞、恋人同士のことなんですが、母と子に置き換えると‥。私は今もじーんときます)

仲人役は、職場の長・市川主幹が引き受けていただくことになりました。これまた不思議なことに、市川家と児島のうちとは些かご縁があったのです。一時市川家が中野区に移転されていた際に、奥様と児島の母とがそれなりに親しくお付き合いする関係だったといいます。

再会後、一気に結婚話が進む中で、この年の国際社会も、日本も激しい動きを増していました。とくに中国を巡って、電撃的なニクソン訪中が年明け後すぐにあり、日本にも大きな余波をもたらしました。昭和39年11月いらい在籍7年あまりに及んだ佐藤首相も、5月に沖縄が日本復帰を果たしたことをしおに退陣を余儀なくされるに至りました。7月に田中角栄首相が、文字通りブームと呼ぶに相応しい華々しい登場をします。日本列島改造論を打ち上げたり、9月に訪中し、毛沢東中国主席と会見、共同声明を発表。ついに日中国交回復が現実のものとなりました。

私の結婚式はそんな政治状況の中で、9月15日に世田谷区の砧区民会館で行いました。ところが、当日は台風が襲来。おまけにJR(国鉄)史上始まって以来のストの日に重なり、前途多難を思わせる最悪の条件のもとでの華燭の典になってしまいました。この日は「老人の日」で、結婚記念日は否が応でも忘れ得ぬ日になるだろうとの目論見は、違った意味で全くその通りになってしまったのです。「雨降って地固まる」とのスピーチは、「台風きたって地滑り落ちる」の間違いではないかと、恐れつつ聞いていました。

披露宴のあと、新婚旅行は信州方面を予定していましたが、何しろ電車がストのため動かず、断念せざるを得ません。披露宴のあと、同期の平子瀧夫、井関正晴両君らが八方手を尽くしてくれ、新宿京王プラザホテルを手配してくれました。物凄い風で揺れるホテルの34階の一室。身も揺れ、心も騒ぐ船出でした。結局新婚旅行に行けなかったことがその後の二人の人生に少なからぬ影を落とすことになります。

 

 

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