時代を画した共産党との「憲法論争」(24)

これまで述べた経緯の後に突然、日本共産党が公明党に対して、「公明党への公開質問状」なるものを、一方的に提出してきました。昭和48年(1973年)12月17日のことです。25問からなるものでした。これに対して、公明党は、翌昭和49年(1974年)12月8日に、全てに回答。さらに、同年6月18日、7月4日に二つに分けたうえ、連続して日本共産党中央委員会に対して「公開質問状」(憲法三原理をめぐる日本共産党への公開質問状)として、70項目200余問を提出しました。しかし、これに対して共産党は正式回答を一切せず、ずーっと回答回避の状態を今に至るまで続けてきています。最初は喧嘩をふっかけてきていながら、あとは完全なる腰砕けです。[この辺りについては『日本共産党批判』(公明党機関紙局編)及び『公明党50年の歩み』(公明党史編纂委員会)に譲ります。]

この「公開質問状」の作成いっさいを陣頭指揮し、実際にペンを握って書きまくったのは市川雄一主幹と、辺見弘さんらごく少数の先輩だけでした。入社5年程度の私なんかにはもちろん出る幕はなく、固唾を飲むように遠巻きにして見ていただけです。この憲法をめぐる問題の共産党への公明党の指摘は、のちに、東西両ドイツの壁の崩壊、ソ連邦の瓦解などをもたらした社会・共産主義の破綻を見るにつけ、先鞭をつけたものとして燦然と輝いています。

市川主幹はのちに、あの一年ほどの壮絶な闘いを振り返って  、共産党の知的欺瞞と、目を覆うばかりの知的退廃ぶりに全く驚いたと語っていました。「当時、共産党みずからが、マルクスやレーニンの著作を引用して熱っぽく訴えていたマルクス・レーニン主義の原則や革命路線は、いまどういう位置付けになっているのかまったくわからない。本を絶版にしたからといって、本は消えてもそこに書かれた内容が消えたわけではあるまい。間違っていたから捨てたのか。まさかそうではあるまい」(「第三文明」04年9月号)とも。

一方、多くの識者が極めて印象深い感想を述べていましたので、代表的なものの一部を紹介します。(肩書きは当時のものです)

「(この質問状を読んで得た私の印象は)従来日本の政党でこれだけ詳細かつ論理的に日本共産党を批判した党があるだろうかというものであった。感情的な反共主義に走らず、相手の資料を豊富に用いて相手の論理的矛盾を鋭く追求するというのが論争の正道であるが、この質問状はまさしくこの論争ルールに忠実に従っている」ー志水速雄 東京外語大助教授

「自分のもっていないものを、いくら約束しても、権力の座についてたとき、これを人民に頒け与えることはできない。だからこの質問状の質問に対しても、肝心なことに答えず、反共とか自民党の手先とか得意の悪罵と一方的なレッテル張りとで応じる以外にはないにではなかろうか」ー作家・杉浦民平

「公明党は、まさしくこうした国民多数が抱いている疑問点を、国民に代わって公然と、かつ徹底的に明るみに出したのである。ここに公明党の、公党としての責任感が認められるのである」ー勝田吉太郎京都大学教授

このほか、佐藤昇氏(岐阜経済大教授)や安東仁兵衛氏(「現代の理論」編集長)ら社会主義の名だたる論客たちがこぞって、共産党の敗北ぶりと公明党の勝利を褒めそやしてくれていたことが脳裏に蘇ります。

他方、この年、昭和49年1月9日に慶大会総会が開かれていました。あの日から、6年ほどが経っていました。会場は民主音楽協会(当時は大久保にあった)でした。これには幅広い卒業生からなる「三色旗の会」も代表が合流して参加し、私も。池田先生はご長男の博正さんをお連れになって出席してくださいました。慶應義塾創設者としての福沢諭吉を心から尊敬していると言われたのが強く印象に残っています。

【昭和49年  3月ルパング島で小野田寛郎さん発見 8月 三菱重工ビル爆破事件  ニクソン辞任  フォード昇任  12月 田中首相辞任、三木武夫内閣へ】

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