入社10年ー仕事場、中野青年部でも中核に(31)

早いもので、昭和54年というと、公明新聞に入社してから10年が経っていました。社から10周年を記念しての置き時計を頂いたのが忘れられません。これを機に同期の仲間を中心に記念旅行をしようと、伊豆半島の西海岸・戸田に行きました。平子瀧夫、井関正晴、菅井正昭君らです。平子君や菅井君は入社前は共に神奈川の学生部幹部、井関君は高等部副高等部長として活躍していました。学生部のグループ長だった私とは格が違う〝大物〟でした(他の同期の連中も皆幹部ばかり)。しかし、記者となれば関係ないと、私も頑張った甲斐あって、その当時には彼らと充分肩を並べる存在になっていました。ただ、平子君は神奈川・川崎市在住だったこともあって、市川さんの衆議院議員当選と共に、秘書になっていました。彼だけは入社8年で、違う世界に引き抜かれていたのです。

平子記者は現役当時、かねて映画評論家として名を馳せていた小森和子さんと取材や執筆依頼を通じて親しくなっており、彼女のアメリカ行きに同行するなど、文化部映画担当記者として鳴らしていました。公明新聞は政治報道もさることながら、今に至るまで、文化、学芸欄にも定評があり、のちに演劇評論家の山崎正和さんが公明新聞の文化性を高く評価してくれたものですが、私たち関係者にとっては大変な誇りです。当時は既に市川主幹は代議士として、新聞編集の現場からは離れていましたが、党機関紙局長としての実権は握っておられ、大所高所から睨みを利かせていたのです。

公明新聞社的には市川主幹の後を受けて、土師進さんが編集長で、陣頭指揮を取っていました。この人は大阪出身で、関西学生部の草分けです。市川さんを支えて八面六臂の闘いをされていました。後に衆議院議員になる田端正廣さんも同じ関西学生部出身で、二人は後輩の我々から見るとライバル同士。何かにつけて競い合う雰囲気があり、好ましくもあり、ハラハラする場面もありました。私はご両人それぞれから影響を受けて記者として成長することが出来たと自負しています。この頃は政策部というポジションで、党の政策を論じる仕事に奔走していました。

一方、組織活動としては、54年には中野区の男子部長から、青年部長になっていました。後任には漆原良夫さんが就きました。彼は弁護士で、見るからに大物然としており、後輩からも慕われる素晴らしい人材です。先に述べた村井さんが目をつけ、引き上げたという意味では私と同じ穴の貉で、何かと切磋琢磨する仲でした。後年、彼が私よりも遅れること二期程で、衆議院議員になり、国対委員長にまで上り詰めたことは、この頃は神のみぞ知るところでした。

【昭和54年(1979年)1月 米中国交正常化 5月 本州四国連絡橋、尾道・今治ルートの第三島橋開通 10月 第35回総選挙自民党敗北 12月 ソ連軍アフガニスタン侵攻】

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