Monthly Archives: 4月 2019

雑誌、小冊子『F』作りに汗をかく(45)

前回述べたように、昭和61年には社内人事で、理論誌『公明』の編集部に移動していました。部長は、平林朋紀さん。雑誌編集の経験豊富な大先輩です。雑誌作りの基礎から教えていただきました。日刊の新聞編集とは違って、企画性が重視されます。時々の時事課題を睨みながら、数ヶ月先のプランを立て、社内上層部のオッケーが出れば、書き手の学者、評論家にアタックしていきます。私も世に出て17年。かつてお世話になった恩師は勿論のこと、友人たちも学者の世界でそれなりの地位を築いていました。例えば、慶大時代のクラス担任だった小田英郎先生にはアフリカ論、高校同期で都留文科大教授になっていた岩見良太郎君(後に埼玉大教授)には都市計画などで原稿を書いて頂きました。

また、会いたいと思った文化人にもそれなりのテーマを決めて、取材や寄稿して貰う段取りをしました。中でも思い出深いのは画家の岡本太郎さんと作家の水上勉さんに「日本人論」を依頼したことです。原稿を頂く際に、束の間会っただけですが、岡本さんには永遠を感じさせるほどの眼力に圧倒されてしまいました。また、作家の水上勉さんとは、宮本輝さんと作風が似てることについて、あれこれお話し出来ました。

また、この年の初めには、社内で党勢拡大に役立てるために、新たに小冊子めいたものを作ろうとの機運が起こってきたのです。参院選が夏にあるため、いかにそこでの勝利を掴むか、編集局の腕の見せどころとなりました。そのプロジェクトチームには新進気鋭の連中が選ばれました。中島、梅沢、加島、赤星、和嶋、岡本、井出、小林といった何れ劣らぬ手練れの後輩たちです。このうち和嶋君は、慶大ハワイ総会で会った後、大手損保会社に就職が内定していたのを取りやめ、あつい心意気を持って公明新聞に入ってきていました。このチームの中心に私が選ばれたのです。公明新聞の2年後輩(歳は一緒)で、既にこの頃は創価学会本部の職員に移動し、全国男子部長の立場についていた太田昭宏さんが、〝友情出演〟めいたアドバイザーとして参画してくれました。

このチームは私にとって、ある意味で編集人としての集大成になります。色んなことがあり、まさにてんやわんやの舞台裏でした。私が最も力を込めたのは、このパンフレットのネーミングです。苦労した挙句、『F』とすることに決まりました。エフとは、そのものズバリ、友人・フレンドのFで、賛否両論ありましたが、私には由来に確かなる手応えがありました。実はそのあたりについて、少し後になって「北斗七星」欄に書いていますので、そのくだりを引用してみます。

ー小売業の繁栄にとって、かつてはP要素が重要だったが、新しい時代の消費や流行を左右する若者をとらえる際には、F要素が大事になってきているという。つまり、フィーリングが合えば、遠かろうが、高かろうが、少々は構わないという顧客の増大が、豊かさ、文化的雰囲気の向上につれて顕著になってくるというわけだ◆Fで始まる単語にはプラスイメージのものが多い。Friend、Fresh、Fortune、Funny、Fight、Flexibility(友、新鮮な、幸運、面白さ、闘志、柔軟性)‥‥といった具合に。しかもFの発音が、ほんの少し下唇を歯で噛んで軽く発音するという、日本語になく、アルファベットでもこの語だけ(Vは濁るところが少し違う)と、ちょっとシャレているのも、若者感覚に合いそうだー

実は、このあたりのことを私が気づいたのは、博報堂生活総合研究所の『タウンウオッチング』を読んだことに始まります。そこには「人が街を歩くと、時代の空気にあたる」とあり、商店街が支配される経済原理を『PFダイナミクス』と名付けていたことから着想したのです。

こう言えば、単なるフレンドの頭文字のFからとったものではない、とお分かりいただけるはず。ともあれ、このパンフの巻頭企画をどうするか。悩みに悩みました。そこで、当時人気のテレビ番組『笑っていいとも』に行き着いたのです。

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宮崎義一・市川雄一対談で軽井沢へ(44)

昭和58年の春4月に、一人娘の峰子は嬉しい事に東京創価小学校に入学していました。本人よりもどちらかと言えば、母親や祖母の熱心な願いがかなった形です。生まれた時に名付け親を池田先生にお願いして、つけていただいていました。おおらかで、明るい子に育っていました。住んでいたのが西武沿線の鷺宮ですから、学園までは一時間前後です。小学生にとっては、決して近いとは言えぬ距離でした。きちっと行けるかどうか不安でしたが、なんとか通い始めることになりました。

同期(8期生)には、私の先輩や同僚といった知人、友人の子供達が多く、私も珍しく出席した入学式ではなんだか妙な気分でした。池田先生が作られた学校に子供が通えることに、素直に親子共々喜び合ったものです。入学のための面接で、担当の先生から「毎朝、顔と歯を磨いてますか」と訊かれ、「ハイ」と微妙な嘘をついたのを、あとで母親から咎められ、「磨いてる時だって、あるじゃない」と開き直った子です。学校から家に帰って、カバンを玄関におき、そのまま遊びに行って、翌日、玄関に置いたカバンをそのまま持って登校するという離れ業を殆ど毎日やっていました。

昭和61年には、4年生になっていました。朝夕出会う鷺宮駅の駅員と親しくなったり、下校時に時々疲れてしまい、終点の西武新宿駅まで着いてしまって、また折り返すことがしばしばでしたが、最早そういうこともなくなってきていました。

この年の夏のこと、市川さんと私は連れ立って軽井沢に行きます。著名な経済学者で横浜国大や京都大教授を経て、当時東京経済大学教授をされていた宮崎義一先生の別荘を訪ねたのです。配属になったばかりの党の理論誌『公明』の仕事で、ご両人の対談を企画し、私が司会役ということで同道させていただきました。夏のこの地は最高です。清々しい空気を吸いながら白樺の生い茂った道を歩いて向かいました。

市川さんは初当選から10年。既に当選5回のベテラン。党の中央執行委員で副書記長、政調副会長、安保部会長などを兼務していました。事あるごとに、編集部の要請に応じて、『公明』誌上で識者との対談企画を引き受けてくれていました。この時は、宮崎さんが書いた『複合不況』という岩波新書を題材に、その背景などを語って貰おうということから実現したものです。わざわざ軽井沢まで行かずとも、東京か横浜で良かったのですが、そこはもう編集者としての気分です。折角だからと、避暑地を選ばせて頂きました。

編集部として、この宮崎さんの本を次のように紹介しています。
本書では、世界経済を①先進国②産油国③非産油途上国④共産圏の四グループに分けて、石油危機以降の現代経済の動向を分析している。構成は、❶ケインズ主義はなぜ新しい世界不況に有効性を失ったか❷発展途上国に供与された銀行ローンは貧困克服に寄与したか❸覇権国家の交替はあるか❹多国籍企業世界は地球の荒廃を救いうるかーの四テーマに答える形式になっている。随所に最新のデータがグラフや表として盛り込まれているうえ、ヒューマニスティックなタッチで危機的状況にあふ世界経済の抱える課題への処方箋が示されており、読むものの心を打たずにはおかない。

市川さんは、冒頭で「かつてマルクスが誰も資本主義を分析していないときにやったと同じように、この書では、世界資本主義の今日的分析を鋭くなさっており、まさに現代版「資本論」、久しぶりに知的興奮を覚え、大変な感銘をうけました。累積債務のくだりで、北が南を収奪する論理を明快に書かれているところは、とりわけ胸打たれました」などと過剰なくらい評価されています。宮崎さんも「そんなに言っていただいて感謝感激です」と受けていました。

まさに、今となっては〝遠い日の砲声〟ですが、学究肌の市川さんの面目躍如たるところが髣髴としています。あの日、二人の知性のぶつかり合いの現場を見た私は幸せ者でした。

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ある庭師との出会い。地区の最前線で奮闘(43)

創価学会に入会以来、学生部、男子部、高等部担当などの活動を続けてきましたが、昭和60年の秋には壮年部へ進出することになりました。39歳の年齢では当然です。女性の場合、結婚と同時に婦人部になるのですが、男性の場合は40歳前後まで若い連中と付き合い続けるわけです。関西から中野区に戻って3年ほどが経っていました。地元の鷺宮・大和町地域のある地区を担当することになりました。

それはもう緊張しました。老いも若きも男も女も、みんなまとめて面倒みなくてはなりません。それまでのように、広範な地域での若い男性だけの激励に走っていた段階からすると、全くの様変わりです。お年寄りの悩みや、ご婦人たちとの呼吸合わせなど、何もかもが初体験なもので、正直言っておっかなびっくりでした。どうすれば、この100人ほどになんなんとする人たちをまとめ、皆に信仰の喜びを味わってもらえるか。池田先生のご指導を地域の隅々にまで行き渡らせるにはどうしたらいいか。悩みました。

どんな人たちが自分の担当地区に所属されているかを把握するために、まず聖教新聞を配達する婦人部の皆さんと一緒に、一軒一軒回ることを思いつきました。3人の配達員と一日づつ、とりあえず三日に分けて、配達区域を回るのです。昔予備校時代に新聞配達をしたことを思い出しながら、拠点のお宅の前で、早朝の時間帯に待ち合わせました。その時の気分はまさに、舞台に初登場する役者のように、緊張したものです。その結果、どこにどういうひとがおられるかが朧げながらわかるようになり、また、今度の地区部長はやる気満々だとの評判もたちました。一石二鳥の効果があったのです。

そういう地域のなかに、鈴木明という昭和7年生まれの壮年がいました。当時53歳。私より13歳上。顔中皺だらけの小柄な人でした。植木職人の棟梁でしたが、若い時から酸いも甘いも味わい尽くした苦労人です。この人は信仰歴こそ浅かったのですが、いきなり目の前に現れた私のような新米地区部長を文字通り〝可愛がって〟くれたのです。

実に多彩な趣味の持ち主でした。少し前まではバイクを乗り回したり、馬の調教にも関わったといいます。いわゆる男が心得ておくべき嗜みの諸事万般に、一家言も二家言もある人でした。中野新橋で若い頃に鳴らしていたとかいうだけあって、私が知らない世界に滅法明るい人でした。それでいて、堅い世界にも関心があって、色んな分野の本も読んでいたのです。徳子さんという奥様も不思議な魅力を湛えた小柄で優しい人でした。鈴木さんと知り合って、ある意味で私の人生観に、微妙な変化が来し始めたかもしれません。ともあれ、彼は、庭師の棟梁というものは顧客のお宅の縁側で庭の木を見ながら、その家の奥様とあれこれ話をするのが大事な仕事なんです、と言ってたことが遠い記憶の底から蘇ってきます。

地区にあって、どう壮年部員を逞しくするかについて悩んだ挙句、私は彼を軸にして壮年懇談会を毎週開くことを思いつきました。夜9時から、二人がテーマを決めて対談する方式で、会合を進めるのです。時に時事問題であったり、日蓮大聖人の御書を通じての教学研究など多岐に話題は広がりました。その場に、未入会の壮年部員や普段会合にでたがらない方々を、婦人部の皆さんに連れ出して貰うことにしました。その時々の話題に応じて、スペシャルゲストスターをお招きして、話題に加わって貰いもしました。

中野区に住む旧知の薬科大学の教授や小学校の先生、知り合いのお医者さんや弁護士さん、また先輩幹部もお招きして、普段聞けない色んな話を聞かせて貰ったのです。この企画を通じて、ひとりの人が立ち上がれば、次々と人材は奮い立つとの原理を改めて確認出来た思いがしました。

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公明新聞コラム『北斗七星』担当者に (42)

【昭和60年(1985年)2月創成会結成 3月 ソ連、ゴルバチョフ書記長就任。3月 科学万博つくば85開催 6月 男女雇用機会均等法成立(翌年施行) 8月 中曽根首相、戦後初の靖国神社公式参拝 日航ジャンボ機墜落】

1985年(昭和60年)。公明新聞の一面下のコラム『北斗七星』の担当をすることになりました。入社してから16年目のことです。新入社員の頃から、新聞記者として、密かに目標にしていたことでした。とうとう自分が書けることになったことは、険しい山登りをした挙句、ついに頂上に到達したかのように嬉しい思いがしたものです。社説を書くことや人物をいかにうまく描くかということも大事な課題でしたが、コラムには、また別の味があります。二週間に一度のサイクルで回ってくる原稿書きに一意専心、頑張りました。

初めての機会は、10月27日付けです。私にとって記念碑的作品ですので、全文転載してみます。

今日から読書週間が始まる。ほぼ同時期に、二十一年ぶりの優勝に沸く阪神タイガースとこれを迎え撃つ西武ライオンズとのプロ野球日本シリーズが続く◆例年にも増しての喧騒の中、秋の夜長を読書で過ごすことは、プロ野球ファンならずとも困難を要することかもしれない。が、年頭の読書計画を全うするためにもここは頑張りたいところ◆活字文化から映像文化への傾斜が強まっているとはいえ、活字を通じての情報入手は、クリエイティブ(独創性)という点で圧倒的な強さを持つ。それだけに、読書を習慣とした人間は幸せだ◆作家・城山三郎氏は読書法を①集中豪雨型②交流・交易型③気まぐれ型にわけ、時に応じ、必要に合わせて駆使する。昭和二十八年から仲間五人で、日曜日の午後をつぶし読書会を必ず開いてきてるという城山氏のまねは到底できなくとも、せめて、気まぐれだけでなく、読書週間ぐらい集中豪雨的にまとめてどかっと読書にひたりたいもの◆限られた人生の持ち時間、読める本はたかが知れている、として計画だてて読むのをあきらめるか。だからこそ、寸暇を惜しんで読書に挑戦するか。どちらの生き方を選択するかで、おのずと人生の実りは違ってこよう◆横浜国大の岸本重陳教授は「大学生なら、ひと月に5千㌻は本を読め」と呼びかける。「それくらいの読書量を必要不可欠に伴うほどの認識渇望がなければウソ」(「世界」八五年五月号)という同教授は「学生の時でさえ五千㌻も読めないのだと、あとはどうなる」と厳しい。いつか世の中のことを「分かったつもり」になってしまった社会人の耳にこれは痛く響く(赤)

そこはかとなく教え諭すような上から目線が気になる文章です。実はこれ、予備校時代の原体験に基づいています。本屋での棚に並んだ膨大な書物を前に、ある友人と交わした会話ー本はこの世に読み切れぬほどあるのだから、まじめに読むのは諦めるか、だからこそ一冊でも多く読もうと、挑戦するかーが頭から離れなかったからです。あれから20年ほどが経って、この文章を「北斗七星」に書き、それからまた、35年ほどが経って改めて今読み直してみて、変わらぬ思いを抱きます。

本を読むことに執念を抱き続けた私は後年になって『忙中本あり』なるタイトルで読書録を出版するに至ります。これはまた、数多のエピソードをもたらすのですが、それを披露するのは後日のお楽しみということに致します。ともあれ、昭和60年という年は、私の「文章修行」にとって、一つのピークであり、新たな門出へのプロローグとなったのです。

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中国・大連の迎賓館での〝怖い夜〟(41)

若き日より新聞社の海外特派員になることが私の夢でした。それが曲がりなりにも、ついに叶うことになったのです。昭和59年(1984年)のこと、党の第12次訪中団の随行記者に選ばれたのです。団員の一人に市川さんが入っておられました。北京から天津、大連、上海、杭州、深圳という6都市を飛行機で10日間ほどをかけて飛ぶ豪華な旅でした。国会議員は市川さんのほかに、5-6人。秘書、カメラマンも含めて10人ほどの構成メンバーでした。

北京では中南海で、胡耀邦主席(後に総書記)に会って、豪華な食事をご馳走になりました。懇談の際に、私が神戸で育ったというと、胡耀邦氏はナイフとフォークを片手に併せ持ち、それを振りかざして、私は神戸に行ったことがある、と大げさな手振りで親しげに語ってくれたことがとても鮮烈な印象で焼き付いています。のちに彼が失脚してしまったことは残念でした。また、周恩来夫人の登頴超女史の邸に、案内していただいたことも大事な思い出です。ともあれ、中南海は日本で言えば、皇居と、総理官邸を合わせたようなところとでも言うべき場所で、公明党への温かい配慮が伺えました。

この旅の主たる目的は中国の経済特区として、初めてデビューした深圳の状況を視察することでしたが、この最終到着地までの各都市ではとても大歓迎を受けました。なかでも大連は未だ飛行場が建設に至る前の段階でしたが、『アカシアの大連』を彷彿とさせる街並みと、古くからの港街の雰囲気が印象に残っています。そして、そこで宿泊したのが、清の時代からの避暑地の名跡として知られた棒垂島飯店という名の素晴らしい迎賓館でした。

海辺で鬱蒼とした林の中にある建物。一人で歩くと迷ってしまうようなとても広くて入り組んだ佇まいです。宿泊したある夜のこと。市川さんから、夕食後に、自分の部屋で懇談しようと、誘われました。広々とした部屋で、ソファに向かい合って座って話をしていました。そのとき、どこからともなく、風がふわっと吹いてきて、カーテンがざわっと揺れたのです。

「おい、なんだか怖くないか」「えっ、怖い?単なる風ですよ」「こうも静かなときに、気味が悪いなあ」「そうですか?」「怪奇小説に出てくる場面でこんなのあったなあ」「小説読みすぎですよ。どちらかっていうと、私は人の方が怖いです」「いやあ、俺は人間は怖くない。怖いのは幽霊とか、おばけの方だ」ーそれまでもまれに、少年のような茶目っ気たっぷりの振る舞いをされ、笑ってしまうことがありましたが、この夜のできごとも印象深いシーンです。

この旅では、公明党の当時の委員長、副委員長、政審会長ら最高幹部たちと一緒でしたが、いわゆる「二階堂擁立構想」なるものが影を忍ばせていました。この構想とは、1984年に中曽根首相続投阻止のために、福田赳夫、鈴木善幸氏らが野党をも巻き込んで、自民党の二階堂進副総裁を担いでの政争を目論んだとされるものです。当時の私など知る由もなかったのですが、幹部たちは遠く中国にあって、永田町の状況が気になったと見え、情報キャッチに余念がなかったようです。同構想は結局不発に終わるのですが、党中枢への出番を待っていた市川さんにとっては、いささか気になる場面であったと推察できます。それを踏まえて、あの夜の「人は怖くない」との発言は、のちのち私には意味深長に聞こえてきたものです。

【昭和59年 (1984年)1月 全閣僚の資産一斉公開 4月 日米牛肉・オレンジ輸入割当交渉決着 8月健康保険法改正 10月 インド、ガンジー首相暗殺 11月第二次中曽根改造内閣 】

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様々な文化人たちとのあつい交流続く(40)

この頃(昭和50年代後半)の私は、仕事の上で知り合った作家、芸術家らとの交流を強めていました。小説家で、最も早くにお付き合いしたのは、源氏鶏太さんでした。それは古く昭和48年(1973年)のことです。直接の担当は、先輩の山本昭さんで、私は補佐役でした。売れっ子の直木賞作家ということで、何かと神経を使ったものです。公明新聞に掲載される連載小説は今に至るまで人気を集めるものが多いのですが、源氏さんがこの時に書かれたのは『時計台の文字盤』というタイトルのもので、この人らしいサラリーマン小説でした。

連載終了の時点で打ち上げをやろうということになって、源氏、山本のご両人と私の3人で銀座のクラブに行った時のことです。自慢ではありませんが、後にも先にもそういうところに行ったのはこの時だけ。源氏さんは着いて暫くすると、「僕は疲れてるので、ここでちょっと横になるよ。あとはおふたりで宜しくね」と言ったきり、少し離れたソファで休まれることに。残った二人は3-4人のホステス相手に悪戦苦闘。ナイスガイ・山本先輩は世慣れた人でしたから、うまく立ち振舞っていたようですが、私といえば‥‥もう。ご想像にお任せします。

作家の石川好さんとの出会いは、彼が処女作『カリフォルニアストーリー』(昭和58年=1983年)を書いてデビューした直後の頃です。新聞紙上で、欧米各国の余暇(レジャー)観を比較するとの企画を私は思い立ちました。対象国はアメリカ、イギリス、ドイツ、スペインだったと思います。石川さんにはアメリカについて書いて貰うことにしました。彼は、高校を出てカリフォルニア州に4年間住みます。いちご農園で働きながらハイスクールカレッジで学び、のちに日本に帰って、慶大の法学部政治学科を卒業するのですが、その在米体験を、二作目の『ストロベリーロード』としてまとめました。これが大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したり、映画化されるなど大当たりします。

実は彼がブレイクする前に、私は彼にアタックし、友達になったため、後々まで親しい関係になるのです。主たる研究テーマをアメリカから中国に移したり、参院選に出馬(「さきがけ」から)して落ちたり、秋田美術工芸短期大学学長になったり、民主党政権の顧問やら「北前船フォーラム」代表になるなど、あれこれと派手に活動を展開されました。その都度、それなりに連携を取り合いました。とくに、参院選には出るべきでないなどと、差し出がましいことを言ってしまいましたが、のちに、あんたが言った通りだったと呟いていました。民主党よりも公明党から出た方が良かったとは思いましたが、そうは問屋がおろさなかったのです。

イギリスについては、毎日新聞のロンドン総局にいた黒岩徹さん、スペインについては、『カディスの赤い星』で有名な作家の逢坂剛さんに書いてもらいました。この人たちとはそんなに深い関係にはなりませんでしたが、彼らの著作はほぼ読破するなど、仕事を通じて知り合った人の著作を読む習慣が身についていったものです。明治時代の作家・黒岩涙香は黒岩さんの祖父だとのちになってから知って驚きました。逢坂さんが次々とヒット作を飛ばして喜んだりもしました。自分が目をつけた人たちが活躍されるのは大変に嬉しいものです。

一方、直木賞作家というと、忘れられないのが中村正軌さん。受賞作『元首の謀叛』に嵌ってしまった私は、市川さんと一緒に、公明新聞に連載小説を書いて貰おうと交渉に行くことになりました。その時に聞いた彼の受賞に至る秘話めいた話は実に刺激的でした。日本航空・欧州駐在員の頃からの着想を日本に帰った後の通勤の満員電車の中で思い起こし、それを文章にしていったというのです。電車に座れていたら恐らく寝てしまって、書くに至ってなかったろう、と述懐していました。まとめたものは押入れに放置していたといいます。しばらくして、知り合いの編集者にその辺りのことを喋ったところ、読みたいと言われ、取り出す羽目になったようです。それが、これは面白い、いけるとなり出版の運びになり、結局は受賞の陽の目をみたんだ、と言われたのです。嘘のようなホントの話でした。

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参院選に著名文化人候補。学術会議議長を担当 (39)

昭和58年(1983年)の参議院選挙は、公明党が日本中をあっといわせることになりました。

選挙制度が、それまでの「全国区制」から、全都道府県を対象とする「拘束名簿式比例代表制」に選挙制度が変わることになりました。公明党はこの選挙の比例区において、著名な学者、文化人を「公明党・国民会議」のメンバーとして、登場させることにしたのです。参議院は結党前から「公明会」の名で進出しており、常に党の先駆を切る闘いをしてきた歴史があります。この年の参院選で、公明党が党員以外から候補者を投入、当選後も党規拘束をしない、との大胆な試みは日本中を驚かせます。

その候補者たちとは、以下の4人の方々です。まず伏見康治さん。原子核物理学者にして日本学術会議議長。日本を代表する科学技術者です。ついで高桑栄松さん。北海道大学教授で、国立公害研究所長。そして中西珠子さん。ILO(国際労働機関)東京支局長。さらに和田教美さん。朝日ジャーナル編集長を経て政治評論家。皆さん、各界における名だたる専門家であり経験者です。この人たちがそれまで無関係だった公明党から参議院選に出るに当たって、どう決断したか。なぜ出馬するに至ったか。印象深いのは、高桑栄松さんが、こう語っていたことです。

全く未知の世界に関わることで悩みましたが、かねてより様々にアドバイスを受けていた武見太郎全国医師会長に相談したところ、「党議拘束もなく、自由にやらせて貰えるなんて、ありがたい話じゃあないか。素直にお受けして、やってみろ。公明党って政党は、そのうち日本を大きく揺るがす存在になるかもしれないよ」と言われ、決断に至りました。

この4人の候補者を世に知らせるために、公明新聞として、それぞれ担当記者をつけました。私は伏見康治さんの担当になったのです。これまで全く知らない、およそご縁がなかった分野です。そのトップを取材するとあって、最初にお家に初対面に向かった時は、いささか緊張しました。緊張がほぐれたのは「折り紙」でした。伏見さんご夫婦は、折り紙の研究をされていて、いつも二人で折っている、とのお話と〝実演〟をしていただいたことには心和みました。

肩書きの厳しさとは違って、心優しい老科学者で、好々爺然とした穏やかで話しやすい方でした。顔写真を撮るという段階で、同行した鈴木カメラマンの行動には驚きました。伏見さんの身繕いやお顔の様子を真剣に見ていたと思うと、やにわに近づき「先生、少し髪の毛が」と呟いて、大科学者の頭をいきなりなぜなぜしたのです。これには、ビックリすると共に笑ってしまいました。

新聞紙上で、伏見さんを推奨する人々から「期待の声」を貰わねばなりません。先生ご自身に挙げてもらいました。大勢の著名な学者、文化人の名が挙がりました。その中から、元東京大学総長の茅誠司、作家の小松左京、絵本作家の安野光雅さんらから声を頂くことにしました。未開の領域の名だたる著名人に会えることは、取材記者冥利そのものでした。

安野光雅さんとの面談で、彼から概要こう言われたことが忘れられません。

選挙があるたびに、私のところにも、公明党や共産党の知り合いが支持依頼に来られます。両党を比較すると、公明党を応援されている人は、遺憾ながらあまり政治を勉強されている風に思えないですね。毎回、候補者の名前を言われるだけで、党の政策を訴えられることは殆どありません。一方、共産党の党員さんたちは実に良く政治を勉強している。その都度、とうとうと喋っていかれる。大したもんです。ですが、党の指導者は共産党よりも、はるかに公明党の方が魅力的で力のある人たちが多いね。

安野光雅さんの共産党との党員、リーダーの比較が果たして的を射てるかどうか。言い分は色々ありました。ただし、党員・支持者の「政治教育」という、かねがね気になっていたことをズバリ指摘されて、少なからず心中焦ってしまったことは否めませんでした。

【昭和58年 (1983年)1月 中曽根首相訪米 日本列島不沈空母化の発言問題化 3月中国自動車道全線開通 5月 日本海中部地震 6月 参議院選挙 10月 ロッキード裁判 田中元首相に実刑判決 三宅島大噴火 11月レーガン大統領、胡耀邦中国共産党総書記来日 12月 衆議院総選挙 第二次中曽根内閣 】

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再び東京へ転勤。仕事に活動に全力尽くす (38)

昭和57年(1982年)には、関西創価学会にとって極めて大事な「青年平和文化祭」が大阪・長居陸上競技場で、3月に行われました。その準備が進められようとしていた矢先に、私は東京本社への復帰の辞令を受けます。嬉しいような寂しいような思いでした。わずか1年半の短い期間でしたが、実に貴重な黄金の時間を得ることが出来ました。妻と娘にとっては、それこそ生まれて初めての関西・神戸での生活は、戸惑いばかりでした。塩屋幼稚園への入園式ぐらいしか行ってやった記憶はありません。相変わらず家庭を顧みない夫だったのです。

一方、男やもめだった老父にとって、嫁と孫との新生活は果たしてどうだったか。お互いニアミスで、ぶつかることのみ多かりき生活だったのかもしれません。未だに娘は「塩屋のおじいちゃんにはお箸の持ち方を何度も注意された」ということぐらいしかいいません。母方の祖父が本当に優しくて良く遊んでくれたのに比べて、厳しいばっかりの印象が残ってるようです。そうした束の間の交流、慌ただしい親子のすれ違いだけ残して私たちは神戸を離れ、再び東京へと戻って行きました。

東京での生活の始まる前、2月27日のこと。中野兄弟会総会が東京・立川文化会館で開かれます。第10回総会です。この地で開かれるのは昭和53年に続き2回目。その時と違って、またもや池田先生が出席して下さいました。前年の昭和56年の創価大学での第9回総会に続き、2年連続、合計で5回目のご出席です。この時は、兄弟会員の人の輪の中に入っていただき、あれこれと言葉を交わして下さいました。いかに人の名前と顔を覚えることが大変であるかについて、語ってくださったことが強く印象に残っています。先生も同じ人間なんだという、ごく当たり前のことを感じたものです。

この年、私は創価学会男子部主任部長として、島根県を担当することになりました。ほぼ一年近く、飛行機でこの地に通いました。羽田空港から出雲空港へ。かつて高等部担当幹部時代に東北、北海道に通いましたが、今度は山陰の地です。面白いことに、北海道で高等部長だった西村弘己さんが、故郷の島根に帰ってこの地の幹部についており、久々の再会になりました。ご縁の深さを感じたものです。お家にもお邪魔して泊めていただき、高等部員の育成に汗をかいたお互いの日々を懐かしんだりしました。松江から江津、浜田、益田へ。幾たびか日本海沿いの国道を走りました。松江城と宍道湖の美しさと豊かさは忘れ得ぬものが今も蘇ります。

山陰というたびに思い出すのは、公明新聞の一年先輩だった加藤雅寛さんのことです。快活で豪快、人懐っこさがいっぱいの人でした。中国青年部長として東京から移動し、華々しく活躍していました。しかし、気の毒なことに、広島から鳥取への指導行脚の帰途、無残にも交通事故に遭遇。即死されてしまったのです。広布途上においての悔いが残る、かけがえのない同志の急逝です。私は彼が果たそうとして叶わなかった仕事の一分でも引き継ぎごうと、同県内を動き転戦するなかで、心に密かに期したものです。

【昭和57年(1982年) 2月 ホテルニュージャパン火災 。日航機羽田沖墜落事故 7月 中国、歴史教科書の記述が日中共同声明の精神に違反と抗議(外交問題化) 平均寿命男女ともに世界の長寿国に 10月 歴史教科書記述の是正を表明。鈴木首相退陣 11月 中曽根康弘内閣 。上越新幹線開通(大宮・新潟間)】

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安保政策の大転換に立ち会えず(37)

昭和56年(1981年)という年は、公明党の歴史にとって画期的な年になります。というのは約4年かけて党内論議を進めてきた安全保障政策が、この年の12月に開かれた第19回党大会で発表されることになるからです。実は、昭和51年の第15回全国党大会で、当時の竹入義勝委員長が防衛問題の見直しを提言していました。その背景には、与野党伯仲状況の中で、自民党の単独支配に終止符をうち、野党の連合政権を作ることで、自民党に政権交代を迫る必要があったのです。しかし、現実には与野党の間で、安全保障政策を巡って、決定的な乖離がありました。そのため、交代の障害としての溝を埋めて、対外的政治の連続性を保つことが必要だったのです。

既に述べたような、私が記者として担当した、公明がhブリッジ役となった公民、公社の連合政権構想作りでも、この安全保障政策をどう擦り合わせていくかが焦点でした。自民党がなし崩し的防衛力拡大の指向性を持つ一方で、野党第一党・社会党には「非武装中立路線」といった非現実的態度があり、両者間に横たわる壁は相当なものがあったのです。これを調整する作業が延々と続き、野党間の議論を受ける形で党内論議の詰めに約4年の歳月が必要だったわけです。

この党内論議の中核として推進力になったのは、市川雄一党安保部会長でした。共産党との「憲法論争」で見せた、憲法9条を巡る透徹した思考力、構想力がここでも威力を発揮します。渡部一郎、黒柳明両氏を始めとした党内の少なからぬ安保論客にその主張を闘わせ、調整し、まとめていきました。私はこの大事な場面の展開にあっては、遠く関西の地にいたため、遠巻きにして見るどころか、全くの蚊帳の外だったのは残念なことでした。

結果としてまとめられた「公明党の安全保障政策」の特徴を一言で云うと、国際政治の厳しい現実の中で、いかに平和を守り抜き戦争を避ける道を貫くかとの、理想と現実とのギャップを埋める大胆かつ画期的な提案でした。このうち、第一章では世界平和を目指した平和戦略を掲げています。❶核兵器の全面撤廃と軍縮の推進❷現行憲法の擁護、日本の軍事大国化に断固反対❸非核3原則の堅持、アジア・太平洋の非核武装地帯の設置といった長期的目標です。一方、第二章では、短中期的展望を示します。❶「自衛のための力」は総合的安全保障の一環として位置付けるべき❷理想は理想として掲げつつ、あくまで現実を直視し、その上に実現可能な方途を提示する必要がある❸一国の安全保障政策は国民的合意に支えられたものでなければならないといった点が強調されています。

こういったことを前提として具体論を展開。私は当時関西の地で公明新聞紙上で発表になった時に強烈な印象を持ったことを覚えています。その最大のものは、「領域保全能力」構想でした。「現憲法下において、わが国の平和的存立を守るための自衛権は認められる」としたうえで、この憲法が認める自衛権の裏付けとしての「能力」について「領海、領空、領土の領域保全に任務を限定した領域保全能力が妥当」としたのです。そして、「この領域保全能力が公明党の合憲とする自衛隊構想」だと規定しています。

この政策については、当時、菊地昌典東大教授や蝋山道雄上智大教授らが、公明党は「分裂している国民世論をまとめあげようとしている」「これだけ大きな政策転換を行うということはまさに大変なことで、戦後日本の政治史上、特筆に値する」と大きく評価する声を寄せていました。大きな誇りを持ってこれを読んだものです。

【昭和56年(1981年) 1月レーガン大統領誕生。3月 神戸でポートピア81 開催 5月鈴木・レーガン会談 ミッテラン、仏大統領に 6月 中国、胡耀邦党主席に就任。7月陸海空初の総合演習 10月 エジプト・サダト大統領暗殺 11月ロッキード裁判で小佐野賢治に有罪判決 】

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ハワイでのSGI総会へ慶大会として参加 (36)

嬉しい知らせとは、ハワイへ行くことでした。第2回SGI(創価学会インターナショナル)総会に、慶大会の代表が参加させていただくことになったのです。それこそ夢のハワイへ、仲間たちと行けるなんて文字通りの夢のような出来事でした。SGIは昭和50年(1975年)年に発足し、第一回の総会はグアムで開かれていました。池田先生は名誉会長になられていらい、SGI会長として縦横無尽の闘いを展開されてきて、この時にも51カ国の代表の前で、講演をされています。

慶大会は発足の〝あの日〟から13年が経っており、その時に集った一期生に加え、六期までの結成がなされて、全体では200人に迫る陣容となっていました。広宣流布の人材を育てようと、先生は全国各地で大学会を結成され、その都度、指導、激励をしてこられたのです。そんな中、アメリカ・ハワイの地でのSGI総会に世界のメンバーとともに参加さていただけるとは、まことに果報者という以外にありません。私は関西・兵庫の地から喜び勇んで参加しました。この時の参加者は58人。当時4年生で学内委員長だった和嶋公男君と3年生の赤羽一嘉君が現役生の代表として参加していました。二人とも快男児で、若い魅力を発散させていました。和嶋君は山形・酒田出身。高等部時代に東北担当だった私とは縁がありました。ハワイでの再会は、後の彼の人生を私がグイと捻じ曲げるきっかけとなるのですが、それはまだ先の話です。赤羽君も就職してから、我が兵庫にやってくるのですが、それが彼の運命を大きく変えることになります。

出発は8月22日4泊6日の旅でした。宿泊先のホテルはワイキキビーチのすぐそばにあり、絶好の眺望を楽しみながら、束の間の遊泳にも興じたものです。三人一部屋の同室の仲間は岡山から参加の日笠勝之、舞鶴からの阿戸與志和の二人。三人とも1945年生まれ。但し、現役合格の日笠さんは、一級上の兄貴格。夜を徹してあれこれと語り合いました。在学中、我々は「第三文明研究会」という学内組織に所属して、互いに切磋琢磨していましたが、日笠さんは、その委員長だったのです。

その当時、三田祭(慶應大学内の学生祭)に同研究会として参加したのですが、日笠さんと、女子学生の責任者だった高橋敏子さんとのツーショットが話題を呼びました。高橋さんは当時慶大法学部のマドンナ的存在だったので、羨む連中が〝美女と野獣〟と囃し立てたものです。その後、高橋さんは弁護士となり、国際弁護士と結婚して、浜四津姓となって、大きく転身します。そして日笠さんも同じ舞台で、見事に羽ばたくことになるのですが‥‥。

総会参加後、ホノルル滞在中に、真珠湾に船で見学に行ったことは忘れられない体験です。アジア太平洋戦争における日本の敗戦の年に、この世に生を受けた私としては、その勃発の地に、開戦後ちょうど40年経って訪れたことに深い感慨に浸らないわけにはいきませんでした。皆で、「戦争の世紀」の20世紀から、「生命の世紀」の21世紀への担い手足らんと、決意を固めあいました。

現地の皆さんとの交流の機会にフラダンスを見せていただいたり、またホノルル島内最先端の岬にまでバスで行って、まさに360度の眺望を見たことなど感激以外の何物でもありませんでした。ただ、残念なことに、一歳年上の先輩で副委員長的存在だった木村靖治さんが、35歳の若さで2年前に急逝されていました。小柄ながら大胆かつユーモア溢れる人で、私は様々にこの人から啓発を受けたものです。ハワイには無念の不参加となったのですが、先生からホノルルにおける記念植樹(ウリウリの木)の提案があり、滞在中に皆で植えたのです。この木が育って行くことを楽しみに、皆の成長を確認し合おうということになりました。かくほどまでに慶大会のメンバーに熱い思いを持ってくださる先生に深く厚い感謝の思いを抱きました。

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