同日選の敗北と関西支局への転勤 (34)

実は、ハプニング解散の最中に大平首相が急逝してしまうのです。まさにダブルハプニングです。激務に生きる政治家の宿命ともいうべきものですが、志半ばの無念の死だったと思われます。私とは個人的には殆ど接点がない人でした。尤も、市川代議士がよく「赤松君の親父さんは大平首相に顏つきが似てるね」と言われていたこともあり、親しみは感じないでもありませんでした。私としては、親父は小柄だし、どちらかというと、福田赳夫さんに似てると思わないでもなかったのですが。まあ、どっちにしても両者とも男ぶりはパッとしません。ともあれ大平さんは、キリスト教の信徒として、また無類の読書家としてそのお人柄が好ましく思われていたこともあって、惜しい人の死でした。

この選挙は、まさに首相の命がけでの解散と選挙中の急逝ということから「葬い合戦」の様相となり、自民党が同情票もあって、衆議院で284議席、参議院でも69議席を獲得し、圧勝します。公明党は、社会、民社の間で、股裂状態に陥り、なんと衆議院では24議席も減らし34議席と大敗北、参議院も前回より2議席減の12議席にとどまりました。

選挙後の公明党中央委員会では、社会党の硬直した万年野党的姿勢への懸念が噴出、大枠「社公民路線」に対する疑問や批判が提起されました。こんな状況の中、私は
社内人事で関西支局への移動を命じられました。恐らく以前に要望めいたことを市川代議士(機関紙局長)に申し上げたのが、聞き入れて貰った結果と思われました。記者としての働き盛りのど真ん中で、都落ちすることには正直不安が胸中にこだましました。しかし、公明党大敗の中、出直しを全国で強いられるだけに、自分もそれに合わせて再出発を出身地の関西・兵庫からやろう、と不安を大いなる決意へと代えていきました。

関西創価学会男子部では関西副青年部長という重要な立場をいただきました。中央で主任部長兼任だったこともあるとはいえ、大いに緊張しました。西口良三関西長のもと、原田光治青年部長、大西正人男子部長以下、大阪の藤原武、京都の上田栄吉郎、兵庫の高田至郎さんら錚々たる7人の副青年部長の末席に加えていただきました。ここから私の〝関西魂〟獲得への厳しい旅路が始まります。

関西にきて一番の嬉しかったことは、大西正人さんが「お祝い」と称して、てっちりを、大阪ミナミのとあるお店でご馳走してくれたことです。庶民的なお店の構えと味は忘れがたいものがありました。この人は関西魂のかたまりのような人で、今に忘れ得ぬこういう会話をしたものです。「赤松っちゃん、君は関西男子部長と全国男子部長とどっちがえらいと思う?」「どっちかって?そりゃあ、全国男子部長でしょ」「いや、違う。そんなこと言ってるとあかんぞ。関西男子部長に決まっとるやないか」「‥‥」「先生との繋がりにおいて関西に勝る地域はないんや」

公明新聞関西支局も強者揃いでした。とりわけ支局長の福井常三郎、次長の浜西正利さんは凄腕の先輩でした。福井さんは何しろ、牧口常三郎初代創価学会会長と名前が同じ。その先生の著作である『人生地理学』を自己流で研究し続け、さまざまな機会にそれを皆の前で講義したことで有名だったのです。先輩の関西副青年部長ということもあり、兵庫在住の人ということもあって、時々一緒に車に載せて貰うなど随分とお世話になりました。また、浜西さんはかつて、池田先生と卓球をする機会があって、その際に先生に勝ってしまった、という〝剛の者〟でした。あらゆる機会に関西と池田先生との絆をこの二人を始めとする支局の仲間たちに教えて頂きました。

【昭和55年(1980年) 5月 衆議院、内閣不信任案を可決。国会解散。6月 大平首相急逝。初の衆参同日選挙(自民党圧勝)。7月 厚生省、男子平均寿命世界一を発表。鈴木善幸内閣。9月 イラン、イラク戦争。中国で趙紫陽首相就任。ポーランド自主管理労組「連帯」結成】

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