再び東京へ転勤。仕事に活動に全力尽くす (38)

昭和57年(1982年)には、関西創価学会にとって極めて大事な「青年平和文化祭」が大阪・長居陸上競技場で、3月に行われました。その準備が進められようとしていた矢先に、私は東京本社への復帰の辞令を受けます。嬉しいような寂しいような思いでした。わずか1年半の短い期間でしたが、実に貴重な黄金の時間を得ることが出来ました。妻と娘にとっては、それこそ生まれて初めての関西・神戸での生活は、戸惑いばかりでした。塩屋幼稚園への入園式ぐらいしか行ってやった記憶はありません。相変わらず家庭を顧みない夫だったのです。

一方、男やもめだった老父にとって、嫁と孫との新生活は果たしてどうだったか。お互いニアミスで、ぶつかることのみ多かりき生活だったのかもしれません。未だに娘は「塩屋のおじいちゃんにはお箸の持ち方を何度も注意された」ということぐらいしかいいません。母方の祖父が本当に優しくて良く遊んでくれたのに比べて、厳しいばっかりの印象が残ってるようです。そうした束の間の交流、慌ただしい親子のすれ違いだけ残して私たちは神戸を離れ、再び東京へと戻って行きました。

東京での生活の始まる前、2月27日のこと。中野兄弟会総会が東京・立川文化会館で開かれます。第10回総会です。この地で開かれるのは昭和53年に続き2回目。その時と違って、またもや池田先生が出席して下さいました。前年の昭和56年の創価大学での第9回総会に続き、2年連続、合計で5回目のご出席です。この時は、兄弟会員の人の輪の中に入っていただき、あれこれと言葉を交わして下さいました。いかに人の名前と顔を覚えることが大変であるかについて、語ってくださったことが強く印象に残っています。先生も同じ人間なんだという、ごく当たり前のことを感じたものです。

この年、私は創価学会男子部主任部長として、島根県を担当することになりました。ほぼ一年近く、飛行機でこの地に通いました。羽田空港から出雲空港へ。かつて高等部担当幹部時代に東北、北海道に通いましたが、今度は山陰の地です。面白いことに、北海道で高等部長だった西村弘己さんが、故郷の島根に帰ってこの地の幹部についており、久々の再会になりました。ご縁の深さを感じたものです。お家にもお邪魔して泊めていただき、高等部員の育成に汗をかいたお互いの日々を懐かしんだりしました。松江から江津、浜田、益田へ。幾たびか日本海沿いの国道を走りました。松江城と宍道湖の美しさと豊かさは忘れ得ぬものが今も蘇ります。

山陰というたびに思い出すのは、公明新聞の一年先輩だった加藤雅寛さんのことです。快活で豪快、人懐っこさがいっぱいの人でした。中国青年部長として東京から移動し、華々しく活躍していました。しかし、気の毒なことに、広島から鳥取への指導行脚の帰途、無残にも交通事故に遭遇。即死されてしまったのです。広布途上においての悔いが残る、かけがえのない同志の急逝です。私は彼が果たそうとして叶わなかった仕事の一分でも引き継ぎごうと、同県内を動き転戦するなかで、心に密かに期したものです。

【昭和57年(1982年) 2月 ホテルニュージャパン火災 。日航機羽田沖墜落事故 7月 中国、歴史教科書の記述が日中共同声明の精神に違反と抗議(外交問題化) 平均寿命男女ともに世界の長寿国に 10月 歴史教科書記述の是正を表明。鈴木首相退陣 11月 中曽根康弘内閣 。上越新幹線開通(大宮・新潟間)】

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