参院選に著名文化人候補。学術会議議長を担当 (39)

昭和58年(1983年)の参議院選挙は、公明党が日本中をあっといわせることになりました。

選挙制度が、それまでの「全国区制」から、全都道府県を対象とする「拘束名簿式比例代表制」に選挙制度が変わることになりました。公明党はこの選挙の比例区において、著名な学者、文化人を「公明党・国民会議」のメンバーとして、登場させることにしたのです。参議院は結党前から「公明会」の名で進出しており、常に党の先駆を切る闘いをしてきた歴史があります。この年の参院選で、公明党が党員以外から候補者を投入、当選後も党規拘束をしない、との大胆な試みは日本中を驚かせます。

その候補者たちとは、以下の4人の方々です。まず伏見康治さん。原子核物理学者にして日本学術会議議長。日本を代表する科学技術者です。ついで高桑栄松さん。北海道大学教授で、国立公害研究所長。そして中西珠子さん。ILO(国際労働機関)東京支局長。さらに和田教美さん。朝日ジャーナル編集長を経て政治評論家。皆さん、各界における名だたる専門家であり経験者です。この人たちがそれまで無関係だった公明党から参議院選に出るに当たって、どう決断したか。なぜ出馬するに至ったか。印象深いのは、高桑栄松さんが、こう語っていたことです。

全く未知の世界に関わることで悩みましたが、かねてより様々にアドバイスを受けていた武見太郎全国医師会長に相談したところ、「党議拘束もなく、自由にやらせて貰えるなんて、ありがたい話じゃあないか。素直にお受けして、やってみろ。公明党って政党は、そのうち日本を大きく揺るがす存在になるかもしれないよ」と言われ、決断に至りました。

この4人の候補者を世に知らせるために、公明新聞として、それぞれ担当記者をつけました。私は伏見康治さんの担当になったのです。これまで全く知らない、およそご縁がなかった分野です。そのトップを取材するとあって、最初にお家に初対面に向かった時は、いささか緊張しました。緊張がほぐれたのは「折り紙」でした。伏見さんご夫婦は、折り紙の研究をされていて、いつも二人で折っている、とのお話と〝実演〟をしていただいたことには心和みました。

肩書きの厳しさとは違って、心優しい老科学者で、好々爺然とした穏やかで話しやすい方でした。顔写真を撮るという段階で、同行した鈴木カメラマンの行動には驚きました。伏見さんの身繕いやお顔の様子を真剣に見ていたと思うと、やにわに近づき「先生、少し髪の毛が」と呟いて、大科学者の頭をいきなりなぜなぜしたのです。これには、ビックリすると共に笑ってしまいました。

新聞紙上で、伏見さんを推奨する人々から「期待の声」を貰わねばなりません。先生ご自身に挙げてもらいました。大勢の著名な学者、文化人の名が挙がりました。その中から、元東京大学総長の茅誠司、作家の小松左京、絵本作家の安野光雅さんらから声を頂くことにしました。未開の領域の名だたる著名人に会えることは、取材記者冥利そのものでした。

安野光雅さんとの面談で、彼から概要こう言われたことが忘れられません。

選挙があるたびに、私のところにも、公明党や共産党の知り合いが支持依頼に来られます。両党を比較すると、公明党を応援されている人は、遺憾ながらあまり政治を勉強されている風に思えないですね。毎回、候補者の名前を言われるだけで、党の政策を訴えられることは殆どありません。一方、共産党の党員さんたちは実に良く政治を勉強している。その都度、とうとうと喋っていかれる。大したもんです。ですが、党の指導者は共産党よりも、はるかに公明党の方が魅力的で力のある人たちが多いね。

安野光雅さんの共産党との党員、リーダーの比較が果たして的を射てるかどうか。言い分は色々ありました。ただし、党員・支持者の「政治教育」という、かねがね気になっていたことをズバリ指摘されて、少なからず心中焦ってしまったことは否めませんでした。

【昭和58年 (1983年)1月 中曽根首相訪米 日本列島不沈空母化の発言問題化 3月中国自動車道全線開通 5月 日本海中部地震 6月 参議院選挙 10月 ロッキード裁判 田中元首相に実刑判決 三宅島大噴火 11月レーガン大統領、胡耀邦中国共産党総書記来日 12月 衆議院総選挙 第二次中曽根内閣 】

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