「死んだふり解散」に振り回されながらも(46)

ご存知『笑っていいとも』は、タモリが司会したフジテレビ系で32年間(1982〜2014)もの長きにわたって放映され続けた人気番組です。この番組の企画を担当していた横澤彪さんを登場させようということになりました。コラムニストとして売り出し中だった泉麻人さんとの対談を考えたのです。打合せに行ったのは、公開番組の収録場所の新宿アルタ。出向いた時のことは忘れがたいです。エレーベーターで明石家さんまさんと一緒になったり、公開放送中の場面をついでに会場で見させて貰ったりしました。その日のゲストは女性スポーツ評論家の長田渚左さん。テレフォンショッキングの場面で会場にカメラが突然移動して、私が一瞬映ったとか。どうでもいいことですが、面白い経験でした。

このパンフ作りの過程は、まさに抱腹絶倒ものですが、これを全て公開することは残念ながら出来ません。当時のチーム仲間の間で、ばらすことはタブーにしているのです。皆墓場まで持っていくことにしたのに、キャップの私が今ごろ破るわけにはいきません。ただし、あまりに思わせぶりなのも何ですからちょっとだけ。キーワードの一つは、久里洋二(アニメ作家)さんであり、もう一つはゴジラだということぐらいは触れても、禁を犯したことにはならないでしょう。みんなごめんね。ともあれ、編集長としての私の能力はここまでが限界だと思うに至り、密かに後衛に退く決意をしました。

この当時の首相は中曽根康弘氏。就任以来、既に4年を超えており、世間的には飽きが来ていました。ただ、官房長官の後藤田正晴氏の名采配ぶりもあって、しぶとい政権運営を展開し、夏に予定された参議院選挙に向けて準備に余念はありませんでした。当時の政治課題は、一票の格差是正をめぐる公職選挙法改正問題でした。1980年に衆参同日選が行われ、自民党が大平首相の急逝ということもあり、大勝を博していただけに、〝柳の下のどぜう〟を狙うのではないかとの観測はありました。

しかし、公選法が改正された結果、その中身を世に知らせるためのいわゆる「周知期間」が30日あることから、同日選断念の空気が支配的になってきていました。後藤田官房長官の「この法改正で、首相の解散権は制限される」との発言も援護射撃の役割を果たします。ところが、5月27日に臨時国会を召集する閣議決定をし、6月2日の国会開会冒頭に、一気に解散を断行してしまうのです。

そのやり方たるや、強引の一言です。野党の反対で本会議場での解散詔書朗読が出来ないと見るや、衆議院議長室に各党各派の代表者を集め、そこで坂田道太議長が直ちに読み上げたのです。その結果、7月6日に衆参同日選が決まりました。このことについて、中曽根首相は後に「(同日選は)正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるので、解散は無理だと思わせた。死んだ振りをした」と語ったのです。このことから「死んだ振り解散」と呼ばれるようになります。

選挙の結果は、自民党の304議席という圧勝に終わりました。社会党は86議席の大敗北です。そんな状況にも関わらず、公明党は見事に57議席を獲得。自民党の地滑り的勝利の影に見失われがちのなかでも、しっかりと足場を固めました。この時の状況を私は7月20日付けの北斗七星で、こう分析しています。
「六十年代は、次の段階としての本格的な連立・連合の時代とみられた。しかし選挙結果は、自民党の圧勝で憲法改悪も可能にしかねない事態へと、大きな逆流をみせた。自民党圧勝の主原因は、衆参同日選というルール無視であり、挑戦者・社会党のひ弱さとみられる。社会党の『万年野党の代償』としての逆流をどうはね返すか。これからの三年という『時間の政治学』の持つ意味は大きい」と。

こうした状況を踏まえ、この年の暮れに公明党も大きく脱皮し、変身することになりますが、ついでに私の人生も信じられないような転回をすることになります。

【昭和61年(1986年) 5月 東京サミット開催 7月衆参同日選挙 第三次中曽根内閣 8月 新自由クラブ解党、自民党に復党 9月 社会党委員長に土井たか子(初の女性党首) 11月 中曽根首相訪中 伊豆大島の三原山大噴火 12月 国鉄分割民営化法】

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