慣れぬ秘書業にもがき苦しむ (48)

代議士秘書ーこれって本当に大変な仕事をする立場です。一般的には、就職の面倒を見ること、結婚の紹介から始まって、地元支持者からの様々な要求、それを受けての省庁への口利き、依頼、そして委員会での質問作りのお手伝いに至るまで、実に多彩な問題の処理能力が求められます。もちろん、事務所での来客応対、あるいは地元へ代議士の代理として出向いたり、挨拶をするなどといったこともあります。市川さんの場合も、勿論そういうことはありましたが、より大事なことは「呼吸」でした。口に出さずとも、何を代議士が求めているのかを事前に察知して、瞬時に動き、手際よく手配するといった、要するに織田信長に仕えた木下藤吉郎のように、気が利くことが求められたのです。

私のような自分に関わることには熱心ですが、他人のことに関しては愚鈍で、それでいて自分が目立ちたいというタイプは、まずこういう気働きが苦手です。あらゆる場面でヘマをやって怒られる日々が続きました。取材をして原稿を書いたり、議論して企画を練るっていう風なことは得意でしたが、秘書業には馴染めませんでした。よく言われたのは「お前は人の言うことを聞かずに直ぐに判断して、口に出してしまう。一度じっくり自分の頭と心で咀嚼してから、喋るんだ」といったようなことでした。
あまりにも自分の無能力さに、幾たびか泣きたくなるような日々が続きました。女性秘書の国谷さんに愚痴を聞いてもらううちに、夜が明ける日もあったのです。

そんな時、いつも思ったのは市川さんの奥さんや息子さん、娘さんのことです。つまり、この家族の皆さんは底抜けに明るくて楽しい。厳しい主人、怒る父親とうまくやってる人たちを自分も見習おう、と。新聞記者時代と違って、秘書業は、より関係が近いが故に、叱咤激励の厳しさが身に堪えました。今までの甘い関係が木っ端微塵に打ち砕かれたのです。

何しろ、代議士と一緒に動いていて、電車の網棚に置いたかばんを忘れてしまったり、宿泊先で寝坊をするということさえあったのですから、自分で言うのもなんですが、恐ろしい秘書です。それでも我慢して市川さんは付き合ってくれました。この人は通常はむやみに怖い人ですが、同時に時に子どものような茶目っ気もある人でした。選挙区の挨拶まわりに同行して横須賀に行ったときのこと。電車を降りて駅のプラットホームを歩いている時に姿が見えなくなり、困ってしまいました。なんのことはない、隠れんぼのまねごとをして、こちらが探していると、柱の影から出てきて驚かしたりするのです。

また、ドライシェリーのティぺぺがお好きで、よく相手をさせられました。その時に、自分の読んだ本の話を聞かせてくれ、意見を求められます。壁打ちと称して、ご自分が読んで頭に入った本の情報を、ひとたび口に出して、それを私にいい、反応を見ながら、より知識を確実に身に付けようとされていたのです。そういうひとときはまさに珠玉の時間でしたが、同時に場面が変わると、鬼のように変身されて、地獄の時間でした。私はいつの日か、そういう変化を見抜くよう心がけ、映画の文句ではないけれど、「逢うときはいつも他人」と心得て、最初は慎重にかつ神妙に対応し、折を見て楽しいムードだと判断すれば、スイッチを切り替えて大胆かつ親しげに応対すると言う風に、硬軟自在に切り替える技術を会得していったものです。

また、平子君が抜けた後に、秘書を探せとのことで慌てました。色々と考え動いた末に、和嶋君に的を絞りました。公明新聞に入社して6年。記者として油が乗ってこようという時です。無残にも私は若木を手折るように、彼を秘書にすべく説得してしまいました。心強い相棒の誕生です。二人は一回り違いの酉年。気は合いました。よく市川さんから二人して怒られて〝謀反〟を企てようとしたことも、ないではなかったのです。腐った気分を立て直そうと、二人で観に行った米映画『フルメタル・ジャケット』(米海兵隊の新兵しごきの場面が有名)には妙に共感してしまいました。

こういう風に秘書の初年度は過ぎてゆきました。ところが、またまた公私ともに大きな出来事、重大な変化が起きてしまうのです。

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