昼は秘書、夜は壮年本部長として(49)

この年、昭和62年(1987年)、私は中野区で壮年部の本部長という大事な立場をいただいていました。担当は鷺宮方面です。信頼し尊敬していた富岡さんの後を受け継ぎました。婦人部でコンビを組んだのは、時計店を営む小野沢徳三さんの奥さんの千代子さん。エネルギッシュでよく気のつく素晴らしい女性でした。ご主人は無類の優しいお人柄の信仰心厚い人でした。よく車の助手席に乗せていただき、区内を回ったものです。一年の短い期間でしたが、地区部長(副本部長兼任)をやったあとのことです。より大きな舞台で、責任ある立場で身が震える思いでした。

この立場で忘れられない思い出は、公明党の区議選において、支援母体側の責任者として、選挙支援活動の指揮をとったことです。候補者は西村孝雄さん。この人は東北大出身で公明新聞記者の大先輩。このとき48歳。満を持しての区議への転身をされて既に3期目。そういう大物を引き続き政治家に押し出す責任を担ったことは、本当に緊張しました。信仰の道に入って23年。先生と初めてお会いして渾身の激励をいただいてより、ちょうど20年目のことです。自分の全てを投げ打って、この先輩の4回目の当選に力を注ぎました。候補者の西村さんは、謙虚なお人柄のうえ、勉強熱心な方で、区議には惜しいぐらいの人でした。見事に当選を果たされたときは二人して抱き合って感激にむせんだものです。

翌昭和63年(1988年)6月。実に嫌な事件が発覚します。戦後最大の贈収賄事件とされるリクルート事件です。当時国会では、消費税(税率3%)導入のための税制関連法案が審議されていました。その真っ只中に、国民感情を逆なでする政治家の汚職事件が明るみに出されたのですから、大変です。リクルート社は同社のグループ企業の未公開株を店頭公開する前に、政治家、官僚、マスコミ、金融機関幹部にばらまいたのです。手にした連中はまさに濡れ手に粟の利益を得ました。この時には、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮沢喜一副総理兼蔵相ら数多い自民党の幹部が株譲渡の恩恵に浴していました。その責任を取って、のちに竹下首相は首相退陣に追い込まれます。この大事件、残念ながら公明党にも類がおよびました。池田克哉代議士らが翌89年5月に受託収賄罪で在宅起訴されることになるのです。

しかも、この事件で国民の政治家不信がまさに頂点に達しているときに、公明党を根底から揺さぶる一大不祥事が持ち上がります。矢野絢也委員長の明電工株取引疑惑です。これは、総額21億円もの巨額脱税事件で、逮捕・服役(懲役4年・罰金4億円)した節電装置メーカーの事実上のオーナーである中瀬古功との株取引にまつわる話でした。この事件は、明電工と他企業との業務提携発表を機に株価高騰を売り抜けて利ざやを稼ぐ、やはり濡れ手で粟の旨味を求めて政治家が群がったというものです。朝日新聞の一連の報道で、総額10億円にも及ぶ株取引の株購入者10人の名義人のなかに、矢野委員長とその秘書らの名前があったことが公になりました。本人は事実を否定したのですが、各紙が一斉に疑惑を報道するところとなり、やがて委員長辞任に追い込まれていきます。

市川国対委員長は、就任とほぼ踵を接して次々と起る党の幹部の不祥事に向き合うことになります。当時、そうしたことを何も知らなかった私は日中は秘書業に、夜は本部長として、走り回っていました。そんな、昭和63年(1988年)の夏にそれこそ驚天動地のことが起こってくるのです。

【昭和63年(1988年)3月 青函トンネル開通 4月マル優制度廃止 瀬戸大橋開通 6月リクルート事件 牛肉オレンジ3年後自由化で日米交渉決着 7月 自衛隊潜水艦が釣り船と衝突 8月 イラン・イラク停戦 12月 税制改革関連6法成立。竹下改造内閣】

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