いきなり不祥事のラッシュに直面ー平成元年(1989年)❷【2】

党首の不祥事露見で前途に暗雲

平成元年(1989年)という年は、公明党の歴史にとって最悪の年でした。何しろ党首の不祥事(明電工株取引疑惑)が露見して、辞任に追い込まれた(5月17日)のですから。かつて30歳代半ばに颯爽と登場し数々の実績を挙げてきた矢野絢也氏でしたが、長年の政治家生活で結局は庶民大衆の代表ということを忘れてしまい、健全な金銭感覚を失ったというほかありません。総選挙に向けて私が挨拶回りを始めた矢先に、頭の上から泥水を浴びせられたようなもので、誠に残念無念の極みでした。

実は、公明党をめぐる不祥事は、政界全体を巻き込んだリクルート事件での衆議院議員の逮捕者も出していました。おまけに、地元・姫路市の男鹿島の砂利船汚職でも参議院議員が逮捕(88年1月)されていました。加えて他にも党に叛旗を翻す輩が散出されるなど、結党から25年の節目を過ぎて、綻びが目立ってきていたのです。「政界浄化」を旗印にした大衆の党・公明党のイメージは一旦地に落ち、泥まみれになってしまいました。世間の目は、「公明党よ、お前もか」との厳しいものとなり、党の信用は大きく失墜してしまったのです。逮捕された人には、私が若き日に憧れた先輩たちもいました。なぜ彼らが堕ちてしまったのか。今に至るまで考える課題であり続けています。

5月18日に公明党は緊急の中央執行委員会を開き、石田幸四郎委員長、市川雄一書記長の新体制を決めます。翌19日の昼過ぎに急遽党県本部で開かれた議員総会で、そのことを私は知るに至ります。とんでもない時に市川さんは重職を引き受けられたんだなあと、思うとともに、我が身の前に横たわる受難の定めとでもいうような厳しい前途を予感したものです。

石田・市川新体制に都議選、参院選のダブルパンチ

この年7月23日には参院選が行われました。竹下登首相がリクルート事件の直撃を受けて退陣したうえ、その後を担った宇野宗祐氏が女性スキャンダルに見舞われるという自民党にとっても悪条件の重なる中での選挙でした。しかも、竹下首相が導入を決断した消費税上げも当然ながら有権者に評判悪く、三つの悪い条件が重なったのです。
その結果、この選挙では自民党は、36議席しか獲得出来ず、66の改選議席から30も減らしてしまい、非改選の73を合わせても109議席にとどまるという大惨敗でした。一方、野党側は初の女性党首となった土井たか子氏の人気やら、マドンナ旋風などで社会党は、改選議席21をなんと倍以上も伸ばす52議席を獲得しました。加えて社会党系の野党統一候補の「連合」の当選者も加えると63議席になり、非改選組22議席と合わせると85議席の大躍進です。

こうした状況の中で、公明党は「竹入・矢野」体制の積年の病弊を払拭すべく、「石田・市川」の清新なイメージで挑もうとしました。しかし、結果は選挙区は4議席、比例区は6議席と、共に1減となって10議席に止まりました。改選前と合わせて21議席になったのです。特に注目される比例区票は、前回に獲得した743万票から134万票も減らしてしまいました。参院選前の7月2日に行われた都議選でも、29から26議席に減らし、25選挙区中22選挙区で得票減という、厳しい結果となってしまっていました。

参議院ではキャスティングボート握る

ただ、この選挙は後々に至るまでの大きな分水嶺になります。これを境に参議院の与野党逆転の構造が定着してしまうのです。つまり、衆院で法案が可決されても、参院で否決されれば、両院協議会で成案を得られなかったり、衆院で出席議員の3分の2以上の多数で再議決されない限り(首相指名や予算、条約承認は除く)、いかなる法案も成立しないという全く新しい事態が生まれたのです。

この参議院の新しい状況の中で、公明党の21議席は大変な重みを持つことになります。予算を伴う法律案を提案出来るだけではなく、参議院で自民党が過半数に17議席ほど足りない構造の中で、キャスティングボート(決定票)を握ることになったのです。つまり、公明党の政治決断で日本の政治が決定づけられることになりました。泥沼に喘ぐ公明党でしたが、一筋の光明が差し込む画期的な展開の兆しともなりました。

人生万事塞翁が馬と言うのでしょうか、はたまた毒薬変じて薬となるとでも言うべきでしょうか。ともあれ、この平成元年はのちのち市川さんが「航海中にマストが折れたような」と表現したように、とてつもない逆境に直面しましたが、公明党は「疾風に勁草を知る」を生涯にわたって座右の銘とした市川雄一という人物を舵取り役に得て、見事に乗り切っていくのです。(続く)

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