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自衛隊員の母の切なる問いかけー 平成4年(1992年)【8】

危険な地に子供を行かせたくないとの親心

日本中が湾岸戦争からPKO法で大騒ぎになっている頃、私はせっせと地元挨拶回りを続けていました。そんな時、支援者の皆さんと懇談をしていると、ある女性から質問を受けました。「公明党は自衛隊を海外に派遣する法律作りに熱心だと聞きます。平和を守る党がなぜそんな危険なことに取り組むのですか」というものでした。実はその方のご子息が地元・姫路にある陸上自衛隊第三特科連隊に就職したばかりで、やがてPKO法に従って危険な地に赴くのではないか、と心配されていたのです。私は、それを聞いて、❶PKO は紛争が終わった後に派遣されるもので、決して戦地に行くのではない❷国際社会の中で、日本も平和を築くための責任を果たそうとする得難い試みである❸国を守る自衛隊という崇高な仕事は、単なる就職先ではないとの自覚を母親も持つべきーだというお話を真剣に語りました。

当時は日本中がPKOに対して理解がなく、朝日新聞を筆頭に新聞メディアも大々的に反対論をぶっていました。例えば、法案審議が始まった時点の91年11月の朝日新聞の世論調査では、PKF(平和維持隊)への自衛隊参加には、賛成30%。反対は58%でした。法案に反対する社会党などが、採決妨害のために参議院本会議場で「5泊6日」、衆議院の本会議場で「4泊5日」もの信じられないほどの異常な牛歩戦術をとったりしたことが否が応でも不安を煽っていったのです。こうした状況を真正面に見据えながら、公明党は「世界の中の日本、かく生きるべし」との信念のもと、先に述べたような党内議論を進めていきます。その空気は少しづつですが、姫路にも伝わってきました。

家族たちそれぞれの闘い

臥薪嘗胆の3年余りは私は当然のこと、家族にとってもそれぞれ歴史に残る日々となりました。娘は広嶺中学校での3年間とほぼ重なりますが、生来の明るさもあって、初めての土地ながら頑張ってくれました。その学校関係で多くの友人が出来、妻も育友会組織の役員として奔走するようになりました。また、ピアノ教師としてそれなりの稼ぎをもたらしてくれたり、創価学会婦人部の地域における合唱団のピアノ弾きとしてお役に立てたようです。また義母は、60歳を過ぎて東京を離れてきたので、知り合いがいないことから俳句の同人誌メンバーとなって、西播磨に住む皆さんとの交流が始まりました。この人は筋金入りの学会婦人部なもので、近所で家を建築中の現場で、働いている作業員に聖教新聞を購入して貰うべく働きかけた、と言います。相手は日照権問題などで文句を言われるのでは、と錯覚したに違いないと、笑っていました。大したものです。

地域の先輩たちのあつい支援

さらに、この期間に姫路と深いご縁を結ぶことができたのは、ひとえに学会幹部の皆さんのサポートのおかげです。西口良三、得田昌義、嵐 輝雄といった大先輩にはとりわけお世話になりました。また、藤田康子さんら婦人部幹部にも。とりわけ、婦人部の二人の幹部が市内で信号停車中に後ろから追突されて大怪我を負われた時は魂消(たまげ)ました。兵庫の地では、かつて選挙がらみで、候補者が亡くなったりする大事故が複数続いただけに、この時ばかりは候補者の身代わりになっていただいたのかと正直思いました。しかし、比較的軽く済んで、この地の宿命転換になったのではないかと勝手に思った次第です。

選挙戦の背後では、姫路市議会の先輩たち、とりわけ井上市郎、伊藤孝、難波功らの先輩には様々の手助けを頂きました。新井彬之さんの激しくも厳しい戦いを耐え抜いた強者たちはこの地の隅々にまでおられ、機会あるごとに激励されたものです。それもこれも落選したからこそ身に染みて有り難みを感じました。西口さんから紹介頂いたある大手住宅産業のトップが、「貴君は落選したからこそ興味がある。当選していたらあまり私は関心持たなかったよ」という奇妙な激励を頂いて、大阪北の新地のとある場所に連れて行って頂きました。これもまた懐かしい思い出です。(続く)

 

 

 

 

 

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知られざるPKO法をめぐるてん末ー平成4年(1992年)【7】

湾岸戦争の余波と騒動のてん末

イラクのクウェート侵攻が発端となって起こった湾岸戦争。それが引き起こした国際社会の混乱。各国にそれぞれ波紋をもたらしましたが、とりわけ日本への影響は大きいものがありました。第二次大戦から45年ほどが経って、吉田茂の軽武装・経済至上主義のもとでの〝国のわがまま〟が通用しなくなったことがはっきりしたからです。気がついたら世界第2位の経済大国。そのくせ、軍事的には自立国家とは程遠く、全てが米国任せ。そんなことでいいのか、との問いかけが内外から高まったのです。

前回までに見た様に、日本は「ヒト・モノ・カネ」での対応を迫られた結果、まず「90億ドル支援」という格好で、カネの面でのその場しのぎをしましたが、ヒトの面では、慌てて作った「国連平和協力法」では到底国内での合意が得られなかったのです。その代わりに、国連のもとに存在していたPKO(国連平和維持活動)に着眼しました。この経緯を追うと中道主義・公明党の真価が発揮された最適のケースだったことが明瞭になります。私は当時は直接参画できる立場ではありませんでしたが、後々繰り返し当時の責任者だった市川書記長から聞くことになりました。

5原則導入の見事な闘い

この問題は、発端となった「90億ドル追加支援」から、「PKO法成立」のゴールまで2年かかったのですが、まとめ役として自公民三党の幹事長、書記長がその任にあたりました。ですが、本来中心となるべき自民党の幹事長が、小沢一郎から小渕恵三、綿貫民輔氏と次々と変わっていったため、自ずから公明党の市川書記長が主導することになりました。90年11月8日の自公民三党合意覚書から、91年5月7日の確認を経て、具体的な法制化作業が進められたのですが、一貫して市川書記長がこだわったのは、「PKO参加5原則」を法律そのものに明記し、盛り込ませることでした。つまり、❶紛争当事国が停戦で合意し、停戦協定を結ぶ❷紛争当事国が、国連のPKO 部隊の受け入れを合意する❸国連のPKO 部隊の活動は中立を厳守する❹上記の原則が満たされなかった時は、PKO 部隊の活動を中断、もしくは撤収できる❺武器使用は要員の護身に限る、というものです。

この5原則を法律に盛り込んだことこそ、時の政府の恣意的もくろみや逸脱行為から活動そのものを厳しくブロックすることになりました。反対し続けた社共両党は、PKOを「自衛隊の海外派兵」だとさけび、海外で武力行使に巻き込まれ、やがて戦争に加担することになると国民の不安を煽り立てていました。それに対して、断固として不安を取り除くために固執した結果がこの5原則でした。

全党挙げて展開した大議論

公明党は、この経緯の中で衆参全国会議員が参加する国会対策委員会を頻繁に開き、徹底して党内議論を進めたのです。これがいかに凄まじいものであったか。外交、安保、内閣の三部会合同討議や全員国対委員会の他に、ありとあらゆる機関を使い全てのレベルで党内論議を重ねました。その場に参加できなかった私は、兵庫県選出の先輩議員たちの報告を聞くだけでした。ただし、自分の頭で自らの意見を述べることに徹頭徹尾こだわる市川さんの手法を知っているだけに、手に取るように想像できました。のちに幹事長になる冬柴鐵三さんも当初はPKO派遣に慎重だったようですが、市川さんの前では無残にも論破されました。忙しい折にも関わらず時々激励の電話をいただき、その際に先輩や仲間たちの発言の様子を伺い知ったしだいです。

この党内議論で鍛えられたからこそ、その後の公明党を率いることになる山口那津男、井上義久両氏らの存在に繋がったと言えると思います。逆に言えばその議論を知らない私のようなものは、自ずと党を担う本格的な資格に欠けたという他ないのかも知れません。この間の具体的な成り行きは、『公明党50年の歩み』の第11章に詳しいので、譲ります。これは多くのみなさんに読んで欲しいと思います。というのはPKOを巡っての経緯は、殆どのメディア、論者が上っ面しか見ていず、正しい評価をし得ていないからです。市川さんは後々のメディアでの論評について、ほぼ全てのものに対して「全く分かっていない。デタラメを書いている」と吐いて捨てるように言っていたことを思い出します。丹波實国連局長や有馬龍夫内閣外政審議室長ら、当時法案作成に直接当たった人たちのみが市川書記長の振る舞いぶりを正当に評価していると云えました。また、PKO研究の第一人者の香西茂京大教授や国際法の専門家たる大沼保昭東大教授(当時=故人)らごく少数の学者、研究者たちだけがその価値を知って後々まで宣揚してくれたことは記憶にとどめたいものです。(続く)

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大交通事故と隣り合わせだった危険な日々 ー平成3年(1991年)【6】

消えた「兵庫県議選候補」

世界も日本もイラクのクウェート侵攻に始まる湾岸戦争に注目している頃、私はせっせと西播磨4市6郡21町の地元選挙区をご挨拶に走り回っていました。姫路は生まれ故郷とはいえ、43年もの長きにわたって離れており、見知らぬ人ばかりでした。最初の選挙で一年間動きましたが、とても皆さんとの絆は強いとはいえませんでした。このため引き続き、連日連夜の挨拶回りが必要でした。そんな頃。落選した平成2年の秋、翌年の地方統一選挙で県議会に出ないかとの話が持ち上がりました。

最長4年の浪人期を過ごすよりも、県議になって支援いただいた皆さんに恩返ししようとの気持ちが強かった私は、地元支援母体の意向をお受けすることにしました。平成3年春の統一地方選挙の候補者として名前が上がり、候補者一覧にまで印刷されたのです。ですが、やはり衆議院選挙を待とうとの判断が党本部から下され、数ヶ月後、急遽取りやめになりました。この辺り、運命のいたずらとでもいえましょうか。運命といえば、忘れられないのは交通事故を巡る出来事です。

車を巡る事故相次ぐ

選挙期間中と違って、普段はどこに行くのも一人で車を運転せねばなりません。新井先輩からは大きい車の方が何かと都合いいぞって言われたのですが、40歳を超えて生まれて初めて運転する身としては、やはり小さい方が楽だと思い、軽乗用車を購入していました。慣れない運転で、私は幾たびか危機に瀕します。恥ずかしい限りですが、私の車の事故にまつわるケースをいくつか披露しましょう。

神崎郡方面を走って姫路に帰る日のこと。夜遅くに疲れたので、高速道路を走らずに通常の生活道を使って帰りました。翌朝、家内を助手席に乗せて、駅の方へ出る用事がありました。西行き三車線の一方通行の真ん中を走っていた時、突然車がガクンと大きく揺れて傾きました。道端に車を寄せて降りて見ると、なんと前方左車輪がぺちゃんこ。ホイールが地面につくぐらいまでになっているのです。パンクです。もし、前日に高速道路を走っていたら、恐らくはパンクで対向車か道路脇の壁に激突していたに違いありません。今でもゾッとするとともに、その幸運さに心底感謝しています。

幸運に恵まれ大事故免れる

また、宍粟郡一宮町で街頭演説を一人でやった後、姫路市内に帰ってくる時のこと。夕方でしたが、やはり疲れていました。この時は、幼馴染でのちに姫路市議になった丸尾勝君(当時は会社経営=故人)に提供していただいていた車を一人で運転していました。夢前町の南端あたりを走っていて、つい、うとっと居眠りをしてしまったのです。道路左側の土でできた橋の欄干にががっと擦ってしまいました。瞬間のことでしたが、慌てても遅く、車は動きません。降りてみると、左のヘッドライト部分が壊れてしまっています。弱ったと思っても今のように携帯電話もなく、呆然としていました。そこへ、偶々夢前町に住むいとこが通りかかったのです。車の上にはでかでかと「赤松正雄を励ます会」の名の看板がかけてありましたから、目立ったのが幸いしました。彼が近くの自動車整備工場の友人に助けを求めてくれ、シャーシの曲がってしまった部分の応急の措置を施してくれました。時速10キロぐらいでトロトロと帰ったのですが、これももし右側にハンドルを切っていたら、対向車に正面衝突していたはず。修復に43万円ほどかかりましたが、その幸運に胸をなでおろしました。

これ以外にも、脱輪してしまって、その場にいた近所の子供たちに助けてもらったり、信号が変わる直前に前の大きなトラックで赤信号が見えずにすぐ後をわたったところ、隠れていた警察官に信号無視で捕まったり、大小様々な事故は数え切れません。
このように、選挙に落ちた後も、思えば危ない道路を、危険な橋を幾たびか渡ってきたものです。(続く)

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「湾岸戦争」での公明党の驚異の粘り腰ー平成3年(1991年)【5】

イラクのクウェート侵攻に多国籍軍が攻撃

平成3年(1991年)1月17日ー米軍を中心とする多国籍軍がイラクへの攻撃を開始します。本格的な戦争の勃発です。実は、前年の平成2年8月にイラクがクウェートに侵攻し、全土を占領していらい、国連安全保障理事会は様々に動きました。イラク軍の即時無条件撤退を要求する決議を直ちに採択。従わないと見るや、経済制裁、海上封鎖、空域封鎖などを次々と実施したのです。それに対して、イラク政府はクウェートから強制的に連行した外国人を「人間の盾」として人質にするなどと発表、国連の度重なる撤退勧告をも無視し続けました。和平調停など含め一切応じないフセイン・イラク政権に業を煮やした米国は、英国をはじめとする同盟各国に呼びかけて形成した多国籍軍で攻撃したのです。勿論、武力行使を容認する安保理決議(678号)に基づくものではありました。「砂漠の嵐」「砂漠の剣」などと名付けられた作戦のもと、開戦から42日目の2月27日にクウェートを解放するに至りました。3月3日にイラクも敗戦を認めます。これで湾岸戦争はひとまず戦争そのものは決着を見るのです。ですが、その経緯の中で、日本にとって厄介極まりない問題が発生します。90億ドル追加支援問題です。

緊急対応迫られた日本、そして公明党

ことの発端は、多国籍軍がイラクへの攻撃を開始した直後、政府自民党が米国との間で、多国籍軍への90億ドル追加支援を勝手に決めてしまったことです。クウェートへのイラクの侵攻があった当初、日本は多国籍軍に対して、すでに40億ドルの支援を決めていました。それはどちらかといえば直接的な軍支援というよりは紛争周辺地域への経済支援的性格が強いものでした。ところが、この更なる巨額な追加支援は全て税金で賄おうとするもので、「戦費協力で憲法違反」との反発が一気に国民世論の間に燃え広がりました。左翼勢力の真っ向からの批判に対し、米国を中核とする多国籍軍べったりの政府自民党。この伝統的二極対立の構図の中で、第三の極として公明党の動向が日本だけでなく、世界中から注目されたのです。公明党は党内大議論の末に、「条件付き賛成」という決断に踏み切りました。この一連の動きはまさに驚異の粘り腰で、一気に国民的合意の流れ形成に寄与したのです。

4条件付き賛成への決断

湾岸戦争の本質は、国連決議に基づくもので、資金協力は、国連を中心とした国際秩序作りのためのものだと、公明党の論調は収斂していきました。市川書記長を中心にして徹頭徹尾の議論を展開する中で、以下のような条件を付与するべきだと、されたのです。すなわち、❶90億ドルの使途は武器、弾薬にはあてない❷全額増税で賄うのではなく、政府自らの歳出削減の努力で、5000億円ほどは増税を圧縮する❸国際的緊張緩和の中で、防衛費の削減を図る❹平成3年度の予算書の書き換え修正を行うーとの4条件です。これを市川書記長が衆議院予算委員会での2月5日の質問で、海部首相に全て飲ませたのです。正式には2月15日に衆参両院議員が参加しての拡大中央執行会議で決定するのですが、後々の公明党の政党としての生き方を決める実に大きい出来事でした。自衛隊が発足していらい初めてとなる防衛費の大幅削減など、転んでもただじゃあ起きないという政策の展開ぶりに、誰しもが驚きました。

表技と裏技とー興味深いエピソード

さらに、大きなエピソードがあります。この事態の渦中に当時のアマコスト駐日米大使との懇談の機会に、市川書記長は90億ドル支援を武器弾薬に使わないように、ブッシュ大統領に伝えて欲しいと述べたと言うのです。このことが恐らく効力を発揮したに違いないと見られることは、客観的な事態の推移から十分に推測できます。まさに乾坤一擲の興味深いアプローチを市川さんは試みました。日本が文字通り、のるかそるかの局面で、重く苦しい決断を迫られつつも、見事にやってのけたことになります。市川という人物は真正面からの壮絶な議論の展開ぶりと、それを一つの方向にまとめる力については他の追随を許さぬものがありました。だが、それに劣らぬ裏技の人でもあったことに改めて気付かざるを得ないのです。この戦いが後のいわゆるPKO(国連平和維持活動)法案成立へのプレリュード(前奏曲)だったのですが、公明党にとって疾風怒濤の戦いの日々の幕開けでもありました。(続く)

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「三極の中の一極」路線と『三国志』【4】❷平成2年(1990年)

冷戦終結と共に幕開けした「平成」

私が初めて選挙に挑戦した1989年、平成元年は、世界史的に見ても画期的な、まさに「革命」が起こった年でした。11月には東ドイツが西側への出国を自由化する国境の解放に踏み切り、ついにベルリンの壁が崩壊。年末には米ソ首脳が地中海のマルタ島で会談、冷戦の終結を宣言したのです。その半年前には中国で天安門事件が起こったり、ポーランドで共産圏初の自由な国会議員選挙が行われ、ワレサ率いる「連帯」が圧勝するなど、予兆とでもいうような出来事が発生していました。翌1990年は年明けから、ソ連が共産党一党独裁を放棄し、文字通り世界の激動が音を立てて始まったのです。10月には東西ドイツが統一し、ドイツ連邦共和国が誕生しました。

そんなある日、姫路市での街頭演説に応援に来てくれた渡部一郎党副委員長が涙をはらはらとこぼしながら、ベルリンの壁やソ連の崩壊に見る国際政治の革命的変化を感動的に語った姿は忘れがたく私の眼に焼き付いています。この大先輩は公明新聞の初代編集長であり、市川さんの前任者です。また、大雄弁家と云っていい人でした。大学一年の晩秋に初めて東京の台東体育館でこの大先輩の演説を聴いたのですが、感動に心底打ち震えたものです。私が直接聞いた政治家の演説で本当にうまいと言えるのは、贔屓目なく、この渡部先輩と同僚の太田昭宏元国交相の二人でしょうか。二人とも宗教の世界でも大をなした人で、人の心を掴む術は他の追従を許さないものを持っていると思います。直接私は聞いたことはありませんが、昔京都から選出された公明党のある議員の演説には弁当を持って聞きに行く人が大勢いたと言います。彼は往年の活動写真弁士だったとのことですが、一度聴いて見たかったものです。

中道政治の礎、示される

この年、公明党は二回にわたって党大会を開き、新しい時代に対応するための路線を確立するべく模索の作業を続けていきます。「米ソ対決の脅威」が変化を見せる中で、日本における自民党と社会党による「左右対決型政治」の行方を見定め、中道政治の存在感をどう高めるかということが最大の課題でした。ほぼ一年間の論議の末に、11月の29回党大会で、その後の方向、路線を決めるに至りました。

それは「中道主義の政治」を明らかにしたもので、理念と路線の双方からその実像を描いて見せています。まず、理念としての中道主義とは、〈生命・生活・生存〉を最大に尊重する人間主義だと定義づけしています。また、路線としての中道主義とは、日本の政治における座標軸を、ニュートラル(中立)な観点から果たすものだと位置づけしました。具体的には❶左右の揺れを防ぐ、偏ぱを正す❷左右対決による行き詰まり状況に対して、国民の合意形成に貢献する❸新しい政策進路を切り開くための創造的(クリエイティブ)な提言を行うーなど三つの役割を持つものだとしました。

国際政治における「米ソ対決」を、そのまま国内に投影したものとしての「自社対決」政治は、あらゆる場面で弊害をもたらしていました。そのため、左でも右でもない、もう一つの生き方を求める内外の欲求に応える必要があったのです。そこで打ち出された公明党の政治路線は、「三極(自民党、社会党、中道=公明党)の中の一極としての中道の主体性を発揮する」というものでした。この「三極の中の一極」路線は、市川雄一書記長が1989年9月に提唱したことが発端ですが、背景には、創価学会の中における文化としての「三国志論」があったことは否定できません。大きな二つの勢力の狭間にあって、一番小さな塊が事の次第を決して行くというロマンとでもいうべき思考法が存在していました。すなわち、三国志の中の諸葛孔明や劉備玄徳に率いられた蜀という最も小さな存在に、公明党をなぞらえて、自民、社会党の二大勢力をあたかも魏、呉の両強国に見立てて、その行く末に胸を焦がし大いに意欲を燃やしたのです。

先輩、仲間の活躍を横目に

市川さんのそばで記者として、秘書として薫陶の一端を受けた身として、表舞台に躍り出た大先輩の活躍を、当時私は遠い播州の地で感慨深く見ていたのです。選挙で一敗地にまみれた私としては、当選した仲間たち(今の山口那津男代表以下、井上義久、北側一雄、石田祝稔氏ら11人)の姿をただただ羨ましく見ているだけでもありました。そんな時に、市川さんから電話で、「今は地元の支援してくださる方々とあつい絆を築く時だよ、当選したら中々そういう時間はとれないのだから」と激励を受けました。この言葉を胸に、せっせとご挨拶回りを繰り返していったのです。

この年8月、イラク軍がクウェートに侵攻するという事態が発生。このことがその後の世界を震撼させる一大発端となっていきます。(続く)

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初の衆議院選挑戦で次点に泣くー平成2年(1990年)❶【3】

消費税が再び問われた衆院選で

平成2年はまさに選挙モードで幕開けしました。1月24日に解散、2月18日の投票です。この選挙で問われたのは、またしても「消費税の是非」でした。1988年に消費税法が成立、翌1989年4月に現実に3%の消費税率上げが初めて実現したのですが、それを同年7月の参議院選挙に続いて、再び衆議院総選挙でも問うというものでした。時の首相は海部俊樹。立ち向かう野党のリーダーは土井たか子。前年の参院選で「山が動いた」という名セリフを吐いて、土井社会党は大勝利しただけに大いに波に乗っていました。

その結果は、自民党は18議席減らしたものの、286議席の「安定過半数」を獲得しました。一方、野党は社会党が86議席から139議席を確保する大勝利を博しましたが、公明、民社、共産の中間的位置の政党はいずれも議席減となったのです。中でも、公明党は、56議席からなんと11議席も減らし、45議席となりました。この選挙に公明党からは新人が15人もでたのですが、当選は11人。4人が落選。そのうちの一人が私だったのです。現職11と新人4を落としたのですから、文字通りの大敗でした。

この私の初の選挙は2483票差で次点。後藤茂、松本十郎、河本敏夫、戸井田三郎に続いて5番目だったのです。戦った相手は何れ劣らぬ強豪でした。河本は派閥の領袖で元経企庁長官。加えて選挙の半年前の平成元年8月の内閣改造で、戸井田が厚生相、松本が防衛庁長官の座を射止めていました。同じ選挙区から2人の大臣です。「赤松が怖くて大臣の肩書き取りに躍起になるのか」と強がりを云ったものの、現実の効力たるや凄いものがありました。社会党の後藤は筋金入りの文人政治家。同党の中でも異色の存在でした。全くの新人が勝てる相手達ではなかったといえます。

走りに走り、叫びに叫んだ末に

前年の2月の記者会見からちょうど1年、選挙区の4市6郡21町を歩きに歩き、走りに走りました。少人数の懇談会で地域の皆さんとお会いした際に、なるべく写真を撮るようにしましたが、これは今も私の宝物となっています。また、私の親族はこの地に多く、いとこやはとこ、その嫁やこどもといったように片端から挙げていくと優に500人を超える人びとがいました。父母は既に他界していましたが、双方の叔父、伯母を始めとして、いとこたちは健在でした。幾たびか集まって貰い、協力をお願いしました。長きにわたり故郷・姫路には不在だった男が突然選挙に出るといって戻ってきて、応援して欲しいと云うのですから皆面食らったはずです。

しかし、皆さん文句も言わずに陣列に加わってくれました。父母が精一杯お付き合いをしてくれていたおかげです。いとこ会をするなどして旧交を温め、その友人達に輪を広げて行って貰いました。友人関係では、小学校を2年で転校していましたので、小、中、高校と殆どが神戸市在住のために苦労しました。それでも心あつい竹馬の友たちの尽力で、昔の依りを取り戻していったものです。また、姫路慶應倶楽部の名簿をたどって、先輩や後輩にアタックしました。そんな中で、忘れられないのは、ある先輩が「うーん、君は公明党か。俺は自民党の先生の後援会に入ってるんだ。塾の後輩だから何とかしてやりたいけど難しいなあ」と云われたことです。のちに、自公選挙協力をする段になって、往時を思い起こし、笑いあったことが懐かしく蘇ります。

土下座から泣きに至るまでの必死の闘い

選挙公示後はまさに必死で、土下座はするわ、泣きまくりもするわの2週間でした。全ての遊説を終えて事務所前での演説は未だ投票前だったのに、負けの予感がして悔し涙の演説をしてしまいました。のちにそれを近くで聴いてくれていた自転車屋の主人から、あの演説は実に胸に迫るものがあったと云われたものです。負けて泣くより勝って泣けーと云いますが、私は泣いて負けました。実に悔しい、無念の敗北でした。「常勝関西」の旗に傷つけてしまった、と。

期間中さまざまな人の応援を頂きましたが、創価学会芸術部の岸本加世子さんの応援は当然ながら凄い人気でした。みゆき通りを挨拶しながら歩いたのですが、あっという間の人だかり、候補者の存在なんか全く関係なし。たちどころに二人は離れ離れになる始末。彼女は「赤松さん、しっかり横にいて」とたびたび、手を固く繋ぎなおしてくれました。(続く=敬称略)

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